このところ抽象的な表現が多く分かり辛かったものと反省しております。特に、前回の記事は理解しにくかったのではないでしょうか? いずれ書き改めますが・・
今回は、タイトルに示すように生々しいものです。これまでのようにボカした表現を改めダイレクトに述べていくことにします。
私は、これまでも明らかにしていますように、昭和43年に広島大学医学部を卒業しました。
当時、インターン闘争が終結する年度にあたっており、諸先輩の運動を引き継ぎ、この運動に加わりました。インターン廃止後の1年間は43青医連広島支部を結成して、「医局講座制廃止」を唱え、当時、下村秀雄、長谷憲、安東千代らとともに活動を行い、その考え方に同調し4名ともに、入局することなく、医師としての道を歩み始めました。
当時から神経学を極めるべく心に決めておりました。しかし、大学には精神神経科教室はあったものの現在のような神経内科専門の教室はありませんでした。
インターン廃止後の1年間は精神神経科教室のお世話になりましたが、この頃は小沼教授の心身症専門の精神医学に飽きたらず、直接、臨床から学ぶことにしました。
このため、昭和45年から国家公務員等共済組合連合会 呉共済病院・内科に勤務させて頂きました。
当時の内科医長は岡田啓成先生でした。この当時の神経疾患の殆どは脳卒中患者さんで大半を占められ、驚くことに1年以上も長期にわたって入院しているのがザラでした。
こういったことから、内科医長の岡田啓成先生はアポ(アポとは脳卒中患者のことです)嫌いで超有名でした。(救急入院させる患者が搬入されると、アポ狩りが始まる、といった具合でした)
この5年間の研修期間中は医学雑誌に掲載された記事には全て目を通し、さらに脳卒中関連の神経学の成書をコピイして(殆どが洋書でしたが)読み漁っていました。
このなかで最も感銘を受けたのが阪和病院・脳卒中診療部の入野忠芳先生の脳梗塞の再開通現象という「臨床科学」に掲載されていた記事でした。
このため、脳血管撮影の必要性を考え、内科医長の許可をもらって、広島市民病院の脳神経外科の三宅新太郎部長に「脳血管撮影」の手解きを受けに毎週1回広島市まで通っておりました。当時、入局されたばかりの医局員と一緒に指導して戴き、金属針からエラスター針へと方式を変更し、1発穿刺の極意を伝授して戴きました。ここに至るまでは、毎日毎日手首のスナップを効かす動きを夜中に夢の中でも出てくるまで練習させられました。
野球・テニスでいう”素振り”に相当するものと理解して下さい。
当時の脳神経分野での検査法は、CTのない時代でしたから脳血管撮影は必須の検査法になっており、これが習得できない脳神経外科医は途中で断念しなくてはなりません。
5年間の臨床研修が終了した時点で、秋田県立脳血管研究センターでの研修の許可を得ました。当時は、脳梗塞急性期に脳血管撮影を行う施設は、この秋田県立脳血管研究センター、美原記念病院・脳神経外科、阪和病院・脳卒中診療部の3カ所だけでした。
当時のセンター長の沓沢敬之先生は”来るもの拒まず”の姿勢で研修を受け入れて頂きました。ここでの研修期間中には九州大学から田川皓一先生も来ておられ、神経学の”イロハ”を教えて頂きました。ここでの研修は短期間ではありましたが、これによって後々、神経内科医の専門医試験の受験に際して役立ちました。
脳卒中診療の真髄の何たるかを教わりました。特に、早朝にセンター全員が揃って行われるカンファレンスでは、貴重な体験を極めて多く得させて戴いたのが忘れられません。
当時のセンターでは、日本で初めてCTスキャンがテスト運転をしている最中でした。 CT画像を初めて見た感激はいまだに忘れることはできません。それまでは、脳血管撮影でしか、頭蓋内病変を読み取るしかなかったため、視覚的にダイレクトに病変が描かれていましたので・・
当時の脳神経外科部長の伊藤善太郎先生が40歳の若さで脳出血で急死されたのはショックでした。
秋田から帰った後は、ただひたすらに「急性期脳梗塞」の診療に没頭しました。
私のように、脳卒中の診断手技が、文部省研究班の「診断基準」をもとにした「神経学的検査法」に始まって、脳血管撮影さらにCT検査、最後はMRI検査と移行していった時代を駆け抜けた人間は少ないと考えております。とにかく「既成の概念」に捕らわれることなく道を切り開いていったように考えております。
その当時は、急性期脳梗塞では、脳血管撮影は禁忌とされておりました。すなわち、当時の神経学の教科書には60歳以上の脳血管障害患者には脳血管撮影は絶対してはならない、と記載されていました。ところが、脳梗塞は70歳以上の方々が最も多いことから、すべて、こうした脳血管撮影は危険な検査とされ、わずか脳外科医が発症1カ月後に細々となされていた程度でした。
しかし、このような考え方は全く無視し、最も危険とされるクモ幕下出血ですら脳外科では脳動脈瘤を検索するために脳血管撮影が行われており、詰まった血管に造影剤を注入して何が悪いのか」といった考え方で、脳梗塞発症当日から、勇猛果敢に脳血管撮影を行っておりました。ただ、1発穿刺を心掛け、壁内注入を絶対にしないことを条件に・・
壁内注入とは、穿刺針の一部が血管壁に食い込んだ状態で造影剤を注入してしまうことを意味しています。このような状態で注入器で造影剤を注入すれば、場合によっては致命的になってしまうからです。これを避けるためにも注入器を使わず、手動で造影剤を注入していました。こういったことからもレントゲン被曝の問題が避けられませんでした。
しかし、当時の脳神経外科医からはことごとく反目されていました。この検査手技を伝授してくれた三宅先生は、”キチガイに刃物を持たせた”と非難されたようです・・
このようにして、日々蓄積された知見を毎月まとめて、広島医学雑誌に投稿し、その数は40編に及びました。
これまでの論文
1.慢性血液透析患者に併発した脳血管障害の臨床病理学的検討。広島医学31:44-48,1978.
2.脳梗塞の神経放射線学的検討ー特に基底核・視床小梗塞巣を中心としてー。広島医学32:26-35,1979.
3.長期にわたり局所充血所見(Capillary blush およびEarly venous filling)を呈した脳梗塞の1 例。広島医学32:34-39,1979.
4.脳梗塞の臨床的・神経放射線学的検討ーとくに再開通現象についてー。広島医学2:9-15,1979.
5.出血性脳梗塞について。広島医学33:54-59,1980.
6.脳梗塞におけるContrast enhancement.広島医学33:28-34,1980.
7.椎骨・脳底動脈狭窄ないし閉塞症のCT所見について。広島医学33:18-27,1980.
8.脳梗塞における脳浮腫の検討。広島医学34:24-32,1981.
9.脳梗塞に伴つた慢性硬膜下血腫の2 症例。広島医学34:20-26,1981.
10.高齢者脳動脈瘤によるクモ膜下出血について。広島医学34:23-27,1981.
11.脳梗塞ー再開通症例の臨床的検討(第2 報)。広島医学36:43-47,1983.
12.脳梗塞における内頚動脈病変の意義。広島医学36:34-36,1983.
13.超音波ドップラー血管造影法による頚動脈分岐部病変の診断ーANGIOSCAN FLOWMAP による正常例の検討ー。広島医学37:41-47,1984.
14.超音波血流動態測定装置ANGIOSCAN FLOW MAP による頚動脈分岐部病変の診断ー脳血管写施行122 例との対比検討ー。広島医学37:13-19,1984.
15.超音波ドップラー法による椎骨動脈血流検査ー超音波血流動態測定装置ANGIOSCANFLOW MAP による正常例173 例の検討ー。広島医学37:23-26,1984.
16.Lacunar infarction の臨床的検討。広島医学38:26-32,1985.
17.脳卒中型内頚動脈閉塞症の臨床的検討。広島医学38:3-9,1985.
18.中大脳動脈閉塞症(脳卒中型)の臨床的検討ーとくに機能予後についてー広島医学38:8-14,1985.
19.脳梗塞と再開通現象。広島医学38:97-101,1985.
20.発症早期に血行再開した脳底動脈閉塞症の1 例。広島医学38:8-12,1985.
21.脳梗塞と悪性腫瘍の合併について。広島医学35:39-45,1982.
22.一過性脳虚血発作の臨床的検討ーとくに神経放射線学的検討ー。広島医学39:28-36,1986.
23.一過性脳虚血発作時及び発作後の脳血管写所見ーembolus の証明と消失ー。広島医学39:13-18,1986.
24.一過性脳虚血発作の臨床的検討。広島医学39:20-22,1986.
25.TIAで発症した慢性硬膜下血腫と未破裂脳動脈瘤を合併した1 例。広島医学39:80-82,1986.
26.脳梗塞の核磁気共鳴画像。広島医学40:87-94,1987.
27.脳梗塞症例の平均在院日数。広島医学40:48-52,1987.
28.脳梗塞の核磁気共鳴画像(第2 報)ー特に経時的変化についてー。広島医学40:80-86,1987.
29.脳梗塞の核磁気共鳴画像(第3 報)ー発症24 時間以内施行例の検討ー。広島医学40:9-18,1987.
30.脳梗塞の核磁気共鳴画像(第4 報)ーX線CTとの検出能の比較ー。広島医学40:3-6,1987.
31.脳梗塞のI-IMP による脳シンチグラム所見。広島医学40:6-12,1987.
32.脳梗塞の早期リハビリテーシヨン。広島医学40:67-74,1987.
33.救急医療をめぐる諸問題。共済医報29:63-72,1980.
34.再開通現象と出血性梗塞。共済医報29:76-82,1980.
35.脳梗塞と悪性腫瘍の合併について。共済医報31:36-47,1982.
36.脳梗塞の臨床的・神経放射線学的検討ー脳血管写施行297 例の検討ー。共済医報32:33-46,1983.
37.超音波血流動態測定装置ANGIOSCAN FLOW MAP による頚動脈分岐部および椎骨動脈病変の診断。共済医報33:50-63,1984.
38.脳梗塞の臨床。共済医報35:1-27,1986.
39.一過性脳虚血発作の神経放射線学的検討。共済医報35:25-39,1986.
40.脳梗塞の核磁気共鳴画像。共済医報36:39-53,1987.
こうした診療をひたすら行っていた最中の出来事でした。
最初に述べましたように、私は、昭和43年に国立の三流大学とされる広島大学医学部を卒業しました。卒業年度は当時、インターン闘争の最終の終結の段階にありました。インターン廃止により、自主研修となりましたが、卒業後1年間は、青医連を結成し、医局講座制廃止を訴え活動を行い、教授団交、大学封鎖等々行い、昭和45年には、大学の教室には入局することなく、当時の岡山大学第2内科教室のジッツ病院とされる国家公務員等共済組合連合会 呉共済病院の内科に勤務しました。当時の内科には、昭和43年に卒業した岡山大学第2内科教室からきていた同級生も2人いましたが、国立の三流大学医学部を卒業した私とは「格が違う」といった対応を受け、まさに「医局講座制」の現実を身をもって知らされました。
このような状況に置かれていたことから、岡山大学第2内科教室への入局と同時に学位を500万円で買うように病院長から話がありました。
ところが、500万円というお金がないことはもとより、青医連広島支部・委員長の名ばかりではあるものの肩書きから、同級生を裏切ることもありましたが、このまま医局に封じ込められる考えが全くなかったことから、丁重にお断りするしかありませんでした。
そして、これが、今後の方向を変える運命的な出来事へと進んでいきました。
要するに、病院長にまで登り詰めた岡田啓成先生の顔を潰したことになりました。
これまでの成績をすべてまとめた形で昭和60年に第34回共済学会総会で「宿題報告」として発表させて頂きました。
当時の共済学会総会での「宿題報告」は、病院長クラスの高齢の先生方が退官を前に、行うのが慣例となっていましたが、学位も出身教室もない40歳前の私がこのような「席」で発表することは異例中の異例なことでした。この発表の中で述べた「急性期脳梗塞の血行再開療法は発症3~4時間以内に行わない限り効果がない」との結論が、当時の呉共済病院病院長(当時、岡田啓成先生が病院長でした)の逆鱗に触れました。
どのようなことかと具体的に説明しますと、500床の病院であるにも拘わらず、連続血管撮影装置は1台しかなく、このため放射線科、循環器科、脳神経外科それと私が競って使うため、日常診療時間内では検査予定がぎっしり詰まっており、救急で搬入された脳卒中患者さんの検査が、すぐには行えない状況がありました。
さらに、時間外手当を削減するために時間外勤務が禁止されており、夜間とか休日には放射線技師を呼び出すことは禁じられておりました。
このため、これまでの成績から「急性期脳梗塞の血行再開療法は発症3~4時間以内に行わない限り効果がない」と言いながらも、これが現実には行えない状況が存在しました。
このような状況でしたので、撮影室のあいている時間に、迅速に行うことが要求されていました。
昭和60年頃は、病院の建て替え工事の最中でもあり、この計画書には、新たに「連続血管撮影装置」を設置する構想はなく、従来通りのままでした。
さらに、当時は「スポーツ医学」に着目した建築が進んでおり、プールを作ったり、これに関連した設備には惜しげもなくお金をつぎ込む割には、従来の分野には、新たな医療機器を導入する考えはまったく存在しませんでした。
アポ嫌いな岡田病院長ならではの発想でしかありませんでした。
当時、私の最も欲しかった医療機器はSPECTでした。しかし、このようなSPECTは全く無視されていました。
こうした状況にあったため、もうこれ以上呉共済病院にいても、今後、「急性期脳梗塞の血行再開療法」の夢は現実にならないとの考えに至りました。
このため、呉共済病院を離れるにあたって、学位も出身教室もないため、「専門医」の資格を取ることを考えました。こういった理由から「神経内科学会の専門医」をとることを考えましたが、当時も、出身教室の教授の推薦がなければ、専門医試験の受験資格が得られないとの規定がありました。教室を持たない私には致命的でした。(現在の、頭痛専門医の受験資格も同様です)
このため、これまで書いた論文40編を提げて、秋田県立脳血管研究センターの沓沢敬之先生に事情を説明して、沓沢先生の推薦状を頂くことによって受験資格を得ることができました。
しかし、合格したのは、呉共済病院を離れた後の平成元年になってからでした。
昭和60年以降は、毎週出版される「日本医事新報」の医師の求人欄に注目していました。
この広告欄に富永記念病院が「急性期脳卒中医療」を・・という広告に注目し、当時の院長の曽根憲昭先生に直接お会いして病院を案内して頂きました。その当時の記念病院の設備は、連続血管撮影装置を始めとしてCT、MRIとさらに私が最も欲しかったSPECT があり、おまけにPACKSまで装備されておりました。
これだけの設備さえあれば、出来ない仕事はないと考えて、直ちに勤務の応募をお願いし、間もなく、理事長の許可が下り、昭和63年の8月に呉共済病院を退職し、直ちに大阪の富永記念病院に勤務することになりました。
ここの富永記念病院(現在は、すでになく富永クリニックというベッドなしの医院になったようです)は大阪の大国町にあり、ナンバがすぐ近くにあるためか、毎日、救急車で5~6人は搬送されては来るのですが、ことごとく「急性アルコール中毒」か「過呼吸症候群」ばかりで急性期脳卒中患者は殆どといって搬入されることはありませんでした。
ところが、ある日、私の救急当番の際に、急性期脳卒中の患者さんが搬入された時のことです。救急隊の差し出す書類に「急性期脳卒中」と記載した時の救急隊員の顔が未だに忘れられません。”不信な様子”をされるため、それでは10分間待つように言って直ちにCTと血管撮影を行い、「左側内頸動脈閉塞症」と訂正しました。この時初めて、救急隊員は、患者の状態を診て、脳卒中ならどこの病院へ、「急性アルコール中毒」か「過呼吸症候群」なら富永記念病院へ、と予め決めているように思われました。
この患者さんは、失語症のため「物が言えず」右片麻痺もよく注意してみないと見落とされる程の軽いものであったため、救急隊員の判断を誤らせたものと思われました。
そして、これに追い打ちをかけるような事態が翌日にありました。それは、本院である「富永脳神経外科病院」の医局長から「患者の家族への断り」なしに脳血管撮影を行ったという理由で激しく叱責されました。私はこれまで呉共済病院では救急で脳梗塞患者が搬送された場合、CTで所見が無かった場合は、直ちに「家族の了承をとることなく」脳血管撮影を行うことにしていたためです。こうでもしない限り、治療上最適な「ゴールデンタイム」を無くしてしまうからです。といいますのは、発症後3時間以内に「血行再開療法」を行わない限り、何もならないと考えていたからです。
翌日、医局長に叱責されて、この病院には「救急隊員が脳卒中患者を連れて来ない」理由を初めて知った次第です。私は富永記念病院に1年8カ月お世話になりましたが、後にも先にも、急性期脳卒中患者を診たのが、この患者さんだけでした。
勤務した当初は、救急車で1日に5~6回は搬入されるのだから「脳卒中患者」さんもいずれは搬入されて来るだろうと思っていた考えが甘かったことを思い知らされる羽目になってしまいました。
この頃、同級生の牧野正直( 現在はハンセン病の国立療養所邑久光明園(名誉園長)医療法人愛命会泉原病院長に納まっていますが、学生時代の忘れられない思い出は、広島大学在学中の広島は、暴力団の打越組と共政会の抗争の激しい時代で、これをテーマにした映画「仁義なき戦い」が東映で作成され、菅原文太が「美能 幸三」を演じていたことを、ご記憶の方もおられるかと思います。当時、牧野とは、私が、暴力団も「ヤクザ」も同じだと言ったことで、殴り合いのケンカをしたことが思い出されます。それは、牧野自身が、神戸で「ヤクザ」の親分を父に持つ人間であることを後々知らされました。このことから、高倉健、鶴田浩二のヤクザ映画にのめり込み、最後は「仁義なき戦い」の5シリーズを観ることで納得させられましたが・・)が大阪微生物研究所にいましたが、この牧野から(先程の関係から)、私が、「富永記念病院」に勤務したことを色々忠告されました。それは、牧野自身が「ヤクザの親分」を父に持つということは「生粋の右翼」でした。「富永記念病院」の理事長が韓国の人間であるというたったそれだけのことで(現在では、韓流ブームで信じられないかも知れませんが)、あること無いこと諸々のことを申され、即刻、「富永記念病院」を辞めるように忠告されていました。また、これに加えて黄(台湾の出身)という同級生も大阪で肛門科を開業していましたが、この黄からも、同様に記念病院の評判を聞かされました。
しかし、私には、「急性期脳梗塞の血行再開療法」に夢を託して、ここまで来たのだからという考えが捨てきれずに、何とも信じがたい思いでした。
それは、富永紳介理事長も、曽根憲昭院長も学究肌の先生で、到底信じがたい思いでした。
記念病院での思い出として、初めて、この病院を案内して頂いた時から感じていたことですが、何か”異様な”臭いがするのです。この臭いの原因が何か分かりませんでした。
近くに借りたアパートから病院までの約5分間の間に気づいたことは、当時、まだ路上生活者が多く、また「靴屋」さんが多い街でしたので、この革製品の独特な臭いが街中に漂っておりました。
これに、病院内に入ると、これにさらにミックスしたものが感じられるのです。その臭いの元は、6階に厨房と食堂があり、いつも出される「キムチ」の臭いがありました。そして、これだけでもないのです。これにさらに何かが加わっているようでした。これが判明したのが、救急当番をした時でした。殆ど毎日、それも日に数回搬送されてくる「急性期アルコール中毒」患者さんの「吐物」の臭いでした。
こうした、革製品の臭い、キムチの臭い、吐物の臭いの3つがミックスされた臭いでした。このような、異様な臭いに包まれての毎日に加え、来る日も来る日も、「急性アルコール中毒」「過呼吸症候群」ばかり診察させられる羽目になってしまいました。
そして、呉共済病院を辞する際に、私の「師匠」である岡田啓成院長から、ぽっつりと寂しそうに呟かれた「これから行く病院は”ほんまものの病院なのか、まやかしの病院”ではないか」という言葉でした。しかし、もう引き返すことの出来ない道を歩み始めていることを悟らせられましたが、既に、時は遅かったのでした。
そこに、救急隊の一件があり心が揺らいでいました。こういった事情から、・・)和歌山県田辺市で医者を捜している医院があることを知らされ、余りにも執拗に勧められるため、もう急性期脳梗塞の血行再開療法を何時までも夢見てもどうにもならないと考えるようになっており、このまま辞めて田辺に行って、最後の砦としての「頭痛診療」をと考えるようになってしまいました。このため平成2年の3月で辞職し、田辺へ診療の場を移して、急性期脳卒中医療から身を引くことにしました。
この移った田辺の医院がとんでもない医院でした。医院は芳養医院といって、医院のオーナーは市会議員で、議員の仕事が忙しいため事務長にすべての医院経営を任せていたそうで、私が赴任する2年前に「病院の乗っ取りグループ」に医院を乗っ取られたそうです。このため、医院を取り返すために多額の借金を抱え込んだそうでした。結局、私を連れにきた理由は、乗っ取りグループと結託した前院長を追い出し、抱えた負債の返還をさせようと目論んだようでした。さらに悪いことは重なるもので、医療機器を購入するに当たっての仲介業者の策略に会い、結局、芳養医院は倒産してしまい、医院も競売にかけられオーナーも1年で変わってしまいました。この芳養医院が倒産してから、半年間は休診に追い込まれましたが、この間に諸々のことが判明しました。それは、牧野がなぜ、私をここへ連れてきたのかということでした。
芳養医院のオーナーの”恐らくは、後援者”のような立場の方がおられ、この方は、白浜の椿で旅館を経営されておられました。この方は”女傑”と称される程、恰幅のよい方で、牧野がこの旅館に大阪から遊びに来た時に知り合い、その人柄から、この芳養医院の話を聞いて、私の所へ持ってきたようでした。
しかし、芳養医院の名称は変更したものの、医院の開設者は同一であるというそれだけの理由から、前院長の医院負債まで背負い込むことになり、成和神経内科医院として再開した時点で、開始当初から多額の借金を背負い込んでの再出発となってしまいました。
このように、呉共済病院を退職してからの人生は一変して、まさに”蟻地獄”に落ちてしまった状態で、まさに地獄を見る思いでした。転落の人生とはこのことを意味しているようでした。風の便りに聞けば、あれだけ隆盛を極めていた呉共済病院も、私がいなくなってから、急性期脳卒中患者は、中国労災病院か国立呉病院に搬送され、呉共済病院には搬送されなくなり、一気に赤字病院へと転落してしまったそうですが、現在は当時一緒に仕事に遊びに励んだ同級生の小野哲也が病院長となり頑張っているようで、赤字も解消されたと聞いております。
このように、これまでを振り返ってみれば「学位を500万円で買っておれば・・」私の医師人生も全く変わっていたものになっていただろうにと反省されます。
裏口入学で高額な入学金を用意するのが常になっている世界に、私のように「500万円」が用意できなかったがために転落の人生を歩むことになったことから、前回の「貧乏人は医師になるべきではない」ということに繋がっていくことになります。
これで、ご理解戴けたしょうか?
ここでコマーシャルです。
頭痛が気になったら・・
https://ameblo.jp/yoyamono/entry-12638708200.html