医院を閉じて、早や半年近くなりますが・・ | 頭痛 あれこれ

頭痛 あれこれ

 「慢性頭痛」は私達の日常生活を送る際の問題点に対する”危険信号”です。
 このなかで「片頭痛」は、どのようにして引き起こされるのでしょうか。
 慢性頭痛改善は、「姿勢」と「食生活」の改善がすべてであり、「健康と美容」のための第一歩です。

 これまで、閉院後の残務整理が職員の不手際により遅れてしまっていましたが、2月末に支払基金から送付される予定の診療報酬の支払総額の書類で完結するまでとなりました。

 この半年間でやっと、医師としての診療業務から解放されホットしています。
 丁度、医院を閉じる時期に合わせるように、同じ神経内科の先生が当地域に新たに開院されたことによって永年お世話になった受付の医療事務担当の従業員を採用してもらった際に、新規開業のノウハウの一端を知ることができました。これと自院を比較することによって、なぜ私の医院が閉鎖せざるを得なくなったのかを思い知らされた次第でした。
 先日亡くなられた野球人の野村克也氏の口癖であった「努力をすれば、いつか報いられる」ということが如何に間違った考えであるかを思い知らされました。


 それは、目的にあった診療体勢を構築すること、これが出来なければ、いくら個人的に”努力”しようとも報いられることはない、ということでした。
 びっくりさせられたことは、従業員は”すべてパート扱い”で雇用し、看護師を置かないことでした。よく考えれば、社会保険料、賞与を支払わなくてよいわけですから、極めて身軽で目的とする診療が可能となるはずであり、ここが大きな違いでした。

 

 もう少し詳しく言えば、詐欺師まがいの同級生の牧野正直に紹介された医院は、以前医院乗っ取りグループに乗っ取られた診療所で、このため借金を重ねて、私が赴任した段階では競売が進行中であり、赴任1年で倒産してしまいました。
 競売で落札したのが建築会社で、落札した医院の市場調査もすることなく、法外な値段(1億円近くの差がありました)で落札したようでした。医院そのものは病床が二階にあり、歩行できる患者さんでなければ入院できませんでした。内科医院の診療所で歩行不能の患者さんが入院できないということは、まさに致命的でした。私の思い描いていた内科診療とは、急性期脳卒中診療でしたので、このような診療が全く不可能でした。
 このような極めて効率の悪い、稼げない典型例を示していたことになります。

 

 さらに、親会社からは事務長が送られてきており、この事務長が医療事務がどうのようなものかまったく理解しておらず、医療機器というものが一度購入すれば、故障・使えなくならない、といった考えしか持っていませんでした。
 このような頭が悪いのが歴代の事務長でした。
 そして、平成17年には親会社の建築会社の経営破綻により、医院は子会社の介護施設に身売りされてしまいました。にもかかわらず、競売での落札価格が法外な値段であったことから返済が終わっていなかったことから、地代家賃はなお高額のままであり、平成19年には医療機器が使い物にならなくなり、これが致命的となりました。
 結局、中古の医療機器を導入せざるを得なくなり、これが医院経営を破綻させる根源となってしまいました。

 

 このように医院の置かれた市場調査もすることもなく、法外な値段で医院を落札し、目的もなく漫然と診療を行っておれば、最終的には淘汰されていく運命にあるということでした。

 こういった状況では、いくら個人的な”努力”を行おうとも報われることはないと、ここ10年間で身に滲みて思い知らされました。
 閉院して思ったことは、貧乏人は開業すべきではないということです。
 親の代から医院を引き継ぎ、株式投資をしながら、優雅に副業で医院経営でもしなければ、楽しい開業医生活は送れないのが現実のようです。

 
 医院を閉じたもう一つの原因があります。それは、まさに医師として恥ずかしいことですが、レントゲン被曝の問題です。
 以前にもこのブログでも述べてきたことですが、医師になって以来放射線との関わりが極めて濃かったことです。まず、脳血管撮影です。昭和50年以降は、毎日平均5,6件の脳血管撮影を行っており、それも連続撮影で左右行うため、1件あたり32回の照射を受けていた計算になります。当時は、被爆線量を測定するフイルム・バッジを付けずに行っていました。今から思い起こせば、毎週末は何とも表現できないような異様な体の怠さを感じており、この当時からレントゲンの浴び過ぎを感じていました。
 こういったことから、脳卒中専門病院への転職を真剣に考え、大阪の富永記念病院へ移った事情があります。専門病院であれば、自分一人で脳血管撮影をしないで済むからでした。

 ところが、大阪の富永記念病院に在職中に、最初に述べた詐欺師まがいの同級生の牧野正直に、記念病院の悪評を吹聴され、和歌山の田辺の医院を勧められた訳です。

 ところが、和歌山の田辺の医院に赴任して以来、胃透視・注腸造影や頸椎X線検査を行う際に、操作室からマイクを通して患者さんに口頭で右を向け・左を向けと指示しても、的確に動いてくれる患者さんは誰もいないことから、撮影時にプロテクターを装着して患者さんの横で一々手で支えて動きを誘導するようにしていました。撮影時にプロテクターを装着しているもののレントゲンは直接被爆してしまうことになります。
 これを約30年間に渡って行っていたことになります。
 結局、50年間に渡って、レントゲンを被爆し続けた結果に過ぎませんが、恥ずかしい限りです。

 昨年2月に生殖腺の異常に気が付き、レントゲンの浴び過ぎを指摘されました。
 思い起こせば、平成19年5月に右胸水の貯留のため入院したことがありますが、当時は肺炎による胸水の貯留と診断されましたが、少なくとも肺炎を裏付ける胸水の性状ではありませんでした。 

 この胸水の検査も1回だけしか行われず、本来なら1週間に1回は胸水の細胞診を行う必要があったにも関わらず、行われることはなかったため「肺炎による胸水の貯留」と診断することしか出来なかったはずです。
 こういったことは、当紀南地区の総合病院には貧しいため(県自体が貧困なため)病理医が存在せず、「肺炎による胸水の貯留」と診断せざるを得なかったようです。
 このように和歌山県は貧しい県ですので、病理医を抱えることのできる病院は限られているということです。つい最近、病理医が赴任した始末で、それも極めて一部だけです)
 このような「肺炎による胸水の貯留」といった診断は、和歌山県下だけの診断のようで、私には到底理解できないことでした。
 いずれにしても、以来COPDとの診断を下され、呼吸機能の低下は潜在していましたが、昨年2月以降、この呼吸機能の低下が急激に進展してきました。
 このことから、レントゲンの被爆を無くさなければと考えていましたが、つい伸び伸びとなり8月末に、医院中止を決断した次第でした。

 

 医院を閉じて以来、これまで自分の好きなことをして気ままに生活してきましたが、最後に私がするべきことが一つ残されていることに気付かされました。
 それは、先日も記事にしましたが、専門家は「慢性頭痛治療のガイドライン」を改訂を目論んでいます。それも、考え方は従来のものとは寸分異なることはなく、新たな知見を追加するだけのことです。ということは、いつまでも「片頭痛」を残存させることが目的なのです。このような改訂をこのまま許すことになれば、あと10年間は現状維持ということを意味しています。
 ですから、私が生きている限りは、このようなことを放置する訳にはいきません。

 こういったことから、当ブログの体裁を少しずつ変更し、読みやすいように作り変えていくことに致します。


 その手始めに、テーマとして「治療指針・マニュアル」を追加して、ここにこれまで作成した治療指針をまとめて掲載し、すぐに閲覧できるようにすることにしました。


 これまで、途中からこのテーマによる分類ができなくなり、「ブログ」のなかに全てを収録せざるを得なくなっておりましたが、これを少しずつ整理していく予定です。

 

 なお、最近気がついたことがあります。といいますのは、ベストセラーになる書籍は、「ミトコンドリア」とか「体の歪み(ストレートネック)」「生理活性物質」といった用語はありません。

 今回、こうした用語を書き換えようかとも思いましたが、逆に、誤解の根源になるものと思われ、敢えて専門家との考え方を明確にさせる意味合いで残すことにします。

 「体の歪み(ストレートネック)」は「姿勢の悪さ」であり、「ミトコンドリア」は「生命の根源」とか「大宇宙」とか表現されているようです。