一般開業医からみた慢性頭痛 その11 一匹狼 | 頭痛 あれこれ

頭痛 あれこれ

 「慢性頭痛」は私達の日常生活を送る際の問題点に対する”危険信号”です。
 このなかで「片頭痛」は、どのようにして引き起こされるのでしょうか。
 慢性頭痛改善は、「姿勢」と「食生活」の改善がすべてであり、「健康と美容」のための第一歩です。

 先程の「頭痛とストレートネック」の臨床成績を出した後の最後の問題は、統計処理でした。この最後の詰めができなかったのが残念でなりませんでした。
 このときばかりは、「一匹狼の悲哀」を感じざるを得ませんでした。
 国家公務員等共済組合連合会 呉共済病院に勤務していた当時は、広島大学医学部の先輩である伊藤美佐男先生という統計処理の達人が内科におられました。ですから、私自身も当時は40編の論文を仕上げましたが、これらは全て伊藤先生にお願いして有意差検定をその都度行ってもらっておりました。当時は、これが当たり前の世界と思っていました。(伊藤先生は広大から5年後に赴任され、仲間意識から気楽にお願いしていました)

 ところが、こうした統計処理も久しぶりに作成した「頭痛とストレートネック」に関しては、伊藤先生も亡くなられており、誰にもお願いできませんでした。
 このため、もう一歩のところで何もならなくなってしまいました。


 しかし、後になって分子化学療法研究所の後藤日出夫先生の「片頭痛はミトコンドリアの機能異常である」という観点から、「セロトニン神経の働き」がこのために悪くなった結果、「脳内セロトニンの低下」がもたらされることになり、この両者から、「体の歪み(ストレートネック)」が引き起こされるという考えに至り、必然的に、「頭痛とストレートネック」はエビデンスあり、と結論することが可能となりました。
 確かに、臨床データを統計処理を行って、このような結果を導き出すことはできませんでしたが、理論的に考える限り、問題はなかったようでした。


 こうしたことだけでなく、これまでの私の医師としての生活は全て「一匹狼」そのもののように思っております。
 
 昭和43年医学部卒業する当時はインターン闘争の最終年度にあたり、引き続いて43青医連 広島支部の委員長として1年間、活動する中で、国家試験ボイコットも経験し、医局講座制廃止を唱えて、その後の医師人生を歩み始めました。
 昭和45年に勤務した国家公務員等共済組合連合会 呉共済病院・内科は岡山大学医学部第2内科のジッツ病院でした。このため異邦人のような立場での勤務でした。勤務当時、同じ43年に卒業した岡山大学卒業の同級生が2人いました。この2人は、スト破りと非難したグループとも言うべき存在で、国家試験をボイコットすることなく合格し、私より1年前に医師になっていました。(このなかの1人が、現在、病院長になりましたが・・)。このため、勤務当初から、同じ43年卒業でありながら、孤独な”一匹狼の立場”が始まりました。
 そして、神経学の修得を目指して、当時は急性期脳卒中医を志して、内科医でありながら、脳血管撮影の検査手技を身につけ、急性期脳梗塞の道に足を踏み入れました。
 これは、旧来の急性期脳梗塞診療に飽きたらず”新たな道”を進もうとした結果でした。
 このため、当時の内科医および脳神経外科医とは一線を画して独自の診療体系で診療してきました。これが、第2の「一匹狼」の生き方でした。当時は、急性期脳梗塞患者には脳血管撮影を行ってはならないという原則を無視して行ったためです。しかし、こうしたデータを積み重ねることによって、現在のような「アルテプラーゼ静注療法という急性期脳梗塞の血行再開療法」の”礎”となったものと思っております。


 そして、第3の「一匹狼」の医師人生は、”頭痛医療の世界”です。現在の学会の考え方に真っ向から異を唱え、これまで述べてきましたような考え方を貫き通しています。
 学会および頭痛専門医の考え方に異を唱えるのは、以前の急性期脳梗塞に対する”重鎮と称されるされる”先生方に異を唱えて行ってきたことと全く同じです。
 このような考え方をするのは、私が「医局講座制」を否定するからに他なりません。私が入局して、教授の意向に従う限りは、このような発想は到底不可能と今でも思っております。
 脳梗塞の場合も慢性頭痛の場合も、先達の業績を踏まえ、何が本質なのかだけを考えて行ってきたことであり、こうした考え方を阻害するものは「医局講座制」しかありません。
 ”自分は、こう考えるのに”と思いながら、教室の教授の顔色を伺いながら研究をせざるを得ない現実が存在します。こうした中での研究は研究でも何でもないと思うからです。
 少なくとも、頭痛専門医のなかで、正面きって、「国際頭痛分類 第3版 β版」に異を唱える人間がおられるのでしょうか?


 私が、急性期脳梗塞の臨床研究に邁進していた当初は、日本では秋田脳血管研究センター、美原記念病院、阪和病院脳卒中診療部の3つの施設しかなく、四面楚歌のなかでのスタートでしたが、その後、日本全国へと燎原の火の如く拡がっていったことは忘れられません。そして、こうした考え方が一般化されていった事実は脳裏に刻まれています。


 そして、頭痛診療の中では、分子化学療法研究所の後藤日出夫先生が一昨年から参入され、心強い味方ができたものと考えております。さらに、読者の多くの方々が「自分で、片頭痛を改善された」のを見るに付け、やはり「私の頭痛医療の”師匠”は頭痛患者さん以外はない」と思っております。決して、「国際頭痛分類 第3版 β版」ではないと思っております。こう考える限り、第3の「一匹狼」の医師人生は、”頭痛医療の世界”である、といった悲壮感から解放される日も近いものと思っております。