老神経内科医のボヤキ その13 最も、残念なこと | 頭痛 あれこれ

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 「慢性頭痛」は私達の日常生活を送る際の問題点に対する”危険信号”です。
 このなかで「片頭痛」は、どのようにして引き起こされるのでしょうか。
 慢性頭痛改善は、「姿勢」と「食生活」の改善がすべてであり、「健康と美容」のための第一歩です。

「老神経内科医のボヤキ」のテーマとして、省略できない項目があります。それは、自分自身の手で、急性期脳梗塞の血行再開療法が完結できなかったことです。現在では、rt-PA(アルテプラーゼ)静注療法が確立されましたが、ここに至ることができなかったことです。これまでも、再三、随所で述べてきたことですが・・・


 私が、医師になった昭和45年当時は、脳卒中の診断は文部省研究班の診断基準に従って行われていました。これは、問診と同時に「神経学的検査法」を駆使して診断するものです。頭痛診療と比較しますと、文部省研究班の診断基準は「国際頭痛分類 第3版 β版」に相当するものです。頭痛の場合は、すでに画像検査が存在するわけですので、診断精度には、格段の差があるはずです。ところが、脳卒中の場合、患者さんに意識障害があったり、独りで生活していて発作時に誰もいない場合は、得られる情報は限られ、「神経学的検査法」だけで判断しなくてはなりませんでした。こういったことから、文部省研究班の診断基準による診断の正診率は70%前後とされていました。こうしたことから、この診断率を向上させるために日本では秋田県立脳血管研究センター、美原記念病院、阪和病院脳卒中診療部の3施設が、急性期脳卒中に対して、脳血管撮影を導入していました。
 このため、私も、将来の脳卒中医を目指して「脳血管撮影」の手技を身につけるために、広島市民病院・脳神経外科の三宅新太郎先生の教えを乞いました。週1回でしたが、内科研修の5年間の間に、一発穿刺という100発100中までに腕を磨きました。当時は、呉地区には脳神経外科医はおられず、このためクモ膜下出血の方々は、私自身が脳血管撮影を行って脳動脈瘤を描出させた上で、救急車に同乗して患者さんを搬送していました。
 こうしたことから、当時の神経学の教科書には急性期脳卒中には脳血管撮影はしてはならないと禁忌事項とされていたにも関わらず、勇猛果敢に発症当日に脳血管撮影を行っていました。当時の脳卒中学は、基本的に安静が一番とされ、リハビリテーシヨンそのものも殆ど確立されたものもなく、発症1カ月間はベッド上の臥床を強いられていました。
 内科研修5年間終了と同時に、秋田県立脳血管研究センターへの研修を志願し、最先端の脳卒中診療のあり方を叩き込まれました。当時のセンターには日本全国から将来の脳卒中医を志して、多くの方々が3カ月毎に研修に訪れていました。このセンターの特徴は、毎朝、前日救急で搬送された症例をもとに、センターの神経内科医、脳神経外科医、神経放射線科医、神経病理、神経疫学、それに研修生が集まり、熱気あふれた議論が戦わされていました。当時、日本で初めて頭部CT、エミスキャナーの試運転の行われていた最中でした。当時のCT画像は荒かったのですが、未だに鮮明に脳裏に焼き付いています。
 研修終了後、呉に帰ってから、CT装置の導入を内科医長にお願いし導入してもらいました。これ以降は、急性期脳卒中患者が搬送されれば、直ちにCT検査を行い、所見がなければ、すぐに脳血管撮影をおこなう検査方式を確立しました。そして、脳血管撮影上、閉塞所見があれば、1週間後に再度脳血管撮影を行い、閉塞所見の再開通の有無を確認していました。当時は、血栓溶解剤としてウロキナーゼがありましたので・・
 この間には、側副血行の状態を検査目的で、健側の血管撮影を追加して行います。

 このように検査、検査で明け暮れました。当時は、得られる所見は目新しいものばかりで新鮮なもので、毎月広島医学雑誌に投稿していました。10年間このような生活の繰り返しで、昭和60年過ぎには、毎週・毎日5,6件の血管撮影をそれも連続撮影で行っていたためレントゲンの被爆量は莫大なもので、週末には得も言われない体のだるさを感じるようになり、このままではいけないと考え、脳卒中専門病院への転職を考えました。


 このような病院であれば、多数の医師がいて自分一人で検査することもなく、レントゲンの被爆量も減るのではないかと、浅はかにも考え、大阪の富永記念病院に昭和63年8月に移りました。しかし、移った大阪の富永記念病院では、救急車は1日の5,6回は患者さんを搬入するものの、すべて急性アルコール中毒か過呼吸症候群の方々ばかりでした。
来る日も来る日も、脳卒中患者さんは運ばれてくることはありませんでした。ところが、ある日私の救急当番の日に、年寄りの行き倒れということで搬入されました。診察により、右不全麻痺と失語症があり、救急隊の差し出す書類に「急性期脳卒中」と記載しました。この時の救急隊の怪訝な顔つきが未だに忘れることはできません。このため、10分間待つように言って、CTと脳血管撮影を行い、「左内頸動脈閉塞症」と書類を書き改めました。ここで、初めて気がついたのです。救急隊は、脳卒中ならどこの病院へ、急性アルコール中毒か過呼吸症候群なら富永記念病院へ、というように決めていたようでした。
 こういったことであれば、いつまでも待っても仕方ないと諦めるしかありませんでした。
 こういったことから、1年8カ月いた間に脳卒中患者を診たのは後にも先にも、この1例だけでした。これも、これ以上脳卒中医を持続すれば、放射線障害で命を落としますよという神様に思し召しと考え、急性期脳卒中診療は泣く泣く断念しました。


 そして、その後は、田辺で最後の砦とする「頭痛医療」に切り替えた次第です。


 この10年後に、アルテプラーゼが開発されたわけですが、あのまま国家公務員等共済組合連合会 呉共済病院に居座って脳卒中診療を継続しておれば、誠の「急性期脳梗塞の血行再開療法」を実感できていたものを、と返す返すも残念でなりません。これが、私の人生最大の”ボヤキ”でもあります。しかし、仮にその後10年、それまでと同じようにレントゲンを浴びまくっておれば、現在はなかったかもしれません。


  脳梗塞の臨床 共済医報35:1-27,1986


     http://taku1902.jp/sub140.pdf