接吻/万田邦敏




恐らく今年度の日本映画ベストワン。

素晴らし過ぎる。


京子(小池)が無差別殺人犯の坂口(豊川)と自己同一化していく

⇒ラストシーンへの一連の流れは『自罰パラノイア』

壁を隔てて対話する京子と坂口、

坂口の家庭環境、

手紙を常に音読する京子、

坂口が長谷川(仲村)へ吐露する罪の意識、

坂口の控訴等は『鏡像段階論』

とラカンの理論に根ざして作られているのだが

それを型通りに説明して終わらず

ラストのカタルシスで全て破壊する大胆さと美しさ!


坂口の生い立ちや思考については徐々に明らかになっていくが
(京子は坂口の様々な情報を記録するようにノートへ書き込んでいく)

京子についての説明は全くないという点も注目するべきポイントだ。
(親族・学歴・住んでいる場所・会社名さえ分からない)

京子は様々な情報を手に入れる事で坂口と自己同一を深めていくが、

坂口は京子という無個性な存在によって

空虚なベース(エス)を積極的に引き受けていく結果になる。

坂口の京子に対する「君と僕は同じじゃない」という台詞や

殺した家族の悪夢、看守の前で嗚咽を洩らすシーンからは

自己と他者の不均一及びエスと向き合う人間の姿が鮮明に映し出される。

『罪と罰』や『異邦人』においてもそうだが

最終的に【罪悪感】とは、

社会的道徳を基準にした一定のルールにおいての物ではなく

エスと向き合う事(自己VS自己)だと明瞭に語るのだ。


■長谷川が坂口の事を知れば知るほど京子に惹かれていく
■坂口が京子を媒介せず長谷川に独白する
■それを知った京子は長谷川に嫉妬する

という三角関係の中心にあるのも

他者と自己を同一化できない根源的な空虚さだ。

画面から迸るあの熱は空虚さを受け入れつつも、

それを破壊しようとしてもがく人間の強さと弱さなのか。

酔いどれ詩人になるまえに/ベント・ハーメル



ずっと観ようと思って、見逃して、やっとDVDで鑑賞。
原作ファンの期待を裏切らない素晴らしい出来映え。
ああ、やっぱり映画館で観たかった・・・・・・
虚無感に満ち満ちている。
チナスキーとジャンの恋は何処にも接続しないからこそ切ないのか。
「気が付いてるだろ?お互いもう必要じゃないんだ・・・」

恋が死ぬ瞬間、否、死んだ恋の確認の瞬間か。

切ないとかじゃない。

胸に空洞が拡がるんだ。
職場の窓から煙草を吸うために窓を開ける⇒
パンして外側からのカメラ、窓から顔を出すチナスキー
の構図がやたらよくて痺れた。

パラノイドパーク/ガス・ヴァン・サント




エレファント以来のスタンダード。

ガス・ヴァン・サントのスタンダードは閉塞感がある。

文法のバラバラ感もいいな。

ライ麦畑。

でもなにより音響だ。

ニーノ・ロータ!

フェリーニ!!

そしてイーサン・ローズの音楽とクリストファー・ドイルのカメラのマッチング。

なんだ、あの光は。

クリストファー・ドイルはまぎれもなく天才だ。

ラスト、コーション/アン・リー




2月公開でまだやってる。

凄いロングランだ。

『私たちの愛は全て演技である』と菊地成孔さんもおっしゃていましたが

何処から演技で何処からが本当の愛かなんて

本人にしか分からないんだろうな。

愛と虚無感は二律背反だ。

暗闇の中にこそ真実はあるのか。

4ヶ月、3週と2日/クリスティアン・ムンジウ




ストーリーも映像も音も物凄くザラザラしていた。

クローズ・アップで主人公を撮っていて
主人公がカメラを置き去りにして

ロング・ショットになるという絵は別に目新しくはないけれど、

その撮り方はザラザラした空気感にはとてもよく似合っていた。

カメラを置き去りにしていく或いはされていく、

孤独感というか断絶感というか。


しかし最近のカンヌの傾向として
『エレファント』しかり『息子のまなざし』しかり『Clean』しかり
ハンディカムによる背後からの超至近距離ショットの映画に

高い評価が集中している。

何も起こらない日常をただダラダラ撮る映画が増えているのもそうだけれど
世界とスクリーンの距離がより近付いているからなのかもしれない。

というかミニマムな視点ばかりが評価されているという事か。



ダージリン急行/ウェス・アンダーソン




ロードムーヴィーなのに密室コント。
ウェス・アンダーソンのコメディセンスは最高過ぎる。
ドキドキするくらい素敵だ。
葬式の日に車を取りいくシーンとか
空港で飛行機を待つ間のシーンの美しさと楽しさといったら!
「旅をする=生きる」という事は楽しいし悲しいし
どんな今日でも明日に続いていく。

その連続性。
time goes on.

肝に銘じて明日も頑張っていこう。