辛国神社 | 空と海・・・ときどき山のブログ

 

 西国巡礼の下見(ルートの確認や駐車場の場所など)はだいたい朝三時起きです。

 下見なので日帰りで、早いときは夕方の六時、遅いときは深夜一時とか二時に帰宅。

 過密スケジュールなので昼飯も食べたり食べなかったり、

同乗者がいるときは車の運転も交替したり、後部座席で寝たりします。

 知人の特認先達は『もっと駆け足で、素早く歩け』と激を飛ばしますが

言われた私は(何だか競歩みたいだな)と思う。

 お寺の御朱印を書いて頂く所(本堂・納経所)の開いている時間に書いてもらわないと

当日のスケジュールが合わなくなってくるからです。

 

 その為、西国巡礼のお寺の近くにある名所や名勝、観光地がなかなか行けない。

 それでも天橋立や竹林の小径、橿原神宮はなんとか訪問できた。

 

 

 辛国神社(からくにじんじゃ)は、西国巡礼五番目葛井寺の近くにあります。

 この日は雨がひどかったせいもあり、参拝客が少なかった。

 

 

 

 説明板を拝読

 辛國神社由緒

御祭神  饒速日命(にぎはやひのみこと)

       天児屋根命(あめのこやねのみこと)

       素盞鳴命(すさのおのみこと)

相殿    品陀別命(ほんだわけのみこと)

       市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)

 

 当社は、五世紀後期第二十一代雄略天皇の御代に

創建された式内社であります。

 日本書記に「雄略天皇十三年春三月、餌香長野邑(えかながのむら)を

物部目大連に賜う」とあり、古代餌香長野邑の地とされるこの藤井寺の地に

物部目大連がその祖神 饒速日命を奉斎したのが当社の始まりです。

 この後、六世紀後半、物部氏宗家の守屋大連の没後、一族の

物部辛国連(からくにのむらじ)が氏神として祭祀したことにより

辛國神社と称するようになりました。

 

 また平安時代に入り、六国史の三代実録には「清和天皇貞観九年二月二十六日

河内国志紀郡辛國神を官社に預かる」とあり、朝廷の神祇官の

神名帳に記載され、平安時代には格式ある官社に列せられています。

 その後、室町時代に河内守護職の畠山基國(もとくに)氏が

社領二百石を寄進のうえ、社頭を整備し、奈良春日大社から

天児屋根命を勧請合祀しました。

 

 以後、庶民の信仰を集め、江戸時代の古文書や絵図には

岡村氏神・春日大明神と書かれており、江戸時代後期まで

「春日大明神」「春日社」と称せられていました。

 

 そして時代が明治へと移る頃、復古情勢の中、古来の

名称である辛國神社に改称され、さらに明治四十一年には

旧藤井寺村の村社であった長野神社の御祭神 素盞鳴命を

合祀して、現在に至っております。

 

 辛國神社の祭事

・歳旦祭       一月一日

・節分祭       節分の日

・春日稲荷祭    春分の日

・水無月の大祓式 六月三十日

・夏祭          七月十七日

・御例祭        十月十七日

・月次祭        毎月一日

 

 

 絵馬を見ると、いつ訪れたかが何となく分かる。

 

 

 別日に撮影した写真

 このころは、右側に商店街のアーケードがあり、屋根があって

雨露しのげるなぁと思っていましたが、どうも最近

屋根は無くなったようだ。