水野家墓所 | 空と海・・・ときどき山のブログ

 写真撮影日を見ると2019年6月29日でした。

 写真が古くてどうもすいません。

 

 『水野の殿様』で親しまれた大名たちの墓所でしょう。

 

 

 観光案内の看板に書いてあった『一間四方の不動堂があり・・・』

とはこの建物のことだろうか。

 

 以下は観光案内板の記述より

国指定史跡 新宮城跡附指定

 水野家墓所

指定年月日 平成十五(2003)年 8月27日

紀州藩新宮領主 水野家の墓所

 

 元和五年(1619年) 徳川家康のいとこ水野重仲(しげなか)が

徳川御三家の紀州藩主頼宣(よりのぶ)の附家老として新宮領(三万五千石)を

与えられた。

 以降、水野家は紀州藩江戸詰の附家老として新宮城を中心に

明治初年まで十代にわたり政治を行った。

 当地に墓所が築かれたのは初代城主の重仲が卒去してまもなくのようである。

重仲の本葬地は和歌山市直川(のうがわ)だが、その菩提寺 全正寺の過去帳には

元和七年(1621年)11月に全正寺で火葬し新宮市橋本に納骨とあるように

この地に分骨を納めて水野家の墓所としたのだろう。

 その後、歴代城主や夫人の墓碑が順次、建てられたが

ここに本葬されている城主は第九代の忠央(ただなか)のみである。

 

 自然林に覆われた墓所の入り口左側には一間四方の不動堂があり

また石階段を登ると墓碑十六基が参道に面して並ぶ。

 これらの墓碑はほぼ同じ形で熊野産の流紋岩(花崗斑岩)である。

 つきあたりには「水野家累世之霊塔」が建つ。

 近世の歴代城主の墓碑がまとまった形で現存している貴重な史跡であり

新宮の政治・文化を理解するうえでも大切な墓所である。

 

 阿須賀神社と神倉神社には二代城主 水野重良(しげよし)が

寄進した手水鉢があります。

 

 八甲田山雪中行軍で遭難した将軍だろうか。

 

 水野家墓所周辺には専用駐車場が見つけられなかったので

神倉神社の駐車場から歩きました。

 (写真は帰り道 新宮高校の裏手)