こんばんは、るっちです。
まもなくツーデイズでございますね。
◾️いちにちめ
2022/3/7(MOON)_ネオ東京池袋手刀ドーム
◆東狂3卍界「花粉のように・・・」
◆出演(BIG 3):
THE NOSTRADAMNZ
I hate your rules.
MUNIMUNI
◎前売パー券予約制;*2/2 23:11~受付開始
tiget.net/events/166508
◾️ににちめ
2022年3月8日(火) 新宿ANTIKNOCK
3470.mon主催イベント「弥生の玉兎祭」
出演:3470.mon / 死んだパンダ噛んだズ / 慎一郎&杏太 / THE NOSTRADAMNZ
OPEN:16:30 / START:17:00
前売:3,000円 / 当日:3,500円
URL:t.livepocket.jp/e/3470_mar_8
これ、2日とも来てほしいなって思うんですけど、ぼくは、99年のバックステージパスという雑誌に載っていた、ラルクのtetsuyaさんの、arkとrayの同時発売に際してのインタビューで、『装丁にお金がかかるから値上げしないとダメですよ』と大人に言われて、『2枚買ったらそれだけでお小遣い無くなっちゃう子が大半なんだから、値上げはしない。定価で出せないなら出さない。』と答えたエピソードを読んで、すごい想像力だよなあと思ったことを改めて思い出しました。
今って大変なときじゃないですか、世界が。
ちょっと前だったら、それに対して政治的な発言とかを軽々しくしていたと思うんです自分。
でも、今は自分の見識の狭さや無力さもある程度分かっているつもりなので、無責任なことは言えねえとか思ってたりします。
そんなの全然パンクじゃないですよね。
でもぼくは、自分がパンクな生き様を晒していなくとも、パンクロックが好きだし、世界を変えたり救ったりはできないけど、目の前に居てくれる人の心に全力で歌を届けることはできます。
ぼくはあなたに向けて歌うけれど、あなたのために歌うわけではないです。
ぼくはぼくのために、今自分が持っている気持ちを音声に変換するので、それを見てひとときでも楽しいと思ってもらえたら、や、楽しくなくても、来て良かったな、と思ってもらえたらいいなと思っています。
ラルクと違って、かっこいいことを言ったり、たとえばチケットの装丁を豪華にしたりとかは今回はできないんですけど、そういう感じの気持ちでやります。
(豪華にできるのは化粧くらいかなと思うので、いつもより少し厚く塗って出ます。仕方がないもの。)
◾️悪いのは誰だって話
永山則夫という人物がいたことをご存知ですか?
当時19才だった彼は、1968年に、面識のない相手を4人、立て続けに射殺し、現金まで奪った罪で死刑になったシリアルキラーです。
この人は1997年に刑を執行されたのですが、法務省は否定しているものの、かの酒鬼薔薇事件を受けて「少年犯罪でも死刑にすっからな」という見せしめの意味もあったとかなかったとかで、いずれにせよ日本の殺人事件を取り扱う司法の場では、未だに大きな影響をもっている事件だそうです。
別の事件に興味があって調べているうちに、この「永山基準」なる司法の判断基準があることを知りました。
なぜ永山事件が起きたのか、ボンヤリ調べてるうちにこんな動画にたどり着きました。
これは永山元死刑囚が自分の人生について語った内容を中心に事件が起きるまでの経緯が紐解かれている番組で、90分くらいあるので興味のある人が暇なときに観ればいいと思うんですけど、この中で興味を惹かれたのは、永山死刑囚の生育環境でした。
そして、彼の母の生育環境も、ぼくは、ああ、と思ってしまうようなものでした。
もちろん、彼のしたことは憎まれるべきで、誰が悪いのかといえば彼が悪いです。
不幸な処遇で育っても、人を殺さないで生きてる人なんてザラにいますし、逆に永山元死刑囚より恵まれていても殺人をしでかす人もまた存在します。
ただぼくは、おぎゃあと生まれた赤子を見て、生まれたそばからシリアルキラーの素養を持った子供が存在するとはにわかに信じがたいと思っています。
なんというか、ある種の飢餓状態を想起したというか、食物に関する飢餓が、生存に必要なカロリーや栄養素の不足の結果として起きるものとするならば、他者からの愛というのもヒトが生きるうえで大切な栄養素だと思うんです。
永山元死刑囚や、彼を生んだ母や、その周囲の人々は、ぼくの基準からすると、充分に愛されて育ったとはとてもいえない生い立ちをもっています。
そういうことをいうと、もっと愛情を受けなかったけど立派にやってる人もいる、みたいな声が聞こえてきそうですが、ぼくはそう思わないというか、例えばぼくはだいたい1日1食しか食べないん
ですけど、平気なんです。でも、3食食べないと気がすまない人も全然いて、別にどちらも間違いじゃないというか、単なる個体差だと思うんです。
愛を、仮に、質量がある栄養素だとして考えると話は同じで、1人分の愛で満ち足りる人もいれば、3人分注がれても愛に飢える人はいて、別にどちらがどうとかってのは無いと思います。
1番いいのは、どのひとでも安心して幸せに生きられることです。
それが豊かさだと思います。
その豊かさというのは、必ずしも個々の責任ではなく、その時代や場所によって総量が大きく変わる事柄だと思います。
永山元死刑囚の、特に母親の生い立ちについては、当時の社会状況の影響がモロにあったんだろうなと思うようなものでした。
この事件に限らず、罪って、特に殺人事件や強姦の場合、ほぼ特定の誰かのせいであって、被害を受けた方はその誰かを糾弾するほかないと思います。
それは当然のことというか、被害者は責められるべきではないし、特定の誰かは罰を受けるべきだと思います。
なんなら、状況によっては加害者はとっとと殺してしまうべきだとすらぼくは思います。
そこに情状酌量は、そんなに必要ないように感じます。
(ただ、また別の問題ながら、被疑者と加害者が必ずしもイコールでないことも心に留めておく必要はあると思います。)
しかし、その特定の加害者が、加害者になった経緯については、罪と罰、ひいては被害者と加害者の関係とは全く別軸の、「より住みよい世界にしていくには」という角度から、もっと語られていいんじゃないかと思います。
その経緯に踏み込んだからといって、「加害者に肩入れしている」みたいな認識になってしまうのは全然違うよなあと、ぼくは思います。
なんかそのあたりが混同されている議論をよく見聞きする気がしてしまいます。
悪いのが誰か、というのは、案外簡単な話であることが多いと思います。
悪い奴が悪いだけだもの。
ただ、悪い奴がなぜ悪なのか、その悪はなぜ生まれたのかは、ちゃんと認識して、できればもう二度と同じ悪が生まれないような仕組みを考えていきたいものです。
それってとても難しいことだけど、その困難に立ち向かう価値がある、建設的なことだと思います。
そしてこれは、何も永山事件や酒鬼薔薇事件に限らず、身の回りの小さないざこざや、ネットの小競り合いや、学校や職場のいじめや、ひいては世界的な紛争にまで、同じことがいえるんじゃないかなとも思います。
ぼくはぼくで、考えの及ぶ範囲で考え、手の届く範囲で行動し、想像し得る範囲で曲を書いて、声の限り歌います。
そうしろという話ではなく、それをするところを見てほしいって話です。
あと、この永山元死刑囚の精神鑑定をしたお医者さんがいるんですが、その方は大変な労力と時間をかけて、なぜ悪と罪が生まれたのかを研究し、鑑定書にまとめました。
しかし、裁判の場で、なんなら当の永山元死刑囚本人からまで「まるで自分の話のように思えない」という評価をされて絶望し、司法での精神鑑定からリタイアしたそうです。
動画の最後のほうで、実は永山元死刑囚がその鑑定書を終生手元に置いていて、何度も読み返し熟読した形跡があることを初めて知り、「そうか、、そうだったんですか、、」と、鑑定書を愛おしそうに指でなぞりながら涙をする姿は、感想を言葉であらわせません。
という、深く刺さって色々なことを考えたドキュメンタリーでした。
それではおやすみなさい!
質問たくさんいただいてますありがとう。
テキストだとなかなか拘束度が高いので、折を見て音声で答えてこうかなーとか思ってます。































