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君を殺しても

THE NOSTRADAMNZ Lucifer K nemoto

こんばんは、るっちです。


まもなくツーデイズでございますね。


◾️いちにちめ

2022/3/7(MOON)_ネオ東京池袋手刀ドーム

◆東狂3卍界「花粉のように・・・」

◆出演(BIG 3):

THE NOSTRADAMNZ

I hate your rules.

MUNIMUNI

◎前売パー券予約制;*2/2 23:11~受付開始

tiget.net/events/166508


◾️ににちめ

2022年3月8日(火) 新宿ANTIKNOCK

3470.mon主催イベント「弥生の玉兎祭」

出演:3470.mon / 死んだパンダ噛んだズ / 慎一郎&杏太 / THE NOSTRADAMNZ

OPEN:16:30 / START:17:00 

前売:3,000円 / 当日:3,500円

URL:t.livepocket.jp/e/3470_mar_8


これ、2日とも来てほしいなって思うんですけど、ぼくは、99年のバックステージパスという雑誌に載っていた、ラルクのtetsuyaさんの、arkとrayの同時発売に際してのインタビューで、『装丁にお金がかかるから値上げしないとダメですよ』と大人に言われて、『2枚買ったらそれだけでお小遣い無くなっちゃう子が大半なんだから、値上げはしない。定価で出せないなら出さない。』と答えたエピソードを読んで、すごい想像力だよなあと思ったことを改めて思い出しました。

今って大変なときじゃないですか、世界が。

ちょっと前だったら、それに対して政治的な発言とかを軽々しくしていたと思うんです自分。

でも、今は自分の見識の狭さや無力さもある程度分かっているつもりなので、無責任なことは言えねえとか思ってたりします。

そんなの全然パンクじゃないですよね。


でもぼくは、自分がパンクな生き様を晒していなくとも、パンクロックが好きだし、世界を変えたり救ったりはできないけど、目の前に居てくれる人の心に全力で歌を届けることはできます。

ぼくはあなたに向けて歌うけれど、あなたのために歌うわけではないです。

ぼくはぼくのために、今自分が持っている気持ちを音声に変換するので、それを見てひとときでも楽しいと思ってもらえたら、や、楽しくなくても、来て良かったな、と思ってもらえたらいいなと思っています。

ラルクと違って、かっこいいことを言ったり、たとえばチケットの装丁を豪華にしたりとかは今回はできないんですけど、そういう感じの気持ちでやります。


(豪華にできるのは化粧くらいかなと思うので、いつもより少し厚く塗って出ます。仕方がないもの。)


◾️悪いのは誰だって話

永山則夫という人物がいたことをご存知ですか?

当時19才だった彼は、1968年に、面識のない相手を4人、立て続けに射殺し、現金まで奪った罪で死刑になったシリアルキラーです。

この人は1997年に刑を執行されたのですが、法務省は否定しているものの、かの酒鬼薔薇事件を受けて「少年犯罪でも死刑にすっからな」という見せしめの意味もあったとかなかったとかで、いずれにせよ日本の殺人事件を取り扱う司法の場では、未だに大きな影響をもっている事件だそうです。

別の事件に興味があって調べているうちに、この「永山基準」なる司法の判断基準があることを知りました。


なぜ永山事件が起きたのか、ボンヤリ調べてるうちにこんな動画にたどり着きました。



これは永山元死刑囚が自分の人生について語った内容を中心に事件が起きるまでの経緯が紐解かれている番組で、90分くらいあるので興味のある人が暇なときに観ればいいと思うんですけど、この中で興味を惹かれたのは、永山死刑囚の生育環境でした。

そして、彼の母の生育環境も、ぼくは、ああ、と思ってしまうようなものでした。


もちろん、彼のしたことは憎まれるべきで、誰が悪いのかといえば彼が悪いです。

不幸な処遇で育っても、人を殺さないで生きてる人なんてザラにいますし、逆に永山元死刑囚より恵まれていても殺人をしでかす人もまた存在します。


ただぼくは、おぎゃあと生まれた赤子を見て、生まれたそばからシリアルキラーの素養を持った子供が存在するとはにわかに信じがたいと思っています。


なんというか、ある種の飢餓状態を想起したというか、食物に関する飢餓が、生存に必要なカロリーや栄養素の不足の結果として起きるものとするならば、他者からの愛というのもヒトが生きるうえで大切な栄養素だと思うんです。

永山元死刑囚や、彼を生んだ母や、その周囲の人々は、ぼくの基準からすると、充分に愛されて育ったとはとてもいえない生い立ちをもっています。

そういうことをいうと、もっと愛情を受けなかったけど立派にやってる人もいる、みたいな声が聞こえてきそうですが、ぼくはそう思わないというか、例えばぼくはだいたい1日1食しか食べないん

ですけど、平気なんです。でも、3食食べないと気がすまない人も全然いて、別にどちらも間違いじゃないというか、単なる個体差だと思うんです。

愛を、仮に、質量がある栄養素だとして考えると話は同じで、1人分の愛で満ち足りる人もいれば、3人分注がれても愛に飢える人はいて、別にどちらがどうとかってのは無いと思います。


1番いいのは、どのひとでも安心して幸せに生きられることです。

それが豊かさだと思います。

その豊かさというのは、必ずしも個々の責任ではなく、その時代や場所によって総量が大きく変わる事柄だと思います。

永山元死刑囚の、特に母親の生い立ちについては、当時の社会状況の影響がモロにあったんだろうなと思うようなものでした。


この事件に限らず、罪って、特に殺人事件や強姦の場合、ほぼ特定の誰かのせいであって、被害を受けた方はその誰かを糾弾するほかないと思います。

それは当然のことというか、被害者は責められるべきではないし、特定の誰かは罰を受けるべきだと思います。

なんなら、状況によっては加害者はとっとと殺してしまうべきだとすらぼくは思います。

そこに情状酌量は、そんなに必要ないように感じます。

(ただ、また別の問題ながら、被疑者と加害者が必ずしもイコールでないことも心に留めておく必要はあると思います。)


しかし、その特定の加害者が、加害者になった経緯については、罪と罰、ひいては被害者と加害者の関係とは全く別軸の、「より住みよい世界にしていくには」という角度から、もっと語られていいんじゃないかと思います。

その経緯に踏み込んだからといって、「加害者に肩入れしている」みたいな認識になってしまうのは全然違うよなあと、ぼくは思います。

なんかそのあたりが混同されている議論をよく見聞きする気がしてしまいます。


悪いのが誰か、というのは、案外簡単な話であることが多いと思います。

悪い奴が悪いだけだもの。

ただ、悪い奴がなぜ悪なのか、その悪はなぜ生まれたのかは、ちゃんと認識して、できればもう二度と同じ悪が生まれないような仕組みを考えていきたいものです。

それってとても難しいことだけど、その困難に立ち向かう価値がある、建設的なことだと思います。


そしてこれは、何も永山事件や酒鬼薔薇事件に限らず、身の回りの小さないざこざや、ネットの小競り合いや、学校や職場のいじめや、ひいては世界的な紛争にまで、同じことがいえるんじゃないかなとも思います。


ぼくはぼくで、考えの及ぶ範囲で考え、手の届く範囲で行動し、想像し得る範囲で曲を書いて、声の限り歌います。

そうしろという話ではなく、それをするところを見てほしいって話です。


あと、この永山元死刑囚の精神鑑定をしたお医者さんがいるんですが、その方は大変な労力と時間をかけて、なぜ悪と罪が生まれたのかを研究し、鑑定書にまとめました。

しかし、裁判の場で、なんなら当の永山元死刑囚本人からまで「まるで自分の話のように思えない」という評価をされて絶望し、司法での精神鑑定からリタイアしたそうです。

動画の最後のほうで、実は永山元死刑囚がその鑑定書を終生手元に置いていて、何度も読み返し熟読した形跡があることを初めて知り、「そうか、、そうだったんですか、、」と、鑑定書を愛おしそうに指でなぞりながら涙をする姿は、感想を言葉であらわせません。


という、深く刺さって色々なことを考えたドキュメンタリーでした。


それではおやすみなさい!

質問たくさんいただいてますありがとう。

テキストだとなかなか拘束度が高いので、折を見て音声で答えてこうかなーとか思ってます。



こんばんは、るっちです。


◾️ライブ続々発表してる件

お約束申し上げた通りゴリゴリ決まっていて、がっつり1ヶ月以上空けていても全然足りないくらいゴリゴリ色々してます。

いよいよ過渡期を迎えている感触があり、たぶん色んなことが変わっていくと思います。

もちろん良い方に。

去年生まれたばかりの知り合いの子どもがどんどん成長してもう歩いていたりするので、それを見ると負けてらんねえなと思います。

別に無理して急いだり焦ったりしているわけでもないのですが、なんか自然にそういう気持ちというか、そんな流れになってきております。

乞うご期待!!!!


◾️3度のメシより質問に答えたい

キャラ設定があるようでないというか、設定がゆるゆるガバガバであることを守っています。


精神衛生を含めた健康に著しく悪影響がなければ、人それぞれで良いんじゃないでしょうか。


例年に比べると大丈夫というか、今まったくヤバみは感じてないですね。

ホッカイロや電熱ベストなどをフル装備してめっちゃあったかくしてるのと、そこそこ人並みに太陽は浴びているように思います。


どういたしまして。

そう言って頂けることで、ぼくも生きていけるのです。ありがとうございます。


過去そこそこ暇があったときはよくやってましたよね?

今もたまにカラオケするのと、どこかに録画が残ってるはずなので御覧いただければと思います。

あと、ラルクやLUNA SEAやバクチクなど、直接的に影響を受けたバンドの曲を自分の解釈でやるカヴァーアルバムをいつか作りたいなーなんてボンヤリ思ってたりもします。


そして蛇足ながら「歌ってみた」とかの「してみた」という表現が好きじゃないんです。

誰かがやる分には全然いいんですけど、ぼくは「してみた」ではなく「心してやらせていただいた」くらいの気持ちで、やるなら全力でやります。

慣用表現であることは重々承知の上で、ぼくは「まだ本気出してない」みたいな余裕の態度で人に聴いてもらえるような音楽ができるほど、才能に恵まれたわけではないと自覚しています。


オタク的な面も多分にあるとは思うんですけど、自分でオタクだなぁって思うことはほぼ無いです。

好みが偏っていたり、直感より文脈のほうを重視したり、案外考え方が排他的だったり、それっぽいところはあると思うんですけど、電車男以降のいわゆるアキバ文化みたいなものには全くシンパシーを感じないので、違うんじゃないかなあとも思います。

あと、オタクを自称する方って徹底的じゃないですか。そのコンテンツについてのモノは全て集めてたり、全てを知っていなければいけないと思っていたりするイメージがあります。

ぼくはウルトラマンやスターウォーズは好きだけど、観てないものの方が多いし、知らないことのほうが多いし、モノは欲しければ買いますけど、欲しくないものまで集めたりはしないので、その辺もちがうんじゃないかなーと思います。


ただ、父親に「おまえはオタクだよ、どう考えても」と言われたときは、そうなのかなあとも思いました。


あと、オタクって言葉自体に縦横それぞれのゆらぎがあって、ぼくの認識では蔑称として機能してた時代も長かったと思うんですけど、それこそ電車男くらいから敬称としても機能してるように思います。

敬称になる前におそらく自嘲的に使われることが多くなり、それによってオタクを自称する人も増え、いつしかオタクであることをマウント材料にしたりもよく見かけるんですけど、なんか日本語っぽいなあと思います。

なんかこう、「拙者」とか、字面的にへりくだる意味なんだろうなと思うんですけど、一人称が拙者なら剣術に長けてないといけない気がするじゃないですか。

オタクに関しても、オタクを自称するなら専門とするコンテンツに詳しくないといけない気がするのと似た変化なんじゃないでしょうか。


そのへんのオタク論は、岡田斗司夫さんの「オタクイズデッド」が面白かったので、観てみると楽しいかもしれません。


DUNE〜REALまでのラルクのアルバムはどれもめちゃめちゃ聴いたなあって思います。

歌詞やアートワークも含めて、ぼくの礎の中の更に根幹を占めていると思います。

あとエックスの「X Singles」とLUNA SEAの「SINGLES」、hideさんの「hide BEST PSYCHOMMUNITY〜」も、同じくらいめっちゃ聴きました。

まあ挙げたらキリがないですが、そのあたりがリピート数でいうと最多だと思います。


1番やりたいのはドラムやりたいです。

あとサックスも死ぬまでにやりたい。

あとベースだけとかボーカルだけも楽しそうです。

まあ、パートが何かよりはどんなメンバーで何を着てどんな音楽とステージをやるかが僕にとっては重要です。


そうだったんですね。心よりお悔やみ申し上げます。


血縁の有無に関わらず、身近な人の死というのは、人生で起こりうる最もつらい出来事のひとつだと思います。

それが立て続けにあったとあれば、何をする気も起きないほどダメージを受けてしまうのは当然のことであって、決してあなたが怠惰なわけではありません。

さらに、乗り越えようとして乗り越えられるものでもないと思うので、焦らなくてよろしいかと思います。


これは知り合いのお坊さんから聞いた話なのですが、供養という言葉は、人が共に養い合うことを意味するそうです。

それは生きている相手でも、もう亡くなってしまった相手でも同じだそうで、ここでいう「養う」は「ありがとうを伝えること」なんだそうです。

生きている人にありがとうと伝えるように、亡くなられた方のことも、手を合わせて思いを馳せ、ありがとうと伝えましょう、とお坊さんが言ってました。


ヒトって、自分1人だと、そんなに自分のことを大切にできないと思うんですよね。

だけど、誰かが大事にしているものだったら、やたらと雑に扱うことはそうそう無いと思うんです。

だから、誰かに感謝するということは、自分のことを大切にしてくれた存在を認識することにもなると思うんです。

例えば、母親がごはんを作ってくれたことに感謝するとします。すると、「母親は自分に対して糧を与えたいと思って動いてくれた」ことが認識できると思います。それは即ち「自分という存在は誰かから糧を与えられる価値がある」ということを改めて認識できる機会にもなると思うんです。

同じように、亡くしてしまった誰かに対して感謝の思いを捧げることは、亡くなった人が生前大切にしてくれた自分を認識することになります。

そうやってやっと、ヒトは自分のことを大事にできるんじゃないかと、ぼくは思います。

もう会えないあの人が大切にしてくれた自分のことを粗末にしてはいけないから、しっかりご飯を食べて、寝て、前を向いて生きていこうと思える。その結果として、高確率で幸福度は上がると思います。

それが結実したとき、振り返ればそれが客観的には「乗り越えた」といえる状態なのかもしれないですね。

仏教っぽくいえば、それが故人にとっての「成仏」なんじゃないかな、とか思ったりもします。

宗教儀礼とか、その中で使うお墓や遺影や位牌などは、それをよりわかりやすくするためのツールなのかもしれないですね。


仮にあなたが何の宗教も信じてなかったとしても、THE NOSTRADAMNZはあなたに楽しんでほしくてステージに立ち、スタジオに入り、音源をつくっています。

ぼくらにはそれしかできないし、もちろんそれはあなたのためだけではないけれど、何も信じないとしても、それは信じてもらって構いません。


ちなみに、葬儀屋さんが仰った「最後」は、仏式ベースでやったのであれば、おそらく葬儀という場での最後、即ち「身体が残っている状態」のことを指して出た表現かと思います。

そのあと出棺し、焼骨になり、次はおそらく納骨のタイミングでも同じ言葉がかかる可能性があると思います。それはお骨壷の状態が見える「最後」という意味になるはずです。

しかし、終わりとは新たな始まりとは等しくて、そこから故人との新しいお付き合いが始まりますから、どうぞその新しいお付き合いを大切にして差し上げてほしいです。


それらもまた、あなたが決めればいいことで、ぼくには関係ないのは百も承知なのですが、冥界の番人としてはそう思っております。


化粧品て、主に顔を自他から見て良い印象になるようにするためのツールだとぼくは考えておりまして、つまりエフェクターみたいなもんだと思うんです。いや、楽器の音色に置き換えて考えると、エフェクターそのものですよね。楽器そのものの音がすっぴんだとすると、まさしくエフェクターとは化粧品だと思います。

ちなみに楽器にも基礎化粧品みたいなものがあって、埃をとるものとか、保湿するものとか、電気系統の接触を良くするものとか、見た目を綺麗に磨くものとか、ほんと生きものなんだなーと思いますね。

さておいて、あなたの推しバンドマンがどんなエフェクターを使っていようと、かっこいいと思える音が出てたらそれで良いと思うんです。

化粧品に関しては知識があるので、推しが百均のシャドーとか使ってたら、何かしら思うところがあるかもしれませんが、エフェクターや楽器のブランドがどこのどういうものかとかってあまり気にしないですよね。

同じように、男性から見ると女性の化粧品って全くわからないので、百均でも10万円でも気にしない人が大半のように思います。

気にしないというか、気にするほど知識がないのです。

ぼくも知識がないので気にならないですし、逆に牛乳石鹸とかニベアって知ってる製品なので安心感すらありますね。


あと、化粧品を聞かれるのってポジティブなことなんじゃないかなと思います。

バンドマンて対バンの人に機材何使ってるの?って聞かれると嬉しい人が多いと思うんですが、それって「そんなに素敵な音色をどうやって出してるの?」と訊かれているに等しいからじゃないかなと思います。

うわ、変な音だな、と思ったら何使ってるか訊いたりしないですもんね。

なので、質問者様もきっと素敵だなと思われているんだと思います。


しかし、ニベアや牛乳石鹸がどんな立ち位置になるのかぼくは知らないのですが、安いとか手軽みたいなイメージがあるのであれば、素直に答えると「えっ、それだけでも充分綺麗になれるアテクシっていうマウントなわけ?は?」みたいに思う人もいるかもしれないので、そうなりそうな場合は「すみません、よくわかりません」とSiriっぽく答えてはぐらかすのがいいと思います。より嫌われると思います。


ありがとうございます。

若い頃、近所に美容用品店があったので、少しずつ使えるように自分でブリーチ剤を混ぜて脱色したりしてて、塗ったまま寝たりとか、さらにめちゃくちゃ逆毛入れてスプレーで固めて、さらにさらにそのまま寝たり、もう髪の毛をイジメ抜いてたんですが、よくブチブチ切れたり、ゴムみたいに伸びたりしていたので、そんな言葉を頂ける時代が来るとは思ってませんでした。

おそらく今は総て生えかわった、生来の状態だと思います。

ストパーはかけてないですが、母親に髪質は似ているようで、母も歳の割にしっかり黒くて艶があります。

欲を言えば、日にあたると少し茶色いので青黒く染めたい気持ちもあります。


カレー

ラーメン

マック

サイゼ

鳥貴族

マグロ丼

塩サバ定食

のループを一生続けてもらって構いません。


割と楽しいことばかりなんですけど、1番はライブ中だよなあと思います。

ライブがない今についてだとすると、やっぱりスタジオに入ったり、DAWに向かってるときが楽しいです。


却って熟考したまま忘れたりしそうな気がします。

というか誰に対してもそういうことが多いです。

口頭ですら、言葉を選ぶあまり無視みたいになることがあって、ちょっと異常だよなあと思います。

とりあえず返事はするように最近は心がけております。


物心ついた3才くらいからですかね。

やり直すというよりは、家族が揃っていて、親が若くて、車で公園に行って買い物して帰ってきてスーパーの焼き鳥を食べながらウルトラマンのビデオとか観る、みたいな、そのときはどうでもいいと思っていたような、でも今は宝物のような過去を再体験したいです。


以上でございます。
死ぬほど長かったですね?
大変お疲れ様でございました。

こんばんは、ルッチです。


◾️人生の半分は質問と回答で出来ているコーナー

気合いだけでなんとかなることってほとんどないんじゃないかなとぼくは思います。

いうて屁理屈なんですけど、気合いってあくまで自分の気持ちとか、その気持ちの強さとか勢いを指す言葉だと思うんです。

つまり、本当に何かをどうにかしたいと思ったら、気合いの先にある行動のほうをしっかり完遂すべきなんだと思います。

気合いの結果、行動をしたにも関わらずうまくいかなかった場合、気合いが求めていたほどの行動が、何らかの要因でできていなかった、ということが多いんじゃないでしょうか。

「なんともならない」というのが本当に何ひとつ全く変わってないという意味なのであれば、その原因は、実際には何もしてないからだと思います。

なので、気合いを入れるのであれば、ただ入れるのではなく、どこにどうその気合いを遣うかを見直して問題解決にあたってみるのはいかがでしょうか。


相手に悪く思われるよりは、良く思われたほうが自分にとって得だと思うんですよね。

だから、相手にどう思われるかを考えるのは、そもそも自分にとって得なことだと思います。

しかし、その目的とすべきことは「どちらを優先するか」ではなく「自分のハッピーを最大化するにはどうすればいいか」だと思います。

つまり、自分のハッピーを目的地として考えたとき、そこに至るために相手を優先する必要があればそうすればいいし、自分を優先する必要があればそうしてもいいと思います。


例えば、電車で立っているのが辛そうな人がいて、自分が座っていたとします。

そのとき、自分は立つのがやぶさかでないくらいには元気で、席を譲ったほうが良いことして気持ちがいいなと感じるなら、席を譲るほうがハッピーです。

逆に、自分が座ってるのがやっとの状態で、見るからに元気そうな人が目の前に立っていたとき、席は譲らないほうがハッピーですよね。

極論ですが、つまり目的は「相手と自分の優先順位」ではなく「自分のハッピー」なんだと思うんです。

ただ、自分のハッピーを考えたときに相手と利害が相反していた場合、相手のアンハッピーをもっとも小さくするにはどうするか、というのを考えられるのが思慮深さというやつなんじゃないかなとぼくは思います。


静岡だったら間違いなく「こっこ」なのですが、神奈川県は小田原エリア、湘南エリア、川崎エリア(の中でも多摩区か工業地帯か)、横浜エリア、そしてぼくが暮らしていた県央エリアなどなど、なかなか文化が細分化された県だとぼくは思うので、「神奈川土産」といった代表的なものって思いつかないです。

厚木だったら、あゆコロちゃん饅頭とかが無難で、コア層はとんづけの田口とか、あとオノヅカピーナッツかなと思います。

ちなみに有名になった厚木シロコロホルモンは見たことも食べたこともないです。


言われてしまうと気にならなくもないですが、自分から気にすることはなかったように思います。

ただ、相手の人格形成にはある程度影響してるでしょうから、知ってる範囲での配慮は必要なんだろうなとも思います。


すぐにでも出したいのですが、どう出すかとかも大事なので追ってお知らせします。


ドラムがかっこいい

社交性が高い

なんだかんだ色んな人に対して節度とリスペクトと愛をもって接している


大変なことを1人で抱え込んでしまっていることがある

そしてダメージを負っていることに自分で気づいておらず傷ついたままになっていることがある

部屋の鏡がきたねえ


時間です。ぼくは怠惰な性分なので、ぼーっとする時間と何かに熱中する時間が、それぞれ倍は欲しいです。今は両方中途半端でもどかしいです。


否、ゴリゴリの恋愛曲が7割くらいという認識でおります。

「ほころびて」とか「touch」とか「何もいえない」とか何のひねりもなくめちゃくちゃ恋愛曲として書いてます。たぶん愛が予想を遥かに上回るスケールなので、会いたくてどうこうとか、抱きしめてどうこうみたいな言い回しじゃなくて、生きるか死ぬかとか、むしろ一生愛を告白しないとか、そういう方向性になってはいるかもしれません。

ちなみに、CLUB33のラストの「Can't help falling to hell with you」は、引き合う力が強すぎてブラックホール化した恋愛をイメージしております。解説をお待ちください。


ぼくが取り扱える数少ない調理器具が、電子レンジ、電気ケトル、そして炊飯器です。ほぼ毎日使います。


女性に限らないんですけど、短絡的に自らを不幸に追い込むようなことはしないでほしいです。

端的には、例えばネガティブな事柄を持ち出して半ば脅迫じみた仕組みで気を引こうとする人っているじゃないですか。

意地でも手を差し伸べてやるものかと思ってしまいますね。

まあ難しいことなんですけど、理想は、健康で元気!という感じが最も素敵だと思います。


翌日予定がある日は暴飲暴食しないとか、ラーメンやアイスを食べないとか、その程度です。

あとストッパはあくまでお守りであり、常用しているのはパンシロンです。パンシロンはガチ。

おそらく胃腸が弱いというより、まあ平均よりはかなり脆弱かもしれませんが、弱いのは心のほうなのだと思っています。「調子が悪くなるかもしれない」という予期不安がもっとも辛いので、そうならないように気をつけている感じです。


長生きしたいです。

ただ、最近認知症病棟で働く人の話を聞いて、なかなか絶望を感じたというか、問題がかなり根深いなと感じました。

高齢化社会となって久しく、刻々と事態の深刻さが取り返しのつかない段階から更にその先にえぐれていっている現状で、ぼくは「生きる」ことの社会的な定義の見直しが今一度必要なんじゃないかなと感じています。

特にヒトにとっては、心臓が動いていることだけが生きている証ではないように思います。

ただ、それについて考えるのは本当に難しいです。


子供の頃、身長って伸び続けるものだと思っていたので、ウルトラマンがめっちゃ年上なことに勝手に納得していましたが、おじいちゃんやおばあちゃんが両親や幼稚園のスタッフさん方とあまり変わらないサイズなのは何故??と不思議に思っていました。

あとお金は銀行にいくと無限に出てくると思っていたので、母が自分のものを全然買わないことを心配して「ねえ、なんでも好きなものを買っていいんだよ?」と言っていたそうです(やさしい)(かわいい)。

何より今頃は世界を股にかけるロックスターになっていたのですが、まあインターネットの普及である意味股にかけてるんですけど、規模がちょっとおもてたんとちがうなと思います。


そんなことないと思うんですけど、何を言うかよりも、どんなシチュエーションで誰と共有するかはめちゃくちゃ気にしておかないとなあと思ってはいます。

例えばそんなに仲良くない相手、特に異性の場合、自分に対して好意的じゃない前提でモノを言わないと、必要以上に醜く映ったり(ときには恐怖すら与えてしまったり)すると思うんです。

本質的に、ぼくは決して品性がある人ではないので、尚更気をつけないとなーと思うばかりに、ぼくからみて不適切に感じる場で下品なこという奴がいると共感性羞恥が働くのか、嫌な気持ちになることがあります。

なので苦手に見えるシーンがあるかもしれないですが、そういうときはそんな気持ちということです。

そして酔っ払うと本質が出てしまうというか、いつも隠している下劣な愛みたいなものが出やすくなるので、本当に気をつけようと思います。


あぁーうんこちんちん。


以上でございます。

ちなみにまもなく上品で楽しいお知らせをするかと思います。