君を殺しても

君を殺しても

THE NOSTRADAMNZ Lucifer K nemoto

お久しぶりです。ルシファーです。

言いたいことがある。

■THE NOSTRADAMNZのホームぺージでライブ情報をチェック!
あんまり表立って言ってなかった気がするけれど、THE NOSTRADAMNZにはかっこいいホームページがあります。
ここからライブの日程などのチェックができるようになっているのと、地味に通販環境を構築したので、是非ご活用くださいませ。

 


■noteを開設しました。
こちらのブログを前世から長年愛読して頂いている方、結構いらっしゃるかと思います。
ぼくに才能があるとしたら「地味に継続すること」がひとつあると思うので(「捨てられない」という欠点と表裏一体だけれども)、こちらを消したりはしないのだけど、バンドマンという属性に縛られない文章を書く場所が欲しくなり、開設に至りました。
なので、こっちのブログにはバンドマン的な立場、即ち今であれば「ルシファー様」として書きたいことはここに書き、すっぴんのぼくが何かを書く時はnoteを使う、みたいなゆるやかな切り分けにしていこうと思ってます。

 


■なんか好きな動画
Drue Langloisという人の動画がなんかすごく好きで、インスタとかで流れてくると観てしまいます。

きっかけはコレだった。

 


楽曲は"Robot Tune" という曲で、 Winnipeg bandという人が作ったらしいのだけど、英語なのでよくわかりません。
特筆すべきは、楽曲そのものが持っているグルーヴを絵がブーストしていること。
これ、「補完」はできても「ブースト」って結構難しい気がしていて、それも絵で、アニメでできてるってすげえな、というのがとっかかりでした。

で、話として好きなのはこっち。

 


これ全然意味がわからないのに面白いなーと思ってました。
どんなテクノロジーかわからないけど、面白いと思った動画とかってなぜか何度も出てくるじゃないですか。
それで何度か見ているうちに、妙な引っ掛かりに気づきました。

ざっくりあらすじを書くと、

①ある男が、友人(または知人)の家にあるバーベキューコンロを見て「That's a Nice Grill」「Very nice」と何度もしつこく感嘆し、フタを開け閉めしたり点火したりして賛美する


②盛り上がる最中、持ち主の男が突然「家族が嫌いだ、生きるのが嫌だ」と突飛な悩みを打ち明け、「頼む、このグリルで俺を焼いてくれ」と狂気的な願いを口にする


③最初は戸惑い止めていたもう一人の男だが、最終的にその勢いに押し切られ、本人は「俺がクリスピーに焼き上がったら、油受け(グリース・トレイ)を掃除してくれ!さもないと俺の魂がこのグリルに永遠に憑りつくぞ!」と叫びながら、自らグリルの中に飛び込んでフタを閉めさせる


④グリルの中で焼かれながら断末魔の叫びを上げる男の姿と、男の子供が「お父さん?どこにいるの…?」と声をかけてきたことで錯乱し、嘔吐


⑤残された男は「I'm sorry」を連呼しながら自分の車に飛び乗って逃走したものの、亡くなった(あるいは幻聴となった)男の「油受けを掃除しろ!」という呪いの声がフラッシュバックしたことで前方不注意となり、車は大破・爆発する

なんかクソ笑っちゃうんだけど、なんでこれが面白いのかが引っかかりました。

で、ひょっとすると「グリル」が「お父さんの権利の象徴」なのでは?と思い立ち、AIに訊いてみたら、欧米では少なくとも日本よりはそうです、とのこと。
つまり、「庭でバーベキューパーティーをするとき、家主(父)が“立派なグリル”を使って料理を振る舞う」ということに象徴的な意味合いがあるということです。

これはまあ、日本でもあることだと思います。マイホームじゃなくて河原だったりするけど。
日本だと、マイホーム自体とかマイカーとか、はたまたゴルフクラブのほうがグリルよりもその「父権を確認する儀式」の象徴性が強いかなと思います。
「残クレアルファード」があれだけ揶揄されるのは、その辺が絡んでいる気もしていて、つまりは「身の丈に合わない父権の誇示」を可能にするシステムを売りつけられていることに気づいていない滑稽さ、みたいなものが見出されてるんだと思います。(ぼくは残クレを嘲笑したいとは思わないけど。)

そう考えると、「グリルの男」の悲哀と滑稽がちょっと見えてきますよね。
彼は、「家族が嫌い」と言ってる。つまり「父として威張れない」という状態なのだと思う。
せっかく新しいグリルを自慢したいのに、家族は家でゲームをしているし、来た友人も一人という状況がある。
おそらく、前からそういう状況が続いていて、「使うあてもないグリル」を買ったのだろうという感じもかなりある。

その果てに、男はグリルの中で死ぬことを選ぶ。
迷走した父権は、最後はその象徴の中で生涯を終えることを当人に選ばせる。

…あれ?どっかでこういう話あったよな…

と連想したのが、三浦友和さん主演の実写邦画、「葛城事件」でした。

 


■ 「葛城事件」のこと
観たきっかけはアマプラか何かでオススメが出て来たのか、ロケ地に見知った本厚木の地下道(予告編の0:16あたりの場所)だったから興味がわいたのか、どっちが先だったか忘れたけれど、なんだか印象に残っていた映画でした。

父・葛城清は、マイホームを建てた祝いに、庭にみかんの苗木を植えます。
「息子たちの健やかな成長を願って」と言いながら。 
でも、家族は壊れていきます。 長男は、会社をクビになったことを家族に言えないまま、息子に「バイバイ」と見送られたあとに、ビルから身を投げます。
次男は通り魔となり(厚木でな)、死刑になる。
 
そして最後、父は、自分で築いた"城"で、息子のために植えたみかんの木で、首を吊ろうとします。
けれど、枝が折れて、死ぬことすらできない。荒れ果てた部屋で、食べかけのそばをすすっている。

「父性」「父権」という、男が背負わされてきた記号と、それを背負えなくなった男の行き場のなさ、そして迷走した父権は、当人をその象徴の中で死に向かわせる。

「グリル」と「マイホーム」が「父権の象徴」だとすると、「That's a Nice Grill」と「葛城事件」はほぼ同一の構造を持った、「父の寓話」になります。

この、原産国も文化圏も言語も作風もプラットフォームもまるっとぜんっぜん別の二作品の相同に気づくのって世界中でぼくだけじゃないですかね??
もっと評価されるべきでは????何??じゃあおまえら気づけるわけ???あ????

■ぼくがモテてきた話
この二作を反芻しているうちに、そういえば、ぼくに惹かれてくれる女性は、父親との間に軋轢があるか、そもそも父親が欠けているか、そのどちらかの人が多い気がするな、と思いました。
いや、多いというか、ほとんどがそうだったような、偶然にしてはさすがに多すぎる気がしてきました。

そこで、以下の仮説を立てました。
ぼくの中に、その人たちが強く反応する"何か"、 ラカンの言葉を借りるなら"ファルス"的な、父性の記号のような何かが、ぼくにはあって、それを求めてくる女性(ごく稀に男性)が、一定数いるのではないか、と。
 
■自分で決めつけずに、当人らに訊いてみた
今までのように、その"何か"を、ぼくが自分で「たぶんこうだろう」と決めつけて自分の中に置いておくだけでは進歩がないので、当人たちに直接訊いてみました。

地味にツイキャスで不定期に(しかも頻繁に)ただ語るだけの配信をしているのですが、それを聴いている人たちは、結構ぼくのこと好きだと思うので、ツイキャスのリスナー層(≒ルシファー様ガチ勢)に向けて募集しました。

「ぼくに何を求めていて、ぼくから何を得ているか」と「父親との関係」について、まっすぐに問いました。

そして、 集まった声をAIにすべて読ませて、そこにぼく自身の見立てをぶつけて、壁打ちをしました。

なぜ、こんなことをするのかというと、たぶんよくいう Will・Can・Mustの話なんだと思います。

 自分が「やりたいこと」「できること」「求められていること」の三つが重なったところが、おそらく人が世の中でいちばん役に立てる場所であり、ぼくは特に「求められていること」の把握が弱いな、と思ったからです。
 それを憶測ではなく、"生の声"から掘れば、ぼくが世間に差し出せるもの、望まれているものの輪郭が見えてくるんじゃなかろうかと。

■ご回答ありがとうございました
集まったご意見・ご見解は、人によって使う言葉はバラバラでしたが、並べてみると、共通項が見いだせてきました。
 「否定されるかと思ったのに、否定されなかった」、 「適当なことを言わない人だから、信じられる」、 「一緒に考えて、言葉にして、世界のどこに置けばいいかを教えてくれる」、 「この人を通すと、自分の世界のほうが広がる」などなど。(ありがたくて泣いちゃう)

逆に、実は「父親」との関係性についてはそれぞれでしかなく、もちろん血縁上の父親が居ない方もいれば、居ても関係が悪い方もいれば、血縁はないけど父性的な役割や機能が家庭内にちゃんとあった、という方もいました。
つまり「父親が欠けている人」という、最初のぼくの雑な仮説はやや外れていたと見ていいと思います。 
欠けているのは、父親という"人"ではなくて、たぶん「自分の欲望を、自分の外側の世界へ接続する機能」のほうなんじゃないかと思うほうが自然です。
少なくとも、今回集まった声からは、ぼくにはそう見えてきました。

つまり、「自分の欲望を、自分の外側の世界へ接続する機能」について、その回路(プログラム)が不鮮明な人ほど、それを渡してくれる相手に反応しやすいのではないか、ということです。

■ぼくは何者なのか 
ここから、各種LLMと何往復も壁打ちをして、ひとつ、像が結びました。
ぼくは、たぶん、単に「優しい人」とか「父性的な人」とか「安全基地」なのではなく、生来的に、構造を掴みたがり、それを言語化したがり、常に予測可能な世界で生きていたいし、自律していたい、という認知特性があります。(このへんはnoteに書いてます)

しかし、しばらく生きてみると、世間や社会の理不尽と摩擦を起こします。世界は、構造や言語だけでは動いていないし、それはぼくにとって予測不可能でした。
端的には、幼少期の「何をすると怒られるのか分からない」みたいな予測不可能性がしんどくて、そのしんどさの中で生きるために、ぼくは、世界を"観察して読もうとする"ようになった。

普通は、読まなくても空気で感じられたり同期できたりするらしいのですが、ぼくにはその機能が欠落しています。

なので、普通よりも少しばかり注意深く世界や人を読もうとするチカラが働いて、世界を少しでも予測可能なものにしたかった。

その一部が、「読む力」になり、処世術になり、「人を不必要に傷つけない」という倫理としてぼくの中に定着するに至ったのだと思います。
欠落を抱えた子供の生存戦略だったものが、いつのまにか、人格の一部になっていたのでしょう。

いま、ぼくが人に対してやりたい、できる、そして必要とされていることは、おそらく 「ここにいていい」という安全の提供と、他方で「ここだけがあなたの世界じゃない」という外への接続の提供なのではないかな、と今は思ってます。
この二つを、同時に渡して、 そして最後に「では、この先はご自身で」と、送り出したい。
「答え」はぼくにもわからないので与えられないけど、「世界への接続手段のひとつ」なら提供できる気がします。
そして、ぼくが父性とかファルスとかと呼んでいたものの正体は、たぶん、それなのだと思います。

つまり、「混沌を構造化・言語化して、その人が自分自身の世界を、自分の足で歩いていけるようにするための"接続点"になること」であり、それ即ち「ぼくを使え。大丈夫になったら、自分の世界へ帰れ。」です。
これこそをやりたいし、少なからず求められてもいる、ということなのだと思います。

身に覚えもあります。
「あなたがいたから、今はしっかり生活できています。」「あなたがいたから、これが分かりました/変わりました。」という声。
それが、ぼくはめちゃくちゃ嬉しい。

■なぜぼくは紅白に出られないのか
自分でいうのもなんですが、敢えて言い続けますと、ぼくや、ぼくが所属しているTHE NOSTRADAMNZって、すごいかっこいいと思います。
そして、10年くらいかっこいい状態を続けています。

それなのになぜぼくは、マジョリティ的な人気を獲得するに至らないのか、なぜ「卒業生」が出るのかが不思議です。
いや、普通に実力不足とか、普通に飽きたり幻滅したりってのがあるのであろうとわかってます。(は?うるせえ殺すぞ)
とはいえさ、10年も続けていれば、そこそこもっとこう、あるでしょうよという気持ちがある。

ぼくから見た自分ですが、まず入口としてルックスがあって、そこで刺さる人と刺さらない人に割とはっきり分かれる。これは普通です。特にV系だと猶更です。
さらにステージでのパフォーマンスとか、パッと入ってきた楽曲とかも、一次情報に近いと思います。
次に、ブログやnoteや楽曲解説まで見ようとすると、それなりに時間をかけて、考える必要が出てくると思います。ここでもまた、ニーズが不一致だった場合は更なるふるいがかかります。
そのうえで、さらにさらにその奥の思考や世界観まで好きでいてくれる人、みたいに、段階を進むたびに、母数は絞られていきます。
(もちろん見た目や楽曲は別にまあ…だけど文章はめっちゃ好きです、という方がいるのも知ってますし、それはそれでいいです。殺さない。)

そのうえ、ぼくは人を自分のところに"接着"することに、あまり興味がないのだと思います。
ふつうの人気者が「ずっと一緒にいよう(≒共に夢を見よう)」とファンを繋ぎ止めるのに対して、ぼくは「自分の世界を生きろ(≒地獄に墜ちろ)」と、送り出してしまう。
接着剤というよりは、触媒のほうが機能的に近い。

だから、本当にぼくに心底惚れ抜いてくれた方の中からも、卒業生が出ます。
普通は、ショービジネスとしてやりたいのであれば、ここを必死に繋ぎ止めて累積していかなければいけないのだと思います。

でも、ぼくはそのチャンスがあったとしても、やりたくないな、と思います。
負け惜しみのように見えるかもしれないけど、それが今回見つけた自分の本音であり、むしろ、自分のやりたいことと、求められている機能がちゃんと重なり合って働いた結果なんだと思います。

ぼくにとっていちばんの成功は、「ぼくに出会って、もう自分の足で歩けるようになった人」なのだと思います。
広く浅くじゃなくて、できるだけ深く、そして送り出す、そういうかたち。

推し活的な文脈でいくと、万人に愛されるアイドルよりは、知る人ぞ知る怪しい占い師や霊能者みたいなポジションに近い。
もしくは、夢や希望を与える「アーティスト」ではなく、世界とあなたを接続する「インターフェース」に近い。


■ 結局、7歳のぼくの話だった
そして、いちばん腑に落ちたのが、ぼくの中には、ずっと、静岡県焼津市のガード下で膝を抱えて泣いている7歳の自分がいます。インナーチャイルドというやつです。
あの子が本当に欲しかったのは、たぶん、抱きしめられることではなく、「何が起きてるのか、一緒に理解しよう。世界は、ここだけじゃないよ。」という声だったのだと思います。

7歳のぼくは、「世界が怖い」「安全な場所が欲しい」と思っていました。
他方で、ぼくの詩作を振り返っていくと、今のぼくは聴いてくれる方に向かって「ここは安全だ。だから、外へ行け。」と言っています。
つまりぼくは、かつて自分が欲しくて手に入らなかったものを、今はあなたがたに渡そうとしている。渡したい。渡せるはず。そして、きっと必要とされているはずだ、と信じて歌っています。

なんのことはない、それだけの話だったのかもしれません。

■「世界と真実」の“大予言”
THE NOSTRADAMNZの「世界と真実」という曲があります。

 

 

バンドが最初に世に出した、ぼくにとって、最も象徴的な曲です。
実はTHE NOSTRADAMNZ以前からこの曲自体は存在していて、ぼくはまだ640~650歳台くらいの、まだまだ若いときに書いた曲でした。
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 見せてあげる 世界を 君の狭い世界へ 
  
  おとぎ話じゃないよ ほら 嫌いじゃないでしょう

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 似せて見える背格好 相容れずな性格も

 それはそういったお話で 酷でリアルな現実だ

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 錆びついた視界には 556 吹きかけて

 嘘みたいな真実の 目撃者になりたいね

 怖くはないでしょう 甘くもないでしょう  勇気を出しましょう

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 映してみて世界を グロテスクな世界を

 昔話じゃないよ 手が届く未来でしょう

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これ、ぼくは自分で心底ぞっとしました。 

だって、今回ぼくが時間と手間暇をかけて、皆様にもご協力をいただいて、やっとこさ掘り当てた結論と、そっくりそのまま同じことを宣言してるんです。

「きみの狭い世界に、外の世界を見せてあげる。それは、おとぎ話みたいに甘くはない。グロテスクで、リアルだ。でも、怖くないよ。勇気を出して、一緒に、その"本当"を見る目撃者になろう」。
 安全な場所から、外の広い世界へ。答えではなく、世界への入口を渡す。

もちろん、冷静に考えれば、今のぼくが、あとから歌詞に意味を後付けで付加しながら読み込んでいるだけなのかもしれないです。

でも、これを書いた当時のぼくは、自分の発達特性も、ラカンも、"安全基地"も、インナーチャイルドも、何も知らなかった。なんなら、テーマを決めて書いた曲ですらなくて、スタンダードナンバーの「Proud mary」から冒頭の「デデッデー♪」というフレーズを着想して、ぼくなりのロックンロールを作りたかった。そうしてなんとなく出来た曲に、思いついた言葉は当てはめていっただけです。

ただ、少なくとも今のぼくが何時間もかけて言葉にした構造と驚くほど似たものを、当時のぼくが何の意識もせずに、作品として形にしていた、ということは事実です。

だからこそ、いま読み返すと、めっちゃ怖いです。

たぶんぼくは、ずっと似たようなことをやってきたんだと思います。
 ただ、それが"何"なのかを、自分の言葉で説明できるようになるまでに、とても時間がかかった。 
若き日の自分が意識せずにやっていたことに、いまのぼくが、ようやく言葉で追いついたみたいな、そんな感じがしています。

■免責事項
色々書きましたが、自分自身についても、ファンについても、「世界と真実」を含んだ作品についても、あくまで見解の一つであって、そうでなければいけない理由などない、ということは解っておいていただけると嬉しいです。
ライフステージの変化とか、もう十分癒されたとか、元気をもらったとか、そういう健康的なかたちでの卒業は、それはそれで嬉しいし、卒業せずにいつまでも毎回顔を見せてくれる方の存在も超嬉しいし、折を見て実家に帰ってくる奴みたいな方も、それはそれで嬉しい。
どんな人でも居て良いのです。むしろバンドとしては一人も卒業してくれるな!!!!なんですけど、ぼく個人としてはそういう捉え方もしています、という話です。
なにせ10年やってきたので、10年で変わらないもののほうが少ないし、変わらないことはリスペクトされていいし、かといって変わることは即ち悪ではない、ということ。

ここまで読んでくださって、ありがとうございました。

 
こんばんは、台風を温帯低気圧に変えたルシファーです。

本日は、日本のロック史に存在したかもしれない「失われた世界線」について、大変悔しい気持ちがあることに気づいたので書き連ねます。

あくまで一人の音楽ファン、かつバンドマンの端くれとしての仮説なので、史実の細部についてはぜひ各自でも一次情報に当たっていただければと思います。
とはいえ、ぼくはこの話を単なる妄想で終わらせるつもりはありません。
なぜなら、音源を並べて聴けば聴くほど、「これは本当にあり得た未来だったのではないか」と思えてしまうからです。

ぼくはずっと、ある違和感を抱えていました。
4s4ki、sic(boy)、CVLTE、CHAQLA.など、ぼくは度々言及していますが、彼ら、彼女らの音楽を聴くたびに、「どう考えても世界レベルじゃないか」と思うのです。
トラップ、ハイパーポップ、ニューメタル、エモ、インダストリアル、ヴィジュアル系、J-POP。
それらを無理やり混ぜているのではなく、最初から同じ言語として扱っている。
にもかかわらず、その実力に見合うほど世界的に評価されているとは、少なくともぼくには思えません。
もちろん、英語圏への露出が足りないとか、プロモーションの問題とか、マーケットの規模とか、いろいろな理由はあるでしょう。
しかし、ぼくはもっと根本的な問題があると思っています。

彼らが世界に届かない理由は、彼ら自身の才能不足ではなく、彼らを世界へ押し出すための「日本ロック史の太い幹」が、90年代末から00年代初頭にかけて、いつの間にが折れてしまったからではないか。

つまり、今の若手が小さく見えてしまうのは、彼らが小さいからではなく、その背後にあるべき巨大な歴史的文脈が、日本の音楽史の中で分断されてしまっているからではないか。
ぼくはそんな考えに至りました。

ただ、この記事で書きたいのは、「今の若手はすごい」という話ではありません。
いや、もちろんすごいです。
でも、すごいんだけど、それだけでは足りない。
ぼくが書きたいのは、"日本には本来、世界的なミクスチャー・ロック大国になる可能性があったのではないか"、という話です。

もし、00年前後の断絶がなければ、日本のロックはLinkin Park、Limp Bizkit、Korn、Slipknot、Marilyn Manson、Nine Inch Nailsが台頭した、あの世界的な潮流と並走し、その中心に立つことすらできたのではないか。
そして、その世界線においては、4s4kiやsic(boy)、CVLTE、CHAQLA.は、「日本の変わった若手」ではなく、日本が世界に提示するミクスチャー・ロック大国の最新世代として、もっと当然のように世界から聴かれていたのではないか。

これが、今回の仮説です。

■ その世界線は、V2から始まっていた
一般的に、hideさんとYOSHIKIさん、そして小室哲哉さんは、音楽的には別々の文脈で語られがちであるように思います。

hideさんはヴィジュアル系、あるいはX JAPANから飛び出した、未来的な感覚を持つフリーキーなロックスター。
YOSHIKIさんはX JAPANのリーダーであり、クラシックとハードコア/メタルを接続した天才的なカリスマ。

他方で、小室哲哉さんはJ-POPの王、あるいは90年代の巨大プロデューサー。

もちろん、それぞれの説明として間違ってはいません。
しかし、音楽的な構造だけを見ると、この三人は驚くほど何度も交差しています。
ぼくはここが、今回の話の一番重要なポイントだと思っています。

最初の交点は、YOSHIKIさんと小室哲哉さんによるユニット"V2"です。

唯一のシングル「背徳の瞳〜Eyes of Venus〜」が発売されたのは1992年ですが、プロジェクトとしては1991年に動き出しています。

今改めて聴くと、これはかなり不思議な曲です。
ハードコアパンク/スラッシュメタルを地で行くドラム。
そこにはディストーションギターではなく、クラシカルなピアノと巨大なシンセのアンサンブルが乗っかっている。
さらに、日本人に刺さるメロディーをいくつもいくつも作ってきた紛れもない天才2人が互いに紡ぎ合った、珠玉の歌メロがある。

当時としては、ロックと打ち込みがまだ今よりもずっと別々のものとして扱われていたはずなのに、この曲では既にその接続が試みられています。


もちろん、これをそのまま「ニューメタルの先駆け」とか「デジタルロックの完成形」と言うのは、いくらなんでも雑です。
しかし、ここには確かに後の可能性が含まれているように思います。
ロックとシンセサイザーの組み合わせで、単なるJ-POPでも、単なるハードロックでもない何かが生まれる。
その予兆が、既にV2にはあったのではないでしょうか。

そして、重要なのは、これが一回限りの珍事件ではなかったということです。

YOSHIKIさんと小室哲哉さんの接続は、後の2002年に"globe extreme"で再び浮上します。

さらにYOSHIKIさんの内部にはX JAPANとhideさんがあり、小室哲哉さんの内部にはglobeとavexの巨大なメインストリームがあります。

つまり、V2とは単なる企画ユニットではなく、本来なら後の日本ロック史を大きく変える可能性を持った、最初の接続点だったのではないかとぼくは考えています。

悔やまれるのは、このV2がど真ん中を獲るには、おそらく専任のボーカリストが必要だったこと。
小室さんの歌声を、ぼくはとても好きですが、一般には、特に当時の価値観だと、もっともっとパワフルな質感によりニーズがあったはずです。
例えばKEIKOさんや華原朋美さんが歌っていたら、もっと広く語られるプロジェクトになっていたかもしれません。

■ 『DAHLIA』は、既に未来を鳴らしていた
次に重要なのが、1996年のX JAPANのフルアルバム『DAHLIA』です。

『DAHLIA』は一般的には、X JAPANの最後のオリジナルアルバムであり、バラード色が強く、クラシカルでシンフォニックな作品として語られることが多いと思います。

もちろん、それは間違っていません。

しかし、ぼくはこのアルバムを単なる「X JAPANの終着点」として聴くのはもったいないと思っています。

まず参照すべき曲は、まず表題曲の「DAHLIA」です。


ぼくには、この曲がV2「背徳の瞳〜Eyes of Venus〜」の流れを汲んでいるように聴こえます。

クラシカルな旋律、疾走するドラムとツインギターの絡みは、まさにX JAPANの王道だけれど、ディストーションエフェクトがかけられたTOSHIさんの声や、以前より高次元にトラックと融合しつつ分離したシンフォニー、hideさんのトリッキーなワーミー使い。さらに、どこか打ち込み音楽的な人工性もある。
これは、単なるメタルでも、単なるクラシック融合でもなく、YOSHIKIさんがずっと持っていた「シンフォニックで、機械的で、過剰にドラマチックな音像」の一つの到達点だったのではないかと思います。

次に重要なのが、hideさん作曲の「DRAIN」です。


この曲は後にzilchで「WHAT'S UP MR. JONES?」としてセルフカバーされています。


ここが非常に重要です。

なぜなら、「DRAIN」はX JAPANの中に既にzilch的なものが存在していたことの証拠だからです。

つまり、hideさんは以前からソロ作品でインダストリアル的なアプローチをしていましたが、X JAPANの内部にも、その方向性を取り込んでいたわけです。

そして「SCARS」。



これもhideさんの作曲です。

この曲には、X JAPANの王道とは違う、そしてさらにXの中でhideさんが書いてきたロックンロールナンバーとも別の、もっとダーティーな質感があります。
ギターリフの感覚も、歌の乗り方も、どこかオルタナティブで、インダストリアル以降のロックへ接近している。

さらに「White Poem I」。



これは、おそらく後のViolet UKがこの路線になっていくはずだったのではないか、と思わせる曲です。



もちろん、実際のViolet UKがどう展開するはずだったのかを断言することはできません。

しかし、クラシック、電子音、冷たい空間処理、そしてサビで美しい旋律が啓く、という点で、「White Poem I」はYOSHIKIさんがX JAPANの外で構想していたであろう音像の予告編のようにも聴こえます。

そして、HEATHさんとPATAさんによる「WRIGGLE」。



この曲も忘れてはいけません。

後にDope HEADzへ参加する2人が、X JAPANの中でこのような楽曲を提示していたことは重要です。

つまり『DAHLIA』には、YOSHIKIさんのデジタル/シンフォニック路線、hideさんのインダストリアル路線、さらに後のDope HEADzに通じるデジタルロック的な感覚が、既に混在していた。

『DAHLIA』とは、X JAPANの終着点であると同時に、複数の未来の入口でもあったのではないでしょうか。

ここで比較対象として重要なのが、The Prodigyの『The Fat of the Land』です。
あのアルバムは1997年に発売され、世界的に巨大なインパクトを与えました。
「Firestarter」や「Breathe」が象徴するように、ダンスミュージックがロック的な攻撃性を獲得し、ロックリスナーにも突き刺さるものになっていった。
その歴史的重要性は言うまでもありません。




しかし、『DAHLIA』はその前年、1996年に出ています。
もちろん、「だからX JAPANのほうがThe Prodigyより先だった」と単純に言いたいわけではありません。

The Prodigyにはそれ以前から『Music for the Jilted Generation』がありますし、世界中でビッグビートやインダストリアルやトリップホップの動きは同時多発的に起きていました。

ただ、少なくとも日本のロックシーンの中で、X JAPANが1996年の時点でそうした空気に接近していたことは、もっと評価されてもよいのではないかと思うのです。

そして、そのX JAPANの中にはhideさんがいました。

同じX JAPANという母体の中で、その方向性が既に発生していたのです。

■ zilch『3・2・1』は、1998年ではなく1996年の音として聴くべき

そして、ここでzilchです。

zilchの『3・2・1』がリリースされたのは1998年7月、つまりhideさんの没後です。

しかし、ここで重要なのは、制作と録音が1996年から行われていたことです。

つまり『3・2・1』は、1998年の音としてではなく、1996年時点でhideさんが既に到達していた音として聴くべきだと、ぼくは思っています。




これはかなり大きな意味を持ちます。

なぜなら、1996年の時点でhideさんは、既に英語詞、海外ミュージシャン、インダストリアル、オルタナティブメタル、デジタルロックを組み合わせた音像へ到達していたからです。

これを単に「hideさんの海外向けプロジェクト」として片付けるのは、あまりにももったいない。

ぼくには、これは日本のロックが世界のミクスチャー/インダストリアル文脈へ直接接続するための、ほとんど完成されたプロトタイプに聴こえます。

しかも、前述の通り「DRAIN」はzilchで「WHAT'S UP MR. JONES?」として再構成されています。

つまり、X JAPANの中にあったhideさんの異物感が、そのままzilchへ移植されているわけです。

ここにこそ、X JAPANからzilchへの連続性があります。

hideさんはX JAPANを捨てて別のことを始めたのではなく、X JAPANの中に存在していた未来の一部を、より純度の高い形で外部化したのではないか。

ぼくにはそう見えます。

■ BEASTという、もう一つの近接点

この流れを考える上で、BEASTも無視できません。

BEASTは、Extasy Japan立ち上げ時の看板バンド的な存在として語られることがあります。

この時点で既に、YOSHIKIさん周辺の人脈と、90年代後半のラウド/インダストリアル/デジタルロック的な感覚が接近していたことになります。


ここでいわゆる「ミクスチャー」の音像構成をもつバンドが、このポジションにいたことは、周辺証拠として重要だと考えています。

人脈的にも音像的にも、zilchやDope HEADzに近接していると考えると、Extasy Japan周辺には、X JAPAN以降のロックを、よりヘヴィで、より海外志向のものへ変換しようとする空気が確かにあったのではないでしょうか。

このあたりを一本の線として見ると、X JAPAN以降のロックが、単純に「V系の後継」へ向かったのではなく、かなり明確にデジタル・ミクスチャー方面へ向かう可能性を持っていたことが見えてきます。

■ Dope HEADzは、失われた世界線の残響だった

hideさん亡き後、その遺志を継いで現れたのがDope HEADzだったとぼくは思います。

Dope HEADzは、PATAさん、HEATHさん、そしてI.N.A.さんを中心に結成されたプロジェクトです。

つまり、元X JAPANのメンバーと、hide with Spread Beaver/zilchの中核が合流しているわけです。

これは単なる「元X JAPAN関連バンド」ではなく、見方によっては、X JAPAN、hideさん、Spread Beaver、zilchの残された要素を00年代へ持ち越そうとした試みだったとも言えるでしょう。




ただし、Dope HEADzは期待されたほどの大きなシーンを形成するには至りませんでした。

もちろん楽曲やプロジェクトの評価は人それぞれですし、ボーカリストの交代があったことや、プロモーションの問題、時代の空気など、さまざまな要因があったと思います。

しかし、ぼくにはこのプロジェクトが、「本来ならもっと大きな幹に接続されるはずだった太い支流」のように見えるのです。

もしhideさんが生きていて、zilchやSpread Beaverの活動が継続していたら。

もしYOSHIKIさんのViolet UKが同時期に本格的に動いていたら。

もし小室哲哉さんがglobe後期のデジタルロック志向をさらに押し進めていたら。

Dope HEADzは孤立したプロジェクトではなく、もっと大きな流れの一部として認識されていたのではないでしょうか。

■ 小室哲哉さんは、J-POPの王でありながらデジロックへ向かっていた

ここで小室哲哉さんの話に戻ります。

小室哲哉さんはどうしても、90年代J-POPの象徴として語られます。
TRF、安室奈美恵さん、華原朋美さん、そして自身が参加したglobe。
巨大なヒット曲、カラオケ、テレビ、ミリオンセラー。

そのイメージが強すぎるために、小室哲哉さんがどれほどロックやクラブミュージックの先端に反応していたかは、意外と語られにくいように思います。

しかし、1998年前後のglobeを聴くと、かなり明確に空気が変わっています。

「wanna Be A Dreammaker」をはじめとした『Relation』期の音は、初期globeの明るいダンス・ポップとはかなり違います。

歪んだベース、バキバキにローが効いたブレイクビーツ、不穏で鋭い質感のシンセ、攻撃的な構成。
J-POPとして成立しているのに、実はかなり攻撃的な音像をしています。



比較すれば瞭然ですが、小室哲哉さんはこの頃、The ProdigyやThe Chemical Brothers的な音像を志向していたことが語られています。
これは後からぼくが無理やり言っている話ではなく、本人の関心としても明確にそこへ向かっていたわけです。





問題は、小室哲哉さんがあまりにも巨大なJ-POPの王だったことです。

どれだけ攻撃的な音を作っても、それは「小室サウンド」として回収されてしまう。

ロックリスナーは「どうせ小室でしょ」と見ない。
クラブリスナーは「J-POPでしょ」と距離を置く。
ヴィジュアル系の文脈からも遠い。

結果として、globe後期の異様なデジタルロック性は、日本のロック史の中に正しく配置されなかったのではないかと思います。

ここが、日本の音楽批評の大きなバグだったのではないでしょうか。

■ globe extremeという最大の分岐点

そして、ぼくが日本ロック史最大の分岐点だったと思っているのが、先にも触れたglobe extremeです。

2002年、YOSHIKIさんがglobeに加入というニュースに衝撃が走りました。
これによって、小室哲哉さん、YOSHIKIさん、KEIKOさん、MARC PANTHERさんという、かなり異様な布陣が成立するはずでした。


ぼくは、ここでこそV2の続編を見たかった。

1991年に一度交差したYOSHIKIさんと小室哲哉さんが、十年以上の時間を経て、KEIKOさんという強力なボーカリストを得た状態で再接続する。

しかもその間に、X JAPANは『DAHLIA』を経ており、hideさんはzilchへ向かい、小室哲哉さんはglobe後期でデジタルロックへ接近している。

つまり、globe extremeは本来なら、V2、X JAPAN、hideさん、globeを束ねる巨大な交差点になり得たはずなのです。

しかし、現実にはその可能性は大きく開きませんでした。

当時のavexはトランス全盛であり、globeもその空気の中にいました。
浜崎あゆみさんを筆頭とする巨大なavex的ポップス、ギャル文化、地方ヤンキー文化、サイバートランスの流行。
その市場に向けてサウンドメイクが行われたこと自体は、商業的には理解できます。
むしろ合理的だったのだと思います。

なんなら、当時の小室さんは「J-TRANCE」を押し出していたので、本人の趣向がそっちに向かっていただけなのかもしれません。

ただ、ぼくはどうしても思ってしまうのです。
トランスではなく、ロックの方面のものとして鳴らしていたらどうだったのか、と。

KEIKOさんの力強くて鋭い、でも太い歌声は、ロックの文脈でも充分に戦えたはずです。

元々globeは「打ち込み系」のイメージが強くあったので、そこにYOSHIKIさんが加わったことで「ロックなglobe」としてパッケージしていたら、どうだったのだろうと考えてしまいます。

その頃、世界ではLinkin Parkが2000年に「Hybrid Theory」でデビューし、2003年にはセカンドアルバム「Meteora」が出ています。

更に2003年には女性ボーカルで且つ当時のモダンヘヴィーを象徴する音像を伴ったEvanescenceも世界的に話題になりました。

もし、globe extremeが「ロック」の軸足に立ち、hideさんが遺したインダストリアルな美学、I.N.A.さん的なプログラミング感覚が接続されていたら、それはLinkin ParkやEvanescenceより先行した音像になっていたかもしれないし、The ProdigyやMarilyn Mansonとも並走し得る、巨大な流れを牽引し、象徴するプロジェクトになっていたかもしれない。




ほら、globe extremeのバックをzilchがやってたとしたら、Evanescenceに全然勝てたじゃん!とか思っちゃいませんか?
勝ち負けが何かわかりませんが、少なくともぼくは聴いてみたかったし、何よりぼくがいたようなアンダーグラウンドシーンでも、おそらくEvanescenceの影響で、モダンヘヴィーサウンドに流麗な女性ボーカルが乗る、というバンドが多く居たと記憶しています。
そしてメジャーシーンでも、2005年にHIGH and MIGHTY COLORがデビューしています。



とはいえぼくは、globe extremeがトランスへ寄ったことを全否定したいわけではありません。

しかし、歴史の分岐点として見ると、それは「ロックとして世界へ向かう」よりも、「当時のavex市場へ合わせに行く」判断だったように見えてしまうのです。

ただ、なんなら浜崎あゆみさんの「evolution」(2001)は、かなりデジロック路線で、ぼくはかっこいいなーと思います。



ここらへんに、真正面からぶつかってほしかった。

「ホンモノとはこういうものだ」みたいな顔で。
もちろん浜崎あゆみさんやハイカラをニセモノだと言うわけではないです。どちらもリスペクトしてます。だからこそ触れてます。

ただ、やはりジャパメタ/ジャパコアの流れ、CAROLやBOØWYがメジャーにした日本のロックの文脈、その結節点であるV系の草分けだったXJAPANの血と、そこにTM NETWORKで80年代を、ファミリーで90年代を完全にハックした小室さんの血が混じった、とんでもないバケモノの完全体がいたとしたら、それ以外を全部ニセモノにしてしまうくらいの説得力があったんじゃないかと。

そうすれば、ロックリスナー、バンギャル、洋楽リスナー、バンドキッズを一網打尽にできたのではないか。

ぼくはどうしてもそう思ってしまいます。

■ その僅か下流には、既に世界水準のバンドたちがいた

この流れを河川に例えると、YOSHIKIさんや小室さんといった、80年代から90年代にかけてメインストリームを走ってきた上流が折れた後の、そのほんの少し先の下流には、既に十分すぎるほどの才能が存在していたということです。

Dragon Ash、RIZE、THE MAD CAPSULE MARKETS、BOOM BOOM SATELLITES、DIR EN GREY。もちろん、もっともっとたくさんいます。

ただ、彼らはそれぞれ別々の場所で、世界水準に近い音を鳴らしていました。







ここで問題なのは、彼らが「いなかった」ことではありません。

だっていたんだもの。

十分にいた。

そして、才能も、音も、時代性もあった。
バチクソかっこよかった。
さらに、彼らは今も最前線にいる。

問題は、それらが"一本の大河"にならなかったことです。

アメリカでは、Nine Inch Nails、Marilyn Manson、Korn、Limp Bizkit、Linkin Park、Slipknotといったバンドやアーティストが、それぞれ違いながらも、オルタナティブ、インダストリアル、ニューメタル、ラップロック、ラウドロックという大きな文脈の中である程度接続されていきました。

もちろん、ファン同士の対立もあったでしょうし、シーンの内部はもっと複雑だったはずです。

それでも、メディア、フェス、MTV、レーベル、リスナー共同体が、それらを巨大な流れとして認識する土壌がありました。

一方、日本ではどうだったか。

小室哲哉さんは売れまくったからJ-POP、Dragon AshとRIZEはラップしてるからミクスチャー、hideさんとYOSHIKIさんはXJAPANだからヴィジュアル系で、その後輩筋にあたるMADはストリートファッションだからラウド/パンク系だけど、Dir en greyはメイクしてるからV系で、BOOM BOOM SATELLITESは先に海外でウケたから逆輸入モノ、みたいに捉えられました。
さらに入れ替わるように、いつのまにか「ラウドのカルトスター日本代表」的にDIR EN GREYがメタルシーンに輸出された、みたいなイメージがぼくにはあります。

つまり全部、流れが限りなく近接していたものであっても、なんなら同じバンドでも、別々の箱に入れられてしまった。

ぼくは、ここに日本の音楽史の決定的なもったいなさがあると思っています。

本来なら一本の幹になり得たものが、なぜか細かく枝分かれさせられた。

アーティスト側も「群れないこと」「特殊であること」を少なからず標榜した。
しかも、それぞれがそれでも生き残れるくらい、十分に強かっただけに、逆に「別々のシーンとして成立してしまった」。

そのくせ今更実は仲良くて〜とか言って一緒に自撮りとかしやがって!!!!20年遅えんだよ!!!!(激怒)

いずれにせよ、やる側も受け手側も個別に細分化を望んだ結果、日本は世界的なミクスチャー・ロック大国になるチャンスを逃してしまったのではないでしょうか。

他方でHIPHOPはタテヨコの繋がりをリスナーと共有していった結果の今があるんだろうな、というのはまた別の機会に。

■ ゲームチェンジャーとしてのFear, and Loathing in Las VegasとBring Me The Horizon

ただし、ロックとクラブミュージックの接続が完全に途絶えたわけではありません。

むしろ2010年代に入る前後、その接続は別の形で再び表面化します。

国内で外せないのが、Fear, and Loathing in Las Vegasです。



ぼくは、彼らを明確にゲームチェンジャーだったと思っています。

メタルコア、スクリーモ、エモ、シンセ、トランス、レイヴ、オートチューン的なボーカル処理。

それらを、フェスに出る日本のロックバンドとして成立させた。

これは本当に大きいことです。

ただし、Fear, and Loathing in Las Vegasは国際的なチャートを賑わせる巨大セールスというよりは、フェスへ行くような音楽ファン、コアなラウドロックリスナー、そして後続のバンドマンに強く刺さった存在だったように思います。

特に現行のV系シーンへの影響はかなり大きいのではないでしょうか。
いわゆる「同期モノ×メタルコア」という方法論は、今のV系にかなり広く浸透しています。
同期で派手に鳴らす、ブレイクダウンで落とす、クリーンとシャウト/グロウルを切り替える、シンセで高揚感を作る。
そういった感覚は、Fear, and Loathing in Las Vegas以降、明らかに日本のラウド/V系周辺へ流れ込んだと思います。

一方、海外で同じく外せないのがBring Me The Horizonです。


Bring Me The Horizonは、デスコア/メタルコアから出発しながら、エレクトロニックな質感、ポップス、オルタナティブロック、さらには現代的なプロダクションを取り込み、世界的な評価を獲得していきました。

両者ともロックとクラブミュージックの接続において重要ですが、Bring Me The Horizonはそれを世界的なセールスと評価へ結びつけた。

Fear, and Loathing in Las Vegasは国内フェス/ラウド/V系周辺へ大きな影響を与えた。

この差は、決してバンドの力量差ではなく、背後にある市場、言語、批評、文脈の差でもあると思います。

そして、この比較は今回の主題にもつながります。

つまり、日本にもゲームチェンジャーはいたが、それが世界的な文脈として束ねられにくかったということ。

なぜなら、既に上流がない中で流れを創らなければならなかったから。

■ 「ヴィジュアル系」ではなく「日本型ミクスチャー」として世界へ出られたはずだった

ぼくは、V系は日本が生んだ最も重要なカウンターカルチャーの一つだと思っています。

ただし、海外におけるV系の受容は、どうしても「日本の変わったロック文化」「アニメやゴスやナード文化と近いもの」として消費される側面があったように思います。

DIR EN GREYが単体で海外のラウド/メタル層へ突破したことは本当にすごいです。
BABYMETALが別ルートで世界へ出たことも大きいです。

しかし、ぼくがここで言いたいのは、そういう個別突破の話ではありません。
日本全体が、ミクスチャー・ロック大国として認識される可能性があったのではないか、という話です。
つまり、海外のナード層にV系が一部ウケるとか、DIR EN GREYが日本ラウド代表として孤軍奮闘するとか、アニメ文化経由で日本のバンドが発見されるとか、そういう規模ではない。

もっと大きな話です。

日本のロックそのものが、ロック、ヒップホップ、エレクトロ、インダストリアル、ヴィジュアル、ポップスを独自に融合させた巨大なシーンとして、世界の中心に提示される可能性があったのではないか。

その意味で、hideさん、小室哲哉さん、YOSHIKIさんの三人は分離していたのではなく、むしろ何度もユナイトしかけていたのだと思います。

V2でYOSHIKIさんと小室哲哉さんは接続していた。
X JAPANでYOSHIKIさんとhideさんは接続していた。
『DAHLIA』でX JAPANはデジタル/インダストリアルな空気へ接近していた。
hideさんはzilchで海外インダストリアルへ接続していた。
BEASTやDope HEADz周辺には、Extasy Japan以降のラウドでデジタルな可能性があった。
globe extremeではYOSHIKIさんと小室哲哉さんが再接続し、そこにKEIKOさんがいた。

これを全部、我々は別々の出来事として見てきたのではないでしょうか。

ぼくはここにきて、これら総てが一本の未完のプロジェクトに見えてきたのです。

■ その世界線に4s4ki、sic(boy)、CVLTE、CHAQLA.が居たとしたら

ここでようやく、今の話に戻ります。

4s4ki、sic(boy)、CVLTE、そしてCHAQLA.。

ぼくは彼ら、彼女らを「令和世代の、突然変異の若手」として聴いていました。

しかし、「途絶えた流れ」の存在を考慮すると、2000年前後に一度折れてしまった日本型ミクスチャー・ロックの世界線が、20年以上経って別のかたちで再浮上しているように感じています。

4s4kiは、ハイパーポップやトラップの語彙を使いながら、どこかV系やゴスや日本的オカルトにも接続できる奇妙なポップネスを持っています。

sic(boy)は、エモ、ラウドロック、ヒップホップを自然に往復しています。

CVLTEは、海外の現行オルタナティブ/ラウド/ポップの質感を、日本語圏でかなり高い精度で鳴らしています。

CHAQLA.は、V系というシーンの中にいながら、ニューメタル、ハイパーポップ、アジア的オカルト、ヒップホップ的グルーヴをまとめて抱え込んでいる。





ぼくには、彼らが失われた世界線の上で、互いに接続されているように見えます。

もちろん本人たちがどこまで意識しているかは別です。
むしろ、意識していないほうが自然かもしれません。

なぜなら、彼らの世代にとっては、ロックもヒップホップもV系もトラップもハイパーポップもきっと関係なく、「好きな音楽をやってるだけ」だと思います。

しかし、構造として見ると、彼らはまさに、四半世紀ほど前の日本が取り逃がした、幻のミクスチャー・ロック大国の「2020年代後半」形なのではないかと思います。

もし日本の音楽史が、hideさん、小室哲哉さん、YOSHIKIさん、Dragon Ash、RIZE、MAD、BOOM BOOM SATELLITES、DIR EN GREY、Fear, and Loathing in Las Vegasらを大きな一本の文脈として受容し、語っていたなら、現代の彼らはもっと違う受け取られ方をしていたはずです。

彼らは「日本の変わった若手」ではなく、「日本が世界へ提示してきたミクスチャー・ロック史の最新世代」として聴かれていたはずなのです。

■ なぜ日本にBillie Eilishが現れなかったのか

お世辞でもなんでもなく、ぼくは日本のテン年代以降の若手たちが、ビリーアイリッシュくらい世界的に語られていても、本来はおかしくなかったのではないかと思っています。

もちろん、ビリーアイリッシュの才能やチームや時代性を軽く見ているわけではありません。
彼女は本当にすごい。

ただ、彼女が世界的に評価された背景には、本人の才能だけでなく、彼女を「時代の顔」として受け止める文脈がありました。
ベッドルームポップ、トラップ以降の低音、暗いポップス、ゴス的感性、ASMR的な近接音像、オルタナティブなファッション。
その全部が束ねられて、「これは今の時代の音だ」と認識されたわけです。

では、日本の若手はどうでしょうか。
音だけを聴けば、彼らにも十分に同時代性があります。

むしろかなり鋭いです。

しかし、彼らを「時代の顔」として受け止めるための歴史的な幹が、日本国内にも海外にも十分に共有されていない。
だから、個別の才能としては見えても、大きなムーブメントとして見えにくい。

もし、流れの断絶がなければどうだっただろう。

もし、hideさん、小室哲哉さん、YOSHIKIさんの接続が途切れず、そこにDragon Ash、RIZE、MAD、BOOM BOOM SATELLITES、DIR EN GREYが合流し、日本型ミクスチャー・ロックの大河が形成されていたら。
さらにその後、Fear, and Loathing in Las Vegas的な「同期モノ×メタルコア」の発明も、Bring Me The Horizon的な世界的進化と並走する日本の本流として語られていたら。
4s4kiやsic(boy)、CVLTE、CHAQLA.は、その最新世代として、もっと当然のように世界へ紹介されていたのではないか。

彼らがビリーより劣っているからでは決してなく、本来彼らの背後にあるべき日本の音楽史が、途中で分断されてしまったからではないか。

なんだかそう思えて仕方がないのです。

■ 失われたのは才能ではなく、世界線だった

日本のロックに才能がなかったわけではありません。

むしろ、天才は無数にいましたが、問題は、それらを一本の歴史として接続する構造がなかったことです。
ジャンルが、メディアが、リスナー共同体が、産業が、批評が分けた。

その結果、本来なら世界規模の爆発になり得た流れは、国内の細分化されたシーンへと散ってしまった。

ぼくは、そのことをどうしてもどうしても"死ぬほど悔しい"と感じてしまうのです。

これは、「昔は良かった」という話ではありません。
むしろ逆です。
日本の若手は本当に、心底すごい。
かっこいい。
名前を挙げたアーティスト以外にも、たくさんたくさんの天才たちが存在します。

だからこそ、悔しい。

彼らを聴いていると、失われた世界線の残響が聴こえてしまうのです。

もしあの断絶がなければ、もしhideさんが生きていて、zilchとSpread Beaverの流れが続いていたら、もしViolet UKが00年代初頭に本格始動していたら、もしglobe extremeがトランスではなく、最新鋭のミクスチャー・ロックとして作られていたら、もし小室哲哉さんのデジタルロック志向と、YOSHIKIさんの劇場性と、hideさん周辺のインダストリアルな感覚が一本の幹になっていたら、そこへDragon Ash、RIZE、MAD、BOOM BOOM SATELLITES、DIR EN GREYが合流していたら、その後にFear, and Loathing in Las VegasやBring Me The Horizon以降の感覚とも接続されていたら、日本は、世界のミクスチャー・ロック大国になっていたかもしれない。

そしてその世界線では、今の若手たちは、もっと当然のように世界の中心で鳴っていたはずです。

ぼくは、これを単なる過去の惜別として書いているわけではありません。

日本人が自分たちでうまく名付けられず、接続できず、価値化できなかったものを、後になって海外のリスナーが掘り返す。

Vaporwave以降のシティポップ再評価は、まさにその象徴だったと思います。

だとしたら、90年代末から00年代初頭の日本ロックにも、まだ掘り返されていない巨大な鉱脈が眠っているのではないか。

ぼくはそこに、今の若手たちの未来も重なって見えてしまうのです。
かつて名付けられず、分断された大河の源流。それを20年以上の時を経て、現行のアーティストたちが無意識に、しかし圧倒的なクオリティで繋ぎ直そうとしています。
「日本人も、日本のロックが持つ真のミクスチャー精神をもっと誇っていい」
失われた世界線の残響を聴きながら、ぼくは今、確信を持ってそう思っています。

ちなみに、その"ミクスチャー精神"が、神道的な思考フレームを持つ日本人に特有の、いわば民族的な才能なのでは?とも思うのですが、それもまた別の機会に。

以上でございます。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
こんばんは、ルシファーです。

ついにリリースされましたね。のろゐみこさんの「異形」。

https://x.com/noroimico/status/1986992077490823424?s=20

 

 




何を隠そう、このわたくしネモトコウヘイが作詞と作曲を担当いたしました。

経緯などはツイキャスで語った通り。

※これの最初らへんと、これの前の録画の最後のほうからも一応その話してます。

ここでは、主に歌詞に込めた内容について切々と語っていければと思います。

■大前提
ちなみに、ぼくは筆者や作者が何を込めたかは、実は正解とは別のものだと思っています。
なので、今からここに書くことと別の解釈や感想があったとしても、それは不正解ではないです。
感想や批評は、それそのものが実は創作物であると思っていて、なぜならぼくが作る作品も、ぼくが享受した別の作品の感想や批評でしかないと思っているからです。
だから、「思ってたのと違う!」があったとしても、恥ずべきことは一切ないです。
逆に、作者が思いもしない解釈ができるのってすごいことだと思いますよ。

とはいえ、ガイドラインがあるほうが安心して作品について語れる、という方もいらっしゃると思います。
今回の作品だけではなくて、THE NOSTRADAMNZの楽曲や歌詞についても過去にさんざっぱら解説していますので、同感!であっても、異議あり!であっても、何か感じた方は是非ともSNSに書いていただいたり、DMに送っていただいたり、お手紙をくださったり、お友達やご家族に一方的に語ったり、そこから語り合いになってくれたりするとすんごい嬉しいです。
ほんとそれが何よりもすんごい嬉しい。


■異形とは何か?
タイトルになっている「異形」ですが、ぼくは下記のようなイメージを持ってます。

①カネゴン



ウルトラ怪獣の中でも屈指の知名度を誇るカネゴンですが、実は「ウルトラマン」に出てくるキャラクターではなく、前身番組である「ウルトラQ」が初出です。
成田亨さんによる、既視感と違和感が混在する秀逸なデザインがインパクト大ですが、実は彼、元々は人間だったんです。
加根田金男くんという、お金が大好きな少年が、お金の音がする不思議な繭を拾って、親に「そんなにお金のことばっかり考えてるとカネゴンになるぞ!」と言われ、本当にカネゴンになってしまうという話。
コメディータッチで描かれますが、よくよく考えると怖いですよね。
お金ことが好きで好きで、お金に取りつかれた結果、"ヒト"ではなく"異形"の存在となるわけです。

②仮面ライダーV3



ウルトラマンと双璧を成す、日本の特撮ヒーローの代名詞「仮面ライダー」の第二作です。
仮面ライダー1号と2号は、優秀であったがために悪の組織ショッカーによって改造人間にされ、無理やり"異形"の存在とさせられた、というのがストーリーを支える重要な骨子になっています。ヒトではなくなってしまった自分が、ヒトを守るために戦うが、異形であるがためにヒトの社会には受け容れられない孤独を背負ったヒーロー、というのが、神仏のような光の戦士であるウルトラマンとの最大の違いであり、特に古いシリーズを特徴づけている所以だとぼくは思います。
だから、仮面ライダー1号2号のマスクには涙のような意匠が入っており、これは他の石ノ森章太郎作品のヒーローにもしばしばみられる特徴です。
で、なぜぼくがここで一号や二号ではなく、2作目にして三人目のライダー「V3」をここで引き合いに出すのかというと、V3は2人の先輩とは違い、自ら改造人間になりたいと願った存在だからです。
ショッカーの後継団体「デストロン」に両親と妹を目の前で殺された男が、その復讐を果たすために自ら改造人間、つまり異形の存在になりたいと願った、というお話なのです。
異形の存在となる苦しみを知っている先輩二人は当初は断りましたが、すったんもんだあって彼を認め、後輩に改造手術を施すのです。
「果たせぬ想いを果たすために自ら能動的に異形の存在となった者」が、仮面ライダーV3なのです。

③戸川純さんの「蛹化の女」



もはや実質的に国歌と呼びたいパッヘルベルのカノンに乗せ、"あなた"を想い過ぎるあまり、虫になってゆく女を描いた、凄まじい楽曲です。
これは、それこそ感想や批評をしようにも、容易に言葉にできないところに凄みがある実例だと思います。
ただ、それほどまでに誰かを想うことってすっげえ…という想像をして、ただ圧倒されますね。
「想うあまり、いつのまにかヒトではない異形になった」という凄まじさ。なんかそういうものをぼくだって描きたいぞ!というのが、「異形」の作詞をするうえでのそもそもの着想だったのかもしれません。

④能面




般若のお面が有名ですが、あれって元々はヒトの女性なんですよね。
最近AIで造られたと思しきショート動画を見ましたが、能では女性の感情レベルに合わせてお面が使い分けられるそうですね。泥眼⇒橋姫⇒生成⇒般若⇒真蛇と進化していくんだそうです。進化っていうとポケモンみたいだけど。
要は感情のレベルが上がるにつれて、ヒトではなくなって"異形"の存在に、そして怨霊や妖怪の類に、しまいには触れられない神のようになっていくということだと思います。

■「怨念」が出たとき感じたこと
で、ぼくはのろゐみこがドロップした楽曲「怨念」を聴いたとき、「うわーこりゃあ勝てねえな」と素直に思ったものです。
普段の「ひょうきんで楽しい人たちだなあ」という印象が正直強かったけれど、楽曲の中身を見たときに、それこそ戸川純さんにあるような「凄み」のようなものを感じるんですよね。これって、男性からすると最大級に怖い。自分が持たない、しかしいつそれに触れることになるかわからないモノだから。
その凄みは、ジェンダーが男性でありながら出せる人ってあんまり、というかほぼ居ないと思う。ぼくが如何に残酷で凄惨なことを書いたとて、男性特有の「(射精の為に託けた)人語の通じなさや愚かしさ」はあれど、「(特定の対象に向けられた)感情そのものの凄み」みたいなものってそこまで感じないと思うんですよね。
そういった凄みが、普段「ひょうきんなお姉さん」として振る舞ってるあの2人の声と演奏で紡がれることが、他にないオリジナルだなあとぼくは思ってます。

■「怨念」から読み取ったストーリー
たぶん許嫁的な、将来を約束し合った大切な相手(きみ)を、理不尽な「掟」とそれに付随する「儀式」で失った人の話なんじゃなかろうかと思います。
おそらく、罪が罰を呼んだ話ではなく、罪なき人が、その人以外の最大幸福のための祭祀で、生贄として身体を切り刻まれたのだろうと思います。四肢を奪われ、腹を切り裂かれ、その血肉を神に捧げる狂乱の宴。
見てはならないその光景を、どうしても心配で、暗闇からこっそり覗いて目撃してしまった主人公は、悪い夢を見ているのだと自分に言い聞かせるけれど、それが現実であることを受け入れると同時に、ヒトを捨て、鬼になります。
「こんな理不尽がまかり通る世界なら、そんなものは総て燃やしてしまえ」という感じで、生まれ育った集落に火を放ち、人々も家々も、そこでの思い出も、全てが煌々と燃え上がるに至ります。
そんな業火を背景に、無惨に傷つけられて軽くなってしまった亡骸を抱え、主人公は力いっぱい走ります。
亡骸と2人だけの逃避行の中で、だんだんと自分がヒトとしての感情を失って、怒りと憎しみと呪いに満ちた存在感になっていくのを感じながら、どこまでも走っていきました。
でも、どこまで走っても、呪いの唄はずっと頭の中で鳴り響き、ついてきます。

アレだ、もののけ姫のタタリ神なんかがそんなイメージですよね。
そんなお話を「怨念」から読み取りました。

■そして「異形」の存在へ
ヒトであることを捨て、鬼と化して途方もなく走り続けた主人公は、だんだんと、カネゴンや仮面ライダーV3、蛹化の女、そして泥岩が真蛇に変わっていくように、抱えた亡骸と結合し、変形していき、その姿は、もはや元々ヒトであったかもわからないような、異形の存在になり果てました。
怒りと憎しみと復讐だけが形になったような、禍々しい異形の何かになって、もはや怒りや憎しみを向けるべき対象が何なのかすらわからなくなっていった。
そしていつしか、街をただただ彷徨う怪異となりました。夜な夜な闇を徘徊し、朝になれば人混みに紛れる、生きているか死んでいるかもわからない、曖昧な存在です。

「瀝青(れきせい)」とはアスファルトやコールタールのことで、「脈理(みゃくり)」とは筋状の模様や組織の並びのことです。だから「瀝青の脈理」とは、つまりコンクリートの建物の隙間にアスファルトの道路が張り巡らされたような市街地や都会のことですね。
とすると、主人公が生まれ育ち火を放った故郷からは、ずいぶん遠くまで来てしまったんですね。
きっともう、故郷の風景も思い出せなくなってるでしょうね。

ただ、「きみ」を救えなかった後悔や罪悪感と、故郷に火を放って滅ぼした業を背負いながら、この世界への怨念を抱き続けることが存在意義であり、目的となっています。

■異形に訪れる転機
霊感の強い子供なのか、心ある霊能力者なのか、もしくは神主や僧侶、はたまた神父や牧師かもしれないんだけど、その異形の怪異に気づく人(あなた)に、たまたま出会うんですよね。さらにその人は、怪異を怪異として扱わず、まるでかわいそうな犬や猫をみつけた子供みたいに、無邪気に交流をもちます。

いくら脅かしても、
「そっかあ、何だかわからないけど、とっても悲しくてつらいことがあったんだね。よしよし。また明日も会いにくるから、ここにいてね!」
とかなんとか言って、声をかけ、耳を傾け、頬や頭に触れ、毎日会いにきてくれる。

もし「君」との間に子供がいたら、このくらいの歳なのかなあ?みたいなことなのか、はたまた「君」を忘れるくらいの恋愛対象なのかはわからないけれど、「あなた」の存在が、哀れな怪物にやっと差し込んだ光になるわけです。
いつしか、「早く会いたいな」なんて思っちゃうんですよ。怪異のくせに。

■引き裂かれる存在意義
皮肉にも、「あなた」の存在によって、怪異の中に、「赦されたい」や「癒されたい」という想いが芽生えてしまう。

「あなた」との交流で、忘れまいと思っていた怨念の傷口が塞がれていってしまう。痛みが癒えてしまう。途方もない年月の中、耳にこびり付いたままだった「呪いの唄」が遠のいてしまう。
でもそれは、怪異が異形たる理由を失うことに繋がります。

「あなた」の純粋な優しさが光となって、それが強くなればなるほど、世にも醜い異形となった姿が鮮明に映し出されてしまうことに、恐怖すら感じます。

だから、
「その眼で、見ないで。」
です。

街路樹の椿の花が、あれから何度目かわからない春の訪れを告げます。

それでも、凄惨な死を迎えた「きみ」のこと、その真っ赤な血肉の匂いを、故郷を焼き払った業火を忘れて、自分だけが癒されたり、赦されたり、ヒトの心を取り戻したりすることは、決してできない。それは、「きみ」を愛し続けること、「きみ」を不幸にした世界を憎み呪い続ける誓いを立てて異形となった自分への裏切りであり、主人公にとっては「きみ」の痕跡を否定することにすらなります。
だから、主人公のタマシイや肉体を覆い、それを異形たらしめている「殻」を脱ぐわけにはいかない。

ここに根源的且つ避けようのない矛盾が生じて、主人公は存在ごと引き裂かれようとしています。
だから、異形の殻の下にいる、苦しみからの解放を望み、葛藤の中で無様に引き裂かれゆく、ヒトとしての自分を「きみ」にも「あなた」にも見られなくたい。

それで、
「私を、見ないで。」
です。

そんなイメージをもった歌です。
せつねえなあオイ!!!!

■V系と異形
ヴィジュアル系って、異形の文化なんですよね。
ゴスやLAメタルといった、英米圏のお化粧ロック文化とV系の根源的な差違は、それこそウルトラマンや仮面ライダーとアメコミヒーローの違いを考えると、垣間見える気がします。
例えばマリリンマンソンやスリップノットも異形っちゃ異形なんですけど、彼らは「生きて血が通ったヒトが、コスチュームとして何かを纏っている」というニュアンスは捨てないんですよね。
他方で日本のV系は「いるはずのない何かが憑依して、変異したと見做す」というニュアンスが強いと思います。能面や歌舞伎にもそのニュアンスがあると思います。
そこが、結構V系がその他の類似カルチャーとの境界線を感じさせるところである一方で、「お囃子で踊り祈ることで神性を帯びる巫女」みたいな部分でアイドル文化とは相似関係もしくは地続き上にあるんじゃないかなーと思います。

こと、ぼく自身はとにかく「普通の子供」でいることから脱却したいと深く強く願った結果、メイクをして衣装を着て髪をセットし、ルシファー様だぞ!と言いながらステージに立つことになったわけです。
うちのギターはロボットだし、ドラムはピエロです。
異形のパレードでございますね。

のろゐみこが、アイドルでもなくガールズバンドという括りでもなく、V系だと感じられる理由も、そのあたりの話の中にあるんじゃなかろうかと思います。

■二項対立に挟まれて
ぼくを内包するTHE NOSTRADAMNZの歌には「夢に胸をときめかせるロック少年だった自分」と「何も成さずに大人になってしまった自分」の対立や、「そんな自分への自責と自虐」と「うまくいかない世界への他責と他者への責任転嫁」の対立や、「紳士的かつ知的なジェントルマンでありたい自分」と「野卑で下品で性的で暴力的な願望」の対立など、複数の二項対立の狭間で揺れたり、激しく葛藤したりする様が描かれています。
描かれているというより、滲み出てしまう、のほうが正確かも。

そんなぼくから見て、のろゐみこにも、「ひょうきんでたのしいお姉さん」と「暗澹たる怨み辛みと心の闇」みたいな二項対立が存在すると思います。
たぶん両方とも彼らの本当の姿であり、時にそれは矛盾を抱えながら同居したり、はたまた激しく葛藤したりして、それが楽曲やステージにも滲出することで成立する世界観だと思います。

だからこそ、「怨念」と対立し、矛盾し、それでいて地続きになっている「異形」をのろゐみこが歌うことで、この歌にはタマシイが宿るし、だからぼくはここまで自分の楽曲に感動できたのだと思っております。
なかなか経験できない、大変ありがたいことです。

以上でございます。
ご静聴、ありがとうございました。