本当の自由は何処だ | 君を殺しても

君を殺しても

THE NOSTRADAMNZ Lucifer K nemoto

おげんきですか?

ぼくは正直申し上げてあまり元気ではないかもしれません。

なぜか、7/21のライブが終わって帰路につく途中で、自分の中の何かがパッキリ折れてしまった感覚があります。
それも、ボキッというような大きな挫折感や落胆ではなく、ほんとうに些細な、パキッという感じ。
いくつか思い当たる節があるのと、それとは関係ない話も含めてアウトプットしたいと思います。

■7/21の話
すごく楽しかったです。
emmureeも夜も、圧倒的なパフォーマンスでしたね。
他のパートは置いといて個人的な感想として、圧倒的なボーカリストと圧倒的なベーシストに挟まれた圧倒的ベースボーカルとしてがんばりました。
我々も含めて各々、前に一緒にやったときとは体制がちがったりバンドがちがったりといったところに気が付いて時の流れを感じたけれど、なにより皆かっこよくなってることがすごい楽しかったです。
ありがとうございます。

■池袋手刀
遥か昔は少年だったぼくにとって、初めて行った都心のライブハウスでした。
留学生ビル、ブラン、中学生棺桶、あざらし、オシリペンペンズの対バンイベントだったと思う。
(追記:なんと探したら当時居合わせた方のレビューがあった

ぼくは666(パンクブランド)のカタログについてきたコンピレーションアルバムであざらし(北海道のパンクバンド)を知って衝撃を受けてファンになって、彼らが東京に来るというので、お年玉やバイト代をかき集めてがんばって作った鋲ジャンを着て、本厚木から電車に乗って独りでとぼとぼと行きました。あの頃のぼくには大冒険であり、一大イベントでした。
あまりにも衝撃的なパフォーマンスをかます面々に、なんというところに来てしまったんだろうぼくは、と思いました。
そのときかその次の同じような機会だったか定かでないけれど、物販席であざらしのメンバーさんに挨拶をさせていただいたとき、「打ち上げ行こうよ!」と誘ってもらったのですが、バチクソに未成年だったし、所持金が800円だったしで断念せざるを得ませんでした。
で、ほどなくしてぼくも出演者側として頻繁にステージに立たせてもらうことになり、朝まで打ち上げをやって帰る、というルーティンがもはや普段の生活の一部になっていました。
それすなわち、何の責任も負わず、翌日のことなど何も考えず、ただただ毎日の昼夜が楽しかった日々でした。
むしろ昼間は寝てました。
ぼくにとって、池袋手刀にはそういった日々を想起させるノスタルジーがあります。
そして、当時はわからなかったけど、今になって解る、大きな大きな自由を思いっきり謳歌していた(悪く言えば浪費していた)のだな、という事実を突きつけられるわけです。それがあっての今なので、謳歌して浪費したぶんの経験値やオモイデは何にも代えがたいことは解ったうえで。
で、気づけば記憶に新しいCovid19騒動からはまもなく5年経つんですよね。
時の流れ早すぎ問題に、ぼくは焦燥感に駆られて、パニックを起こしそうです。

■時間と体力なさすぎじゃない?問題
ひらたく言えばスランプなんですが、創作のほうがうまいこといかない状況に悶々としています。
アイデアは無尽蔵、言いたいこともやりたいことも次々に浮かんでくるのに、それをゆっくり形にできる時間がない。
でも、時間がないというのは本当は嘘であって、寝てる時間とかボーっとしている時間を、創作に向き合う時間に充てればいいだけの話なんです。ストイックな人とかはそうやって時間を捻出して努力をして成果を勝ち取るんでしょうけど、ぼくにはそんな気力も体力もないので、結果的に「そう、時間が足りないのだ」と自分に言って8時間くらい寝ないと人格とパフォーマンスを保てないのです。(なんかウルトラマンが地球上では3分間しか戦えないみたいな感じでかっこいいな!ルシファー様は16時間しか起きていることができない!がんばれ!ルシファー様!と言ってくださいよ声にだして)
で、やっとまとまった時間がとれるな!よし!と思ってギターを手にしてDAWを立ち上げるのだけど、どうにも納得がいかない。
頭の中で鳴っている音楽がかたちにならない。無理に形にしても、思いついたときに感じたようなトキメキやワクワクが再現されない。思わぬところで整合性がとれない。などなどで嫌になってしまう頃には起きてから16時間経ってるので寝なきゃいけないでしょう?かわいそう俺。

■ナルシシズムの一寸先にある軽度な醜形恐怖
自撮り写真をアップすることに最近すごく抵抗があって、カメラの性能がいいのだろうけど、自分の姿に耐えられなかったりします。
チェキだとそのあたりが映らないのでチェキ大好きなんですけど、自分のカメラでの写真を楽しみにしてくださる方には申し訳ないです。
ライブならそういうものなので致し方ないんだけど、ぼくの意識としては、写真ってレコーディング音源みたいなもので、妥協を差し引いても「良い」と自分で思えないものを自分の手でお届けするのは、どうしても抵抗があるのです。
自分以外の誰かが撮ったものなら全然気にならないんですけどね。不思議。
ちなみに最近気づいたのは、ぼくは自分の中の道義に反することを、自分の手でやることにはすごく抵抗があるのだけど、自分以外が勝手にやる場合は全然気にならないということ。これって責任感の話だと思うのですが後述。

■暑すぎ問題
あついですね。寒いよりはマシなんですけど、身の危険を感じるレベルだったりして、ちょっと出かけて帰ってくるだけでもう全てが嫌になってしまいますね。
でも、この間ゲリラ豪雨があって、雨あがったなと思って外に出たら、すごく涼しくなってました。
昭和の頃、よく軒先でババアがひしゃくで水撒いてたのってこれだったのかと思いました。

■怖い夢
見上げたら向こうで核爆発が起きたので、やべえってんで振り返って逃げようとしたら、向かう先の山が大噴火して、爆煙と火砕流の挟み撃ちに遭う夢をみました。
予知夢でないこと切に祈ります。

THE NOSTRADAMNZのEPなんですが、ちょっとタイミング的に不運だったよねコレ、と思っていて、メンバー脱退からの、2人態勢でどうにかしようとしいの(←作曲とRECはこのへんのタイミング)、SCHEHAAAN加入しいの(←ギターだけぼくの演奏からシェギターに差し替え)、でもミックスはぼく、という制作経緯で、且つまだ『CLUB33』に対する総括もできていないかった、それでいてまだまだコロナ禍だったという本当に過渡期オブ過渡期の狭間で制作とリリースをした感じがあったので、くわしく触れられてないんですよね。
スランプになると自分の過去の曲なんかもよく聴き返したりするんですが、ぼくは好きですこのEP。
"時間が足りなくて"中断状態になってしまっているツイキャスのほうでの『A WHORE NEW WORLD』の解説もきちんと終わらせたいので、そのあとに『REVESURRECTION』についても振り返る時間をとりたいなと思っています。
それまで忘れてほしくないので概要だけざっと書いておきます。

①Accesaries
ぼくらから離れていく人は少なからずいた。
でもぼくは、それでもぼくらを見ていてくれる人に向かってこそ歌いたいと思った。
それが不謹慎で悪趣味で罪深いものだったとしても。
だから、"共犯者 この指とまれ"です。

②Forgivenness
ごく個人的に、許せない相手が居た。
彼女は全く犯罪者でも社会悪でもなかったが、ぼくとは本当に考え方や性格や志が合わなかった。
何が嫌だったかって、結局彼女は自分で自分を孤独と不幸に陥れていることにひたすら無自覚だった。
それでいて、彼女はそんな“アテクシ”を恰好よく見せたがったが、ぼくにはそれが稚拙に見えて吐き気がした。
バレバレの寂しさと弱さを隠そうとする、その稚拙な見栄は、仮に拷問器具に縛り付けて、おくすり漬けにして、あんなものやこんなものを使って辱めても、保っていられるのかな?なんて。
そして、凄惨な拷問を完遂した挙句になら、ぼくはあなたを許せるのだろうか?なんて。
お前のこと、本当に大っ嫌いだけど幸せになってほしい、というアンビバレントな想いを皮肉って歌いました。

③Immitation cold
コロナ禍のメディアとSNSに対する怒り。はげしい怒り。かったるい怒り。
派生して、おまえら本当に犬かサルが言われるがままに喧嘩してるだけだな、と思ってる。
誰かを傷つけずにはいられないくせに、自分は勝手に傷ついてる。
誰もが被害者でいたいくせに、加害には無自覚。
何にも少しも加害者的立場にならずに生きるなんてできないんだってば。馬鹿が。
その怒りは今も続いているし、何かがパキっと折れた原因のひとつだと思う。
タイトルはI'm・immune・imitation・風邪・寒い/冷たい・硬直 を、とある名曲になぞらえて。

④処刑台より
そんな馬鹿は全員処刑されて死んでしまえばいい。
じゃあ、死刑囚は生まれながらにして悪人だったのか?悪ってなんだ?
とある元死刑囚のドキュメンタリーを見て、ぼくは想像しました。

詳しくはこちらの後半


それでも、罰を受けて身体が死んでも、罪が消えるわけではない。
ただ、その想いが言葉となり、そして星となり、時や空間を越えて、誰かをor誰かの罪から、何らかのかたちで救いますように。

■, but don't forget your responsibility
1981年から2022年11月まで41年間活動していた、GAUZEという伝説的なハードコアパンクバンドがいました。
ぼくがパンクに興味を持ったときには既に伝説の存在というか、超怖くて近づきがたい存在で、いつかいつかと思いながら一度 も生演奏を観ることは叶いませんでした。人生の大きな後悔のひとつ。
ぼくは高校生のときに入手したこのアナログ7インチ盤に度肝を抜かれました。
暑いしスランプだしで、移動中はハードコアパンクを聴く最近ですが、シークレットで行われたGAUZEの解散ライブの映像を観ました。

その中にあった「パンクスとは、自分に責任をもつということ」という言葉にまたガツーンとやられた思いがしました。

パンクって、反体制のイメージがあると思うんです。政治と切り離しても、“抗う”という精神が根底にあるカルチャーだと思います。それを体現する人のことをパンクスというのだと思います。

抗わなければ流されることになり、流されたくないなら抗わなければならない。
大きな流れに抗うことは、すなわちDIYになるわけで。で、DIYには責任が伴うんですよね。自分で決めて自分でやった結果には、当然責任が伴うわけです。
逆にいえば、責任をもつ覚悟がなければ自由は手に入らない。


(歌詞を上げてくださっている方います。)
責任ってなんだろう、ってぼくはよく考えるものの、そのわりによくわからないのですが、責任のもち方として「歯を喰い縛って耐える」というのは、大いに有ると思います。
で、男として、それができる人のことをすげえかっこいいとぼくは思う。
GAUZEの、解散までを含めた活動は、まざしくそれを体現していたと思います。だからぐうの音も出ないほど格好いい。

じゃあぼくにそれができるのかと問われれば、そんな自信は無いのだけど、そうありたいとは思います。

自分が勝手にそうありたいと思っているだけなので、お門違いなのは百も承知で、その責任ってやつがあまりにも軽視されていないか?と思います。誰が?というよりは、時代の空気として。
もしかすると、責任が軽視されているのではなく、「自己責任」なんて鬼の首をとったような身の程知らずの言葉がいつからか使われるようになった結果、歯を喰い縛って耐えても、誰も助けてくれないなら自分で決めることに価値など無い、という世の中になっているのではないかとも思います。
むしろ、失態が露呈したら利害の外側からもとんでもない数の石を投げつけられてしまう。
みんながいつも利き手の中に石を持っていて、石を投げてもいい相手をずっとずっと探している世界。
石の投げ場を見つければ周知し合って、互いに喜々として石を投げつけあう世界。
お前ら、その石どこで拾ってきたの?と思って調べてみると、その石は拾ってきたものではなく、生存競争を勝ち抜いてきた現生人類という種が、ご先祖様から持たされて、生まれつき遺伝的に持っている石なんですって。いけ好かない奴に石を投げるとドーパミンが出て気持ちがいいって感じるようにできてる。そうプログラムされてる。救いようがねえ。

百歩譲って、石を投げられる人の責任として、止まない投石に歯を喰い縛って耐える義務があるとしても、本当は石を投げるほうにも責任ってあるんじゃねえの?と思います。
じゃあお前が石を投げられる番になったら、歯を喰い縛って耐えるんだよな?と。
何の失態もおかさない人間なんていないと思うんですけど。
どんな奴だって全員絶対に、少なくともちょっと前までは赤ちゃんだったんだよ。赤ちゃんじゃなかった人いる?一度も乳のみながらウンコもらしてないヤツいる?
そのくせ、やいのやいのドーパミンのために石を投げ合うって、クソみてえな話だ。クソみてえな話だよそんなの。

THE CLASHの楽曲に「Know your rights」という曲があります。
己の権利を知れ、という意味だと思うのですが、歯を喰い縛って我慢する覚悟のない奴が権利ばかりを主張するのって、ぜんぜん説得力を感じないです。
別にいいんですけどね。説得されないだけですし。何より、説得力ねえよ!って誰かに直接石を投げるような、原始人の遺伝子に流されたような振る舞いを、ぼくは恥ずかしいと思うので、できるだけ晒したくないと思いますから。

ぼくは、自分で道を選んだ結果、歯を食い縛ることになっても、それを自分以外の何かのせいにはしたくないと思います。
思っているだけで、全然できないかもしれないけど。
いざとなったら、核戦争も地球温暖化も全部ぜんぶ隼人のせいだ!!!!!とか言うと思うけど。

■おわりに
とはいえ、あなたがいつも、普段見えないだけで、何かに歯を喰い縛って生きていることもわかっているつもりです。
誰も、歯を食い縛っているところなんて見られたくないから、自分以外が何にどれだけ歯を食い縛っているのか知らないってだけなんです。
ああ、もう食い縛っていられない、もう駄目だ、となったとき、ぼくらがつくる音楽やステージや自撮りやチェキが、もしくはぼくが紹介した音楽や歌詞が、少しでも何かのプラスになるなら、ぼくのパキッといった何かはたちまちどうでもよくなるし、あなたの存在もまた、ぼくにとって何かに歯を喰い縛る力を与えてくれているのだということを、毎度の如くですがお伝えしておきます。

やっぱり、書くとだいぶすっきりしますね。
8/10、横浜で会いましょう。