今回もお題リクエストにお応えし、サブカルってなんだろうって話を考えてみたいと思います。
ざっくり、ぼくの捉え方としては、マジョリティーの文化(とされたがるものとしたがるものが一致している領域)=メインカルチャー、そうでないものはサブカルチャーだと思っています。
なので、サブカルチャーの範囲ってめちゃめちゃ広い。
ちょっと似てるなーと思うのが、昆虫の蝶と蛾の関係です。
蝶と蛾は、実は同じ鱗翅目というグループの同じ生き物です。
で、鱗翅目の中で、特定の条件を満たすものが蝶、それ以外は全部蛾なんだそうです。
例外も多々あるようですが、
昼行性・止まったときに羽をたたまない・触覚が櫛状になってない、胴が細い
みたいな、つまり、ざっくり美しいのが蝶です。
ぼくは鱗翅目ぜんぶ嫌いだけど、たしかにどちらかと1日過ごせと言われたら泣く泣く蝶を選びます。
想像しただけで吐き気がするけどな。
でも蛾にも羽根の模様が綺麗なやつはいるし、蝶にも地味なやつはいますよね。
それでも、一般に蝶は美しく、蛾は汚い、という認識ってあると思います。
で、「その他」の総称でしかないはずの蛾にも、一定のイメージってちゃんとあると思うんです。
なんかこう、胴がブヨっとしてたり、触覚がゲジゲジしてたり、幼虫が必要以上にキモかったり、夜電灯に集まってたり、止まってるなーと思ったら突然発狂して飛んできたり。
うえー!きもちわる!!近寄るな!!
メインカルチャーとサブカルチャーの関係もそういう感じだと捉えています。
その時代、もしくは国家が、理想とするような文化がメインカルチャーだとすると、例えば
ドラえもんでいうとしずかちゃんとか出木杉くんが好んでやりそうな、絵画とかクラシック音楽みたいなものがメインカルチャーのステレオタイプだと思います。
健康的でハツラツとした、知的なイメージの文化。
サブカルチャーはその逆で、不健康で陰鬱な、バカっぽいもののはずで。
かなり多様であるはずなのに、たしかにそういうイメージってあると思います。
サブカルっぽいものって色々あるけど、ぼくのイメージは、お店でいうとヴィレッジバンガードであり、ポストホビーであり、中野ブロードウェイです。
ぼくの好きな、特撮やアニメというか、オタク文化的なものはサブカルチャーですよね。
ロックやパンク、ヴィジュアル系も、ぼくはサブカルチャーの定義に本来当てはまるものだと思います。
なんですけど、インターネットとSNSの出現で、ぼくはメインカルチャーとサブカルチャーの境界はほぼ無くなったのではないかと思っています。
サブカルチャー的なものはそれまでいつの時代もあったはずではあるんだけど、2019年現時点で「サブカル的」とされているもののイメージが確立したのは1980年代だと思います。
今に繋がるようなオタク文化もこの頃に発生しているし、音楽業でインディーズという枠ができたのもこの頃のはずです。
なんでかって、ある程度自由が許容される時代にありながらも、マスメディアに圧倒的な力があったからなのではないかなと。
テレビや新聞ですね。
あれらで扱われるものを、国民全員が割と把握していたというか、「メイン」がはっきりしていたから、対立概念である「サブ」も、自ずとはっきりしていたように思います。
つまりは、マスメディアが取り上げるに足らないもの、としていたことがサブカルチャーだったんだと思います。
もしくは「アングラ」みたいなもの。
だからこそ、少数派はSF大会を開催したり、インディーズレーベル所属であったりしながらも、マスメディアにとらわれない自由で尖った行いをしていたんだと思います。
そしてそれはそれで、少数派でありながらそれぞれにそれなりの勢力規模をもっていた。
ぼくが子供時代を過ごした90年代半ばは、まだ子供たちはみんな概ね同じ遊びをしていたし、同じテレビ番組を観ていたし、同じ音楽を聴いてたように思います。
みんながジャンプを読んでドラゴンボールや遊戯王のアニメに夢中になったし、コロコロコミックを読んではミニ四駆やハイパーヨーヨーやポケモンで遊びました。
これらはメディアが漫画やテレビアニメだし、本来はサブカルくくりかもしれないけど、少なくとも当時はサブカル感を感じてなかった。
あとはスクールカーストや地域性でもそんなに差異はなかったと思います。
音楽も、みんなヒット曲聴いてたし。
まあ今の子供もそうなのかもしれないけど、もう少し多様な気はするし、あの時のミニ四駆やたまごっちほどの社会現象になるようなブームってあまり目にしない気がして。
一番記憶に新しくても、妖怪ウォッチとかポケモンGOなのかな。
あとはブームが起きても、もう少し規模が細分化されていませんかね。
個人的に今でいうサブカル感を初めて感じたのは、昔本厚木のパルコ2にあったポストホビーというおもちゃやさんと、その隣にあったヴィレッジバンガードでした。
両方今もお店としては別々の場所に移転しつつも存在してるけど、雰囲気が全然違うように感じます。
ぼくらの頃、遊戯王のオフィシャルのカードゲームってまだなかったんだけど、劇中みたいにカードバトルがしてみたくて、そういうのあればいいのにねー、なんてみんなで話をしていたら、実在する元ネタが「マジックザギャザリング」というカードゲームらしいよって話が広まり、ぼくらのクラスではマジックザギャザリングが大流行りしました。
ただ、ミニ四駆やハイパーヨーヨーのように、その世代の子供みんな、ではなく、ぼくらの周囲ではぼくらのコミュニティだけで流行った、というのがミソ。
これに少数派的感覚があった。
カードが買える場所が、ポストホビーでした。
パルコ2自体が、なんか子供だけで行っちゃいけないような場所なようにぼくらには思えていました。
不思議だよね。
イトーヨーカドーには堂々と行けるのに、パルコに行くのは親に言いづらかった。
ポストホビーにはオタクのお兄さんたちが集まっていて、なんかヤバかったです。
小学生相手に平気で「デュエルしませんか?」とか声かけてきて、容赦なくコテンパンにしてくるし、「あ、これは今は禁止カードだぞ!まあいいや‥」とかややマジなトーンで言ってくるし。
でも彼ら、教養は高くて、日本語版のカードより英語版のカードの方が割安だったので、おこづかいに限りがある我々は英語版しか買えない、とかしばしばあったんだけど、どういうカードか聞いたら教えてくれたりしました。
思えば、彼らの世代がインターネット第一世代のオタクたちだったんじゃないかと思います。
2chより前の、あめぞうとか、あやしいわーるどとか、そういうのを賑わせていたのは彼らのような空気感の、あの世代の若者たちだったんだと思うと、色々合点がいきます。雰囲気の話でしかないのだけど。
そんな、親や学校の先生にら推奨されない雰囲気で、それでいて不良っぽさがないことが、サブカルって感じでした。
で、その隣にあったヴィレッジバンガードは更にサブカル感がありましたね。
今でこそ店内が明るくて、万人よ来たれって雰囲気もあるけど、あの頃は店内が薄暗くてブラックライトで照られてるような感じで、デカいエイリアンの卵のオブジェとかあったりして怖かった。
中学生くらいからよく行くようになって、あそこでマリリンマンソンの自伝とか、ピストルズの写真集とか、HRギーガーの画集とか、夢野久作とか、町野変丸とか、鳥肌実とか、とりあえずなんか怪しくてヤバい!と思うものに色々出会いました。
今のまんだらけとかには、なんか同じ雰囲気を感じます。
で、思えば、ヴィレッジバンガードに怪しみを感じなくなっていったのと、インターネットの普及は時期が同じだった気がします。
インターネットとSNSの普及で、メインカルチャーと呼ばれるものもサブカル的に扱われるようになり、サブカルチャーだったものも普通に普段目につくところにあるというか、共通の趣味の人がそんなに少なくないことがわかる状況になり。
いつしかクラシック好きな人もオタクみを帯びていることがわかり、特撮をアカデミックに研究してる人がいることもわかり、両者にはそんなに差異がなくなってきた、という様相を呈してきたようにぼくには見えます。
SNS的なものも、ぼくが高校生くらいのときは魔法のあいらんどなる無料ホームページのサービスでみんな個々のページをもってたりして、高校生バンドなんかはみんな魔法のあいらんどにBBSがあって、あそこで交流したり喧嘩したりしてましたね。
それが大学生くらいにミクシィになり、ミクシィにはコミュニティがあって、ディープな趣味でも半匿名で語り合えるような環境になり。
それまでそういった役割があった2chは完全匿名だったし、電車男ブームでもはやアンダーグラウンドな存在ってわけでもなくなり。
あとはYouTubeやニコ動、そしてツイッターとFB、トドメにインスタグラムが出てきて、もう割と今の感じだったと思います。
ミクシィにあった機能がそれぞれ細かく細分化されて住み分けされてった感じの印象です。
つまり、メインカルチャーを担っていた「大衆」は、分野ごと、メディアごと、SNSごとに細分化されて、多数派なるものがなくなった。
もしくは、そう見えないようになっていったように思います。
だから現状は、クラシックや絵画がメインカルチャーでアニメや漫画はサブカル、みたいな分かれ方はしなくなっていると思います。
じゃあ両者の違いは何か、というと、アプローチと捉え方の違いになってきているんだと思います。
同じ対象でも、サブカル的な目線で見ればサブカル的に解釈できるし、アカデミックな目線で見ればメインカルチャー的な分析ができる時代になったのだと思うのです。
なので、現在においてはサブカルチャーとメインカルチャーは必ずしも対義語ではないというか、見る側の眼差しの違いになってきていると思います。
ただ、ハイカルチャー/カウンターカルチャーは、またこれらとは別の括り方になると思います。
ハイカルチャーは、享受するのにそれなりの教養が必要になるような文化をさします。
上流階級の文化。
これとメインカルチャーは重なる部分はあれど、そもそもの切り出し方が別なのだと思います。
例えば、絵画とかって、まあ綺麗な絵だなぁとか、写実的だなぁとか、好きとか嫌いとかは誰でもわかると思うんです。
ただ、絵画は勉強して知識があると、見え方がまるで変わってきます。
違う価値が生まれます。
見る、というより、読む、に違い眼差しが発生します。
これは、ハイカルチャー的なものの見方だと思います。
元々は、教養ある貴族や資本階級が享受する文化です。
クラシック音楽なんかもそうですよね。
逆に、そうしたものへのアンチテーゼとして、カウンターカルチャーがあります。
ざっくりいうと、労働者階級の文化。
レベルミュージックとしてのロックやヒップホップはこっち側。
不良文化ですね。
つまりは、メイン/サブのような可変的でゆるいものではなく、こっちはほどんど階級闘争であり、中身が変わっても、この関係値は変わらない。
むしろテーゼとアンチテーゼを繰り返していきます。
かつてアンチテーゼだったものが文化の中心にくると、またそれに対するアンチテーゼが発生し、同心円状に延々とそのせめぎ合いは継続しながら脱皮を繰り返します。
例えば音楽でいうと、ロックが市民権を得て商業化していき、それへのアンチテーゼとしてパンクロックムーブメントが発生します。
やがて、LAメタルへのアンチテーゼとしてグランジが登場します。
あと面白いなーと思ったのが、クラシックの世界には「現代音楽」というジャンルがあって。
ロックでいうところのプログレに近いような、かなり技術的に難しくて音楽としても難解な、実験要素がつよいジャンルです。
で、現代音楽の有名な方が、「バッハもモーツァルトもベートーヴェンも、当時は現代音楽だったはず」と言ってて、ああ!そっか!みたいな。
今ではクラシックだけど、彼らは結構パンクロッカーみたいな人生を送ってたりして。
ビートルズですら、今は教科書に載ってるけど、当時の大人たちからはチンピラの騒音と思われていたとか。
ギラギラしたアンチテーゼだったものが、いつしか古典になり、権威をもっていくという現象が、結構あるんですね。
実は文化というのは、テーゼとアンチテーゼの間のせめぎ合いが激しければ激しいほど、おもしろいものになります。そして発展します。
ぼくの恩師は、このせめぎ合いにおいて、アンチテーゼがテーゼに対して「牙をむく」と表現していました。
その牙が、鋭く長くあればあるほど、文化は面白くなる、と。
ぼくもそう思います。
今の日本では、階級闘争とまでは言わなくとも、いわゆる悪い子たちが憚っていこうとする牙みたいなものが、ヒップホップシーンにはあると思います。
アナーキーやKOHHやバッドホップには、そうした牙の存在と鋭さ感じます。
だから、リアルに響く。
ぼくらも、なんかただひたすら環境に迎合した楽しさだけだったりすると、パンクロックが本来もっていた、そうしたヒリヒリした牙を忘れてしまいがちです。
ヴィジュアル系だって本来はアンチテーゼの文化なので、そういう牙を失いたくないなと思います。
なぜって、牙を感じる音楽のほうがかっこいいと思うからです。
というわけで、またもや長くなりましたが、鱗翅目の例はなかなか良い例えな気がするんだけど、どうでしょうか。
そろそろこういう小難しい話よりは下世話な恋愛相談とかに乗りたいので、ぜひぜひお待ちしております。
小難しくても全然いいけどな!😈
おやすみなさい!