タイトルは何か捻りがあるわけでもなんでもなく、ツイッターにどうでもいいことを書こうと思ったんだけど、字数を調整するのが面倒になったのでこちらで自由に書きます。
自由って気持ちがいい!!
子供の頃は1200字作文書いてこい!て言われてエエ〜とか思ってたけど、今なら余裕だからかかってこいよクソ教師、て気分です。
ちなみに多分、日本の義務教育の国語における作文の勉強のカリキュラムは間違ってると思う。
文章って水増しするより削るほうが遥かに頭つかうと思うんだけど、「400字×何枚以上」みたいなやり方するじゃないか。
時には反省文とか、すごくネガティヴ且つ儀式的で中身のない形で。
それだと、書きたくもない内容をいかに引き延ばすかっていう、国語力が育たないばかりか実生活では絶対クソの役にも立たない作業にしかならないと思うんだ。
むしろ、日本語に対する嫌悪にすら繋がると思う。
ぼくが先生だったら、まず口頭で、なんらか好きなことについて生徒に語ってもらう。
映画のことでも、マンガのことでも、恋愛のことでも、なんでも。
できれば好きなことが好ましいけど、どうしても無いなら嫌いなことでも、誰かの愚痴でも構わないから、何かしら語れることを口頭で好きなだけ語ってもらいます。
たぶん、そうなったら誰でもそこそこの長い時間、楽しく喋ると思うんです。
どうしても自発的に出なければ、国が補助金出してでもプロのインタビュアーを雇って、どうにか口車に乗せて引き出せばいい。
で、語りを録音しといて、それを聴き返せるようにして、散々語ってもらった内容について、400字1枚に収めてもらう、というお勉強方法をやったらいいんじゃないかな。
更に、学年やレベルが上がるにつれて、だんだん字数を短くしていきます。
字数というか、年齢が上がって語る情報量が大きくなるなら、語った内容に対して文章では何パーセントに圧縮できるか、みたいな評価軸でもいいかも。
そうして情報を短くまとめるにあたって、やっと章立てとか段落とか構文とか熟語とか漢字とか語彙が必要になって、それらを生きた知識として身につけていくほうが学習効率が高いと思います。
子供なら尚更。
すごーく語りたい内容だったら、生徒側もそれらを主体的にやろうとする気がするんです。
中にはどうしたってやらない子もやれない子も一定数いるだろうけど、ぼくが受けたような知識先行の学習カリキュラムよりは、楽しくできる子は確実に多くなるように思います。
ぼくが義務教育を受けたのはもう結構昔になってしまったから今はもうちょっとマシになってるのかもしれないけど。
で、最終的に五・七・五の17字まで抑えて、そこでやっと俳句を作る勉強です。
そこまでに、歌の歌詞にしてみるとか、ラップにしてみるとかしても楽しいかもね。
いつやったか覚えてないけど、結構子供のときに授業で俳句作らさせられた気がする。
自分が作詞をするようになってから、お〜いお茶の容器に書いてある俳句とか見るようになったけど、字数が少ない中で情緒や情景を描くのは相当なテクニックがいるんですよね。
そもそも、情報というのは、大きくするよりコンパクトにするほうが難しいはずなんですよ。
だから情報機器は、情報量は大きく、図体は小さく、というベクトルに技術が進化してってるんじゃないんでしょうか。
学校の国語は、学年が上がるごとに作文用紙の枚数が増える。
そう考えると、何かを学ぶことって、だいたいにおいて逆なんですよ。
何か目的が先にあって、それに対してどうアプローチするかを考えた結果、メソッドになっていったものが学問であるはずで。
それを幼少期から、足し算とか引き算とかの方法論だけを、学問だ!と押し付けたって、そんなん勉強嫌いになって当然じゃないか?
たかしくんに何個くだもの買わせたら気が済むんだって話。
そのうち破産するぞあいつ。
思い返せば、ぼくにとって音楽がそうだった。
音楽の授業とか超つまんなかったし苦痛でしかなくて、大っ嫌いだった。
リコーダーも鍵盤ハーモニカも嫌だったし、歌ですら嫌だった。
でも、ラルクやエックスみたいになりたい!と思ったら練習したもんね。
練習だと思ってなかったし。
それが好きで楽しかったからやってただけ。
逆に、もし音楽の授業で
「えー、ロックにおいてギターでディストーションサウンドを出すには、アンプのゲインを上げてみましょう。ほら!ねもとくん!ピックは逆アングルで当てなさいって言ってるでしょ!ミュートも全然ダメじゃないの!どうしてできないの!意図しないハーモニクスが出たら減点ですからね!」
みたいな教育をうけたら、学校卒業した瞬間ギターぶっ壊して燃やすしロックなんて二度と聴かないだろうさ。
だから、国語の授業は、たぶんその点でも逆なのです。
主語とか述語がどれだとか、作者の言いたいことをア〜ウから選べとか、下線部が何を指しているか本文中から5文字で抜き出せとか、そんなことはもっともっと後でやればいいのです。
むしろ、どうでもいいのです。
自分が伝えたいこととか、知りたいことがまずあって、それをインプットしたりアウトプットしたりするのに、自ずと言語とそれを操るテクニックが必要なってくるんです。
知識とテクニックだけを先に授けられても、それは苦痛でしかなくて、付け焼き刃でテストでいい点がとれても、死んだ知識にしかならない。
で、少ない情報から文章を膨らませることは、生きた言語能力や知識が身についてからトライするほうが楽しいはずだと思うのです。
言葉にできなかった情緒を表現できるようになることは、表現欲求が刺激されて快感になるはずです。
例えば、赤い花、とかを見て、あかいな、の四文字だけじゃなくて、あの人の笑顔のように暖かな色で〜みたいのって、ある程度の経験があって初めて感じることで、そのときに相応の言語が身についていて初めて表現することができるのでは、と思のです。
誰か権力者が読んでたら、ぼくの意見を文部科学省に伝えてください。
そしてぼくが死んだら日本語教育の偉大なる父として、アー写をお札に印刷してください。
でもさ!!ぼくが書きたかったどうでもいい話はこれじゃないんだ!!国語の教育論はどうでもよくないが、少なくともブログの画面を開いたときはどうでもよかったんだ!!
もっともっとくだらない話だったんだけどキリがいいので一旦終わります!つづく!!