見えない自由が欲しくて 見えない銃を撃ちまくる | 君を殺しても

君を殺しても

THE NOSTRADAMNZ Lucifer K nemoto

こんばんは、ルシファー powered by レッドブルです。

ご質問を頂いて超うれぴよぴっぴなので早速回答します。

なぜ哲学科に進学したのか知りたーい!というご質問を頂きました。
ありがとうございます。

とはいえ、なんでだっけな、と思い返すと直接何かキッカケがあったわけではなく、割となりゆきだった気がします。

出来るだけ小さい頃から人生を振り返って、
関係ありそうなところを書き連ねてみようと思います。

◼️引越しが多かった
哲学って、平たく言うと「なんでだろう」をする学問だと思うのですが、自分が「なんでだろう」を最初に思いつめたのは、幼少の引越し体験がきっかけだった気がします。

物心ついたときには埼玉県川越市にいたんだけど、幼稚園の頃の途中で、川越駅の近くから南古谷駅のほうに引っ越しました。
幼稚園は変わらなかったんだけど、近所の子が変わって、ひどく寂しかった覚えがあります。
川越のアパートには同じくらいの歳の子がたくさんいて、よくみんなで遊んだんだけど、南古谷のマンションには小学生ワルガキが三人くらいで、よくいじわるされたもんです。
詳細は別の機会にとして割愛しますが、幼稚園児から見た小学生て大人にしか見えなかったし、そんな大きい子たちに妙ないじわるをされ、寂しくて、「なんでだろう」と思ってました。
かわいそうなぼく。

でもそこは子供で、しばらくすると人となりもわかってきて、最後は結構仲良くしてくれたし、彼らもいいお兄さんでいようと努めてくれるようになっていた気がします。

そんな矢先、小学校に上がるときに静岡の焼津に引っ越すことになり。

また寂しい日々がはじまって、仲間はずれになり、またなんでだろうってよく天上を見ては泣いていました。
でも、やっぱりノリがわかってくると仲良くなっていきました。

しかし、またしてもそんな矢先、2年生の夏休みに神奈川県の厚木市に引っ越すことになり。

その夏休みはずっと1人でした。
塾の夏期講習とか行ったけど、みんな勉強しにきてたので遊び友達のノリでもなく。
仕方ないからひとりで公園に行ってみたら、ちょっと年上の男の子がひとり、女の子が2人いて、彼らが遊んでるのを遠くからただ見てた。

多分男の子が気を遣ってくれて、
「そこの変な人も一緒に遊ぶー?!」
と声を掛けてくれたんだけど、
「変な人」がものすごいショックで、苦笑いしながら首を横に振って逃げました。

なんでだろう。そんなに自分が変だったんだろうか。

なんで自分だけこんな目に遭うんだろう。
なんで。

そう繰り返し思いながら、泣きながらストツーをやりました。
あとはひとりでSDガンダムのプラモデルを作ったり、自分で考えたガンダムの絵を書いたりしてました。

それでもえらいもんで、新学期になって新しい学校に通いだして、そこそこ時が経てば慣れていくので、すぐに明るくてひょうきんな子に戻っていきました。

でも、ひとりで「なんでだろう」を考える時間は、平均よりはちょっとだけ多い子供だったのかもしれません。

子供だったから、考えるというよりは「思ってる」だけだったけど。

◼️祖父の死
これも割と最近なんかの記事で書いたけど、
焼津の頃に父方の祖父が胃がんで亡くなりました。
それこそ子供だったし、そんなに自分がショックを受けている自覚もなかったのだけど、この死をきっかけに「死」をすごく意識しだしたのだと思います。

後年、当時の夏休みの宿題の絵日記とか、親と先生の連絡帳のやりとりとかを見て、7才の自分が案外にも死を自分なりにどうにか受け止めようとしていた形跡を見ました。

未だに祖父は夢に出てきます。
よくあるのは「祖父はまだ生きていて、死んだのはドッキリでした」という夢。
実は今も受け止めきれていないのかもしれないですね。

ただ、「死ぬのが怖い」ということを、あれからすごく思うようになりました。

なんで死ぬのか考えると、生まれたからで、なんで生まれたのか考えると、死ぬためなのかな?みたいなことをずっとぐるぐる考えていました。
なんか宇宙っぽいイメージを持ってた気がします。
だからか、ぼくは満点の美しい星空が怖い。
なんか、時間とか空間を遥かに超越した、行き場のなさを感じるし、死に吸い込まれそうな気がして、うっとりするけど怖いです。

「オモイデ」のサビの歌詞は、そういうイメージですね。
 
死生観と時間について考えるようになった元々のきっかけは、やはり祖父の死だったのだと思います。

◼️小学校5年生の詩の授業
そんなぼくもクラスでは結構ひょうきん者タイプで、授業中に落ち着きがないと成績表に毎回書かれていました。
集中力なんて皆無だったけど、図工の時間はすごく好きでした。
でも、頭で思ったものがなかなか形にならなくてよくヒスッたりもしてましたね。
少年ルシファーは小さくてもゲージツ家だったのです。

そんな折に、詩を作ってみようって授業がありました。
これが楽しかった。
作文は好きじゃなかったんだけど、詩は好きでした。

で、みんなは「消しゴム」とか「かつおぶし」とか身近なものを観察した結果を詩にしてて、ぼくも空気を読んで「電池」について当たり障りないものを書いたんだけど、なんかしっくりきませんでした。

そのとき、少年ルシファーは病に侵されました。
ちょっと早かっただけで、それは急性中二病でした。

「死トハ ドウイウコトダロウ」
「体ガ 動カナクナルコトダ」
「・・・」
「ワカラナイ」
「ワカラナイカラ 怖イノダ」

みたいな、というかほぼ上記のような内容のリフレインで、漢字とカタカナだけを使って、画用紙を夜空のような濃紺に塗って文章を囲んで作品にしました。
先生に出したら「根本くんて結構こういうの好きだよねぇ」という謎のコメントを貰いました。

ちゃんと白いまま書いた電池のやつとどっちを飾るか迷ったんだけど、先生が「好きなほうでいいけど、紺色のやつのほうが人を惹きつける感じはするよね」と言ってくれて、そっちを教室の後ろの壁に飾りました。

白や明るい色のクラスメイトの作品が並ぶ中で、自分のだけ暗色なのが、妙に気持ちよかったです。
たぶん「変な人」と言われても怖くなくなった、むしろそれがステータスになった気がしたのはこの経験からだったと思います。

奇しくもこれと、ロックに出会った時期が非常に近いです。
たぶん、特殊であることを誇りたかった故の必然として、化粧をしたお兄さんたちのロックが好きになったのだと思います。
そういえば、いわゆる酒鬼薔薇事件とかもこの頃ありましたね。
大人たちは急性中二病を発症したぼくを心配していたかもしれません。

ただ、自分が考えたことを自分でちゃんとアウトプットして、誰かからリアクションを貰う、というのはこのときに初めて経験したことだと思います。

◼️火の鳥
時は流れ中学2年生、父親が毎週厚木私立図書館でCDやら漫画やら本やらを借りてきていました。

なぜか厚木私立図書館はハードロック/ヘヴィメタルのラインナップが充実しており、とりあえずコレ聴いとけ的な王道から、ディスクユニオンとかでもあんまり出会えないようなレア音源まで取り揃えられていたので、ぼくはぼくで色々借りてはカセットテープやMDに落として聴きあさりました。

置いといて、父親が手塚治虫にハマりだし、ブラックジャックとか、ブッダとか、どろろとか、短編集とか、色々ひと通り借りてきていたので、ぼくは放課後にそれらを読み漁りました。

で、中でもたぶん世界が変わったくらいの衝撃と影響を受けたのが「火の鳥」でした。

特に「未来編」と「復活編」がヤバい。


これは、このブログを面白いと思ってくれる層の方々には、是非とも読んでみていただきたい。

人生とか、宇宙とか、世界とか、生と死とか、愛とか憎しみとか、なんなんだ!!!ということを考えざるを得ないというか。
とても1人の人間が考えた話とは思えないようなスケール感で、ぼくは読み終えたあと、なんだか火の鳥と一緒に時空を旅して、極小の世界から極大の世界までザーッと見せられて、急に現実に戻ったような気分になりました。

ぼくは、ああ、これって「哲学した」ってやつかもしれない、とか、朧げに思いました。

大人になってからではなく、まさに思春期真っ只中、部活とか受験とか進路とかでわちゃわちゃなりつつも、最も感受性が鋭かった時期に読んだことが、なんだかんだ哲学科に入るに至った直接の原因になっていると思います。

◼️教員免許が欲しかった
とはいえ、中高生のぼくはロックに取り憑かれておりまして、人生を棒に振るう勢いで慢性持病化した中二病を抱えつつ、自分こそシドヴィシャスやカートコバーン、そしてhideさんを超えるようなロックの革命児になって早々に死ぬんだと信じて疑わなかったので、正直「大学?行ってられっか馬鹿野郎!」くらいに思っていました。

でも、両親は高卒で、大学に行かなかったことで死ぬほど後悔していた派だったので、大学にはどうしても行かなければならない状況でした。

で、自分は自分で、四年間自由になるなら、その間にロックスターになればそれでいっか、くらいの激甘な考えだったので、とりあえず高校2年の後半くらいからちょこちょこ受験勉強を始めました。

で、東進ハイスクールに通ってたんだけど、先生(というよりもアドバイザー的な役割の人)と親と年に何度か面接するんです。 
ロックスター以外なら、靴職人とか服飾関連とかデザインとかそういう面白そうな仕事だといいなーと思って、そういう為の勉強ができる四年制大学とかも紹介してもらったんだけど、そんなにそういう職業につきたいわけじゃなかったので、なんかしっくり来ず。

で、バイトしてたラーメン屋の社長に、「逃げ道は作れ」と言われていたのもあり、ロックスターがロックをやるための保険として許される職業が何かを考えた結果、ラルクのyukihiroさんが教員免許を持ってるって話を思い出し、
「自分、教員免許がとれる学校がいいです!」
と言ったところ、親も先生も納得だったので、行けそうなラインの大学で志望校がギュッと絞られました。

で、やるなら金八先生とか好きだし国語の先生かなーと思って、当初は日文系を目指してやってたのだけど、たまたま高校の非常勤講師の若い先生が、公民の授業でロックやモンテスキューの話とか、倫理の授業でイドとかエゴとからへんの話をしてくれて、それがすごく面白かったんです。
特に倫理は、ブルーハーツの歌詞とかを題材にしながらやってくれて、ちょうどバンドでもコピーしてたので、お勉強というよりは、創作の為の知識として楽しかったのです。

で、はたまた偶然にもその先生が、ぼくの志望校のひとつと同じ大学出身だったのです。

これが最後の決め手になり、ぼくはその大学の日本文学科ではなく、哲学科が第一志望になりました。 

哲学科の場合、教職は社会科になるのと、あと図書館司書とか学芸員とかの資格がとれるって話で、親も大賛成でした。

かくしてぼくは哲学科に入学するに至ったわけです。

ただし、学問としての哲学について、入学前に致命的な誤解をしていたことや、バンドとバイトでヘトヘト過ぎて資格課程なんてやってられっか!!!クソが!!!的な状況だったりとか、
何よりも、大学という場所は、高校までのようにただそこにいれば自動的に教えてもらえるような場所ではなく、本当に学問をするなら能動的に飛び込まなければならない環境だったので、ぼくは哲学についてちゃんと勉強していません。

まあさずかに全く触れてない人より多少は知ってるかな、程度です。

大学行ってなくても、自分で興味を持ってデカルトだのヴィトゲンシュタインだのニーチェだのを読んでるタイプの方のほうが、よっぽどちゃんと解ってると思います。

ただ、生きてる宮下先生に出会えただけで、ぼくはあの大学に行ってよかったと心底思っています。

以上!
猛烈に長くなりましたが、ここまで読んでくださったあなたはぼくのこと相当好きですね?
ありがとうございます😈