夏の庭 | 君を殺しても

君を殺しても

THE NOSTRADAMNZ Lucifer K nemoto

各位

お疲れ様です。ルシファーです。

掲題の件、相米慎二さん監督、1994年公開の邦画でございます。


神経質で感情的なメガネ、常識あるノッポ、走り出したら止まらないデブ、というどこかで見たことあるような小学6年生の3人組が、「死」について素朴な興味を持ち、三國蓮太郎さん演じる死にそうな独居老人が、死ぬまでを見張ってやろうとストーキングするうちに、家の手伝いなんかするようになりつつ、仲良くなっていくお話です。

なんかコレ、子供の頃ヒマでテレビを適当に見遣ってたときに、たまたま途中から見始めて、最初は つまんなそー、と思いつつも結局最後まで観てしまい、えらく感動した記憶があって。
これまたたまたま見つけたので観ました。

泣きましたね。

大人になって観ると、カメラワークがすごく良いなと思いました。
画を最大限美しくみせるアングルからの、ハッとするような構図がたくさん出てきます。
ストーリーを置いといても、画が美しいのは良いですよね。
画質がいい、とか、色彩が鮮やか、とかもいいんですが、それよりは、画自体の強さみたいなものに惹かれます。
スタンリーキューブリック然り、実相寺昭雄さん然り、庵野秀明さん然り。

お話のほうは、たぶん皆様観ないと思うのでオチまで書きます。

じいさんは台風の夜に、皆んなで植えたコスモスが心配で駆け込んできた子供らに、戦争体験を無邪気に訊かれ、外国で若い妊婦を殺してしまった罪悪感で、終戦後も家族に会えないでいることを語ります。
子供らは、じいさんと家族を逢わせてやりたいと思って、小学生なりに頑張って調べ始めます。
なんと、子供らの担任の先生がじいさんの孫だと判明。
出征時に身重のまま残していった妻が、まだ生きていることを知ります。
じいさんは、当初は「会わないほうがいい」と言って人違いだと言っていたものの、やはり会いにいきます。
会いにいく日、子供らはサッカーの試合で同行できず。
試合が終わって一目散にじいさんの家に行くと、じいさんは亡くなっていて、子供達は初めて目の当たりにした死を前に、なんで死んだんだと大泣きします。

葬儀の日、火葬に入る直前に、年老いた妻(ボケてる)が到着し、じいさんの顔を見るなり涙を流しながら「おかえりなさい」と言って頭を下げます。

それから皆んなでリフォームした、家主を失った家の庭で、子供らは不思議な体験をします。
「あの世に味方がいるなんて、そんなに心強いことはない」
そう言って物語は幕を降ろし、エンディングでZARDの歌が流れます。

そんな物語が、なんとも自分と重なってしまうのです。

90年代前半のあの独特の空気感というか、登場人物たちはその頃のぼくより全然年上なんだけど、着てるものとかが凄い懐かしい感じというか、あーいたいたそういう子、て感じ。

あとは、93年にぼくは祖父を亡くし、初めて人の死を経験しました。
生まれて初めて、死んでる人を見た。
なんだかよくわからない印象が残りました。

そのあとに阪神大震災やオウム事件、そしてノストラダムスの予言があって、祖父のときにぼくは死を理解してなかったというか、受け止めきれていなかったんだな、と子供心に思いながら、いつか自分も死ぬんだということに気付き始めました。
そりゃあもう怖かった。

他の子供が死に興味を持つ過程を知らないし、たぶん明確に興味自体を持つほうが少数派なのかもしれないけど、なんだかんだ今歌う内容に及ぼしてる影響は明らかだと思います。

マジで死ぬのが怖くて仕方がなくて、父親に相談したのを覚えています。
父は「お母さんのお腹にいたときのことを覚えてる?」と問うてきました。
覚えていないよ、と答えると「そこに戻ると思えばいいんだよ」という回答をくれました。

なるほどそれはひとつの腑に落ちる回答ではあるなと、今も思います。

でもぼくは未だに怖い。
頭が冴えてないときは、死んだほうがラクだ、と思う瞬間も多々あるんだけど、冴えてるときにふと死を想うと、なんだか絶望してしまう。

更に、年を重ねるごとに死との距離は近づいてくるので、その恐怖感て増すばかりなんですよね。
もっともっと歳をとれば、怖くなくなるんだろうか。

誰もが死に向かって生きていると思うと、なんか全部無駄な気がしてきてしまいます。
終着点が必ず死なのであれば、その過程たる人生は、実際無駄なのだと思います。

でも、宇宙から見たら無駄かもしれないけど、意味は見いだせるはずで。
よく「意味」があるとかないとかって物事を判断する基準になると思うのですが、ちょっと違う気がしていて、意味とは元々自然界にあるものではなく、我々自身が付与するものではないかと思います。

音楽がまさにそうで、音って音でしかないんだけど、我々が組み合わせて紡ぐことで音楽になるわけで。
音に感覚や意味を見出すのは音そのものではなく、それを体験する我々のほうです。

音楽も、必ず終わるよね。
音楽が止まったら、音楽だった時間は終わる。
我々の人生より幾分か短いだけで、始まりと終わりのある時間であることに変わりはないです。

でも音楽って無駄じゃないんです。
聴いて何かを感じる人がいれば。

同じように、誰かの生は誰かの生にとって無駄じゃないんです。
だから人は一人では生きられない。
誰かがいて初めて自分の生に意味を見いだせるのだから。
ヒトが孤独を恐れるのは、なんかそんなようなことなんじゃないかと思います。

映画のじいさんは、妊婦と妊婦が身籠もっていた赤ちゃんの命を奪いました。
2人の命は、じいさんのその後の人生に大きな影響を与えたのは明白です。
彼の家族にも、たまたま知り合った子供らにも。


ぼくは、命が元来尊いものなのだとは思っていません。
生存を選択してきた種だから、命を尊く思う気質が遺伝的に残ってきただけで、それは淘汰の結果に過ぎないと思います。

だからこそ、生まれてきた我々が、自分たちの命を能動的に尊ぶべきなのではないでしょうか。

ほんと、あなたもぼくも偶然生まれただけなんですけど、もう現に生まれてしまっているのだから、他の誰かの命に否応なく既に影響しているのです。
だから、お互いを大事にしないといけないですね。

というように、冷静になれば命の尊さをぼくは自分なりにきちんと理解しているにも関わらず、テンションが上がるとすぐ殺してやるー!とか言いがちなのは、そんな大事なものだからこそ壊してやりたくなる衝動が、やっぱりどこかにあるからだと思います。

奇しくも、映画の劇中のメガネの子供が、わざと死に近づくような行動を衝動的にとるシーンがあり、動機はぼくとはやや違うのだけど、共通する部分もあって、そんなことも考えてしまいました。

命が1番大事だからこそ、皆様に死ねと言いたくなるのは、ぼくの為に大事なものを差し出してほしいという、ぼくなりの求愛行動だったのかもしれません。
違うかもしれません。


あ、音楽の話に戻りますが、音楽は何度も再生できるけど、人生は一度きり、とか思いませんでしたか?

それはちょっと違って、同じものを再生できるのは記録された音源だけです。
命も、生前の記録は何度も確認できますが、生き返るわけではない。
同じように、演奏したその瞬間は二度と訪れないし、その時のその音はその瞬間のその場でないと体験できないのです。

ライブは生き物、とはまさにそのことですよね。

そうです、宣伝したいのです。

2018/11/17(土)

Music Lab.濱書房Presents SPECIAL 3MAN !!!

『 R&R CONVERSATION#01 』

 

 [PLACE]Music Lab.濱書房

  [OPEN/START]17:00 / 17:30 

  [TICKET]adv¥3,500 / day¥4,000 (D代別)

  [ACT]加藤透 (ベース:ツブク“Mashoe”マサトシ/ドラム: 鍵山喬一) / THE NOSTRADAMNZ / イギリス人

 

 [TICKET INFO]

  発売日:10/13(土)~

  1.イープラスチケット (A1〜) http://eplus.jp


是非とも、生きてご来場ください。