君を殺しても

君を殺しても

THE NOSTRADAMNZ Lucifer K nemoto

こんばんは、ルシファーです。

ついにリリースされましたね。のろゐみこさんの「異形」。

https://x.com/noroimico/status/1986992077490823424?s=20

 

 




何を隠そう、このわたくしネモトコウヘイが作詞と作曲を担当いたしました。

経緯などはツイキャスで語った通り。

※これの最初らへんと、これの前の録画の最後のほうからも一応その話してます。

ここでは、主に歌詞に込めた内容について切々と語っていければと思います。

■大前提
ちなみに、ぼくは筆者や作者が何を込めたかは、実は正解とは別のものだと思っています。
なので、今からここに書くことと別の解釈や感想があったとしても、それは不正解ではないです。
感想や批評は、それそのものが実は創作物であると思っていて、なぜならぼくが作る作品も、ぼくが享受した別の作品の感想や批評でしかないと思っているからです。
だから、「思ってたのと違う!」があったとしても、恥ずべきことは一切ないです。
逆に、作者が思いもしない解釈ができるのってすごいことだと思いますよ。

とはいえ、ガイドラインがあるほうが安心して作品について語れる、という方もいらっしゃると思います。
今回の作品だけではなくて、THE NOSTRADAMNZの楽曲や歌詞についても過去にさんざっぱら解説していますので、同感!であっても、異議あり!であっても、何か感じた方は是非ともSNSに書いていただいたり、DMに送っていただいたり、お手紙をくださったり、お友達やご家族に一方的に語ったり、そこから語り合いになってくれたりするとすんごい嬉しいです。
ほんとそれが何よりもすんごい嬉しい。


■異形とは何か?
タイトルになっている「異形」ですが、ぼくは下記のようなイメージを持ってます。

①カネゴン



ウルトラ怪獣の中でも屈指の知名度を誇るカネゴンですが、実は「ウルトラマン」に出てくるキャラクターではなく、前身番組である「ウルトラQ」が初出です。
成田亨さんによる、既視感と違和感が混在する秀逸なデザインがインパクト大ですが、実は彼、元々は人間だったんです。
加根田金男くんという、お金が大好きな少年が、お金の音がする不思議な繭を拾って、親に「そんなにお金のことばっかり考えてるとカネゴンになるぞ!」と言われ、本当にカネゴンになってしまうという話。
コメディータッチで描かれますが、よくよく考えると怖いですよね。
お金ことが好きで好きで、お金に取りつかれた結果、"ヒト"ではなく"異形"の存在となるわけです。

②仮面ライダーV3



ウルトラマンと双璧を成す、日本の特撮ヒーローの代名詞「仮面ライダー」の第二作です。
仮面ライダー1号と2号は、優秀であったがために悪の組織ショッカーによって改造人間にされ、無理やり"異形"の存在とさせられた、というのがストーリーを支える重要な骨子になっています。ヒトではなくなってしまった自分が、ヒトを守るために戦うが、異形であるがためにヒトの社会には受け容れられない孤独を背負ったヒーロー、というのが、神仏のような光の戦士であるウルトラマンとの最大の違いであり、特に古いシリーズを特徴づけている所以だとぼくは思います。
だから、仮面ライダー1号2号のマスクには涙のような意匠が入っており、これは他の石ノ森章太郎作品のヒーローにもしばしばみられる特徴です。
で、なぜぼくがここで一号や二号ではなく、2作目にして三人目のライダー「V3」をここで引き合いに出すのかというと、V3は2人の先輩とは違い、自ら改造人間になりたいと願った存在だからです。
ショッカーの後継団体「デストロン」に両親と妹を目の前で殺された男が、その復讐を果たすために自ら改造人間、つまり異形の存在になりたいと願った、というお話なのです。
異形の存在となる苦しみを知っている先輩二人は当初は断りましたが、すったんもんだあって彼を認め、後輩に改造手術を施すのです。
「果たせぬ想いを果たすために自ら能動的に異形の存在となった者」が、仮面ライダーV3なのです。

③戸川純さんの「蛹化の女」



もはや実質的に国歌と呼びたいパッヘルベルのカノンに乗せ、"あなた"を想い過ぎるあまり、虫になってゆく女を描いた、凄まじい楽曲です。
これは、それこそ感想や批評をしようにも、容易に言葉にできないところに凄みがある実例だと思います。
ただ、それほどまでに誰かを想うことってすっげえ…という想像をして、ただ圧倒されますね。
「想うあまり、いつのまにかヒトではない異形になった」という凄まじさ。なんかそういうものをぼくだって描きたいぞ!というのが、「異形」の作詞をするうえでのそもそもの着想だったのかもしれません。

④能面




般若のお面が有名ですが、あれって元々はヒトの女性なんですよね。
最近AIで造られたと思しきショート動画を見ましたが、能では女性の感情レベルに合わせてお面が使い分けられるそうですね。泥眼⇒橋姫⇒生成⇒般若⇒真蛇と進化していくんだそうです。進化っていうとポケモンみたいだけど。
要は感情のレベルが上がるにつれて、ヒトではなくなって"異形"の存在に、そして怨霊や妖怪の類に、しまいには触れられない神のようになっていくということだと思います。

■「怨念」が出たとき感じたこと
で、ぼくはのろゐみこがドロップした楽曲「怨念」を聴いたとき、「うわーこりゃあ勝てねえな」と素直に思ったものです。
普段の「ひょうきんで楽しい人たちだなあ」という印象が正直強かったけれど、楽曲の中身を見たときに、それこそ戸川純さんにあるような「凄み」のようなものを感じるんですよね。これって、男性からすると最大級に怖い。自分が持たない、しかしいつそれに触れることになるかわからないモノだから。
その凄みは、ジェンダーが男性でありながら出せる人ってあんまり、というかほぼ居ないと思う。ぼくが如何に残酷で凄惨なことを書いたとて、男性特有の「(射精の為に託けた)人語の通じなさや愚かしさ」はあれど、「(特定の対象に向けられた)感情そのものの凄み」みたいなものってそこまで感じないと思うんですよね。
そういった凄みが、普段「ひょうきんなお姉さん」として振る舞ってるあの2人の声と演奏で紡がれることが、他にないオリジナルだなあとぼくは思ってます。

■「怨念」から読み取ったストーリー
たぶん許嫁的な、将来を約束し合った大切な相手(きみ)を、理不尽な「掟」とそれに付随する「儀式」で失った人の話なんじゃなかろうかと思います。
おそらく、罪が罰を呼んだ話ではなく、罪なき人が、その人以外の最大幸福のための祭祀で、生贄として身体を切り刻まれたのだろうと思います。四肢を奪われ、腹を切り裂かれ、その血肉を神に捧げる狂乱の宴。
見てはならないその光景を、どうしても心配で、暗闇からこっそり覗いて目撃してしまった主人公は、悪い夢を見ているのだと自分に言い聞かせるけれど、それが現実であることを受け入れると同時に、ヒトを捨て、鬼になります。
「こんな理不尽がまかり通る世界なら、そんなものは総て燃やしてしまえ」という感じで、生まれ育った集落に火を放ち、人々も家々も、そこでの思い出も、全てが煌々と燃え上がるに至ります。
そんな業火を背景に、無惨に傷つけられて軽くなってしまった亡骸を抱え、主人公は力いっぱい走ります。
亡骸と2人だけの逃避行の中で、だんだんと自分がヒトとしての感情を失って、怒りと憎しみと呪いに満ちた存在感になっていくのを感じながら、どこまでも走っていきました。
でも、どこまで走っても、呪いの唄はずっと頭の中で鳴り響き、ついてきます。

アレだ、もののけ姫のタタリ神なんかがそんなイメージですよね。
そんなお話を「怨念」から読み取りました。

■そして「異形」の存在へ
ヒトであることを捨て、鬼と化して途方もなく走り続けた主人公は、だんだんと、カネゴンや仮面ライダーV3、蛹化の女、そして泥岩が真蛇に変わっていくように、抱えた亡骸と結合し、変形していき、その姿は、もはや元々ヒトであったかもわからないような、異形の存在になり果てました。
怒りと憎しみと復讐だけが形になったような、禍々しい異形の何かになって、もはや怒りや憎しみを向けるべき対象が何なのかすらわからなくなっていった。
そしていつしか、街をただただ彷徨う怪異となりました。夜な夜な闇を徘徊し、朝になれば人混みに紛れる、生きているか死んでいるかもわからない、曖昧な存在です。

「瀝青(れきせい)」とはアスファルトやコールタールのことで、「脈理(みゃくり)」とは筋状の模様や組織の並びのことです。だから「瀝青の脈理」とは、つまりコンクリートの建物の隙間にアスファルトの道路が張り巡らされたような市街地や都会のことですね。
とすると、主人公が生まれ育ち火を放った故郷からは、ずいぶん遠くまで来てしまったんですね。
きっともう、故郷の風景も思い出せなくなってるでしょうね。

ただ、「きみ」を救えなかった後悔や罪悪感と、故郷に火を放って滅ぼした業を背負いながら、この世界への怨念を抱き続けることが存在意義であり、目的となっています。

■異形に訪れる転機
霊感の強い子供なのか、心ある霊能力者なのか、もしくは神主や僧侶、はたまた神父や牧師かもしれないんだけど、その異形の怪異に気づく人(あなた)に、たまたま出会うんですよね。さらにその人は、怪異を怪異として扱わず、まるでかわいそうな犬や猫をみつけた子供みたいに、無邪気に交流をもちます。

いくら脅かしても、
「そっかあ、何だかわからないけど、とっても悲しくてつらいことがあったんだね。よしよし。また明日も会いにくるから、ここにいてね!」
とかなんとか言って、声をかけ、耳を傾け、頬や頭に触れ、毎日会いにきてくれる。

もし「君」との間に子供がいたら、このくらいの歳なのかなあ?みたいなことなのか、はたまた「君」を忘れるくらいの恋愛対象なのかはわからないけれど、「あなた」の存在が、哀れな怪物にやっと差し込んだ光になるわけです。
いつしか、「早く会いたいな」なんて思っちゃうんですよ。怪異のくせに。

■引き裂かれる存在意義
皮肉にも、「あなた」の存在によって、怪異の中に、「赦されたい」や「癒されたい」という想いが芽生えてしまう。

「あなた」との交流で、忘れまいと思っていた怨念の傷口が塞がれていってしまう。痛みが癒えてしまう。途方もない年月の中、耳にこびり付いたままだった「呪いの唄」が遠のいてしまう。
でもそれは、怪異が異形たる理由を失うことに繋がります。

「あなた」の純粋な優しさが光となって、それが強くなればなるほど、世にも醜い異形となった姿が鮮明に映し出されてしまうことに、恐怖すら感じます。

だから、
「その眼で、見ないで。」
です。

街路樹の椿の花が、あれから何度目かわからない春の訪れを告げます。

それでも、凄惨な死を迎えた「きみ」のこと、その真っ赤な血肉の匂いを、故郷を焼き払った業火を忘れて、自分だけが癒されたり、赦されたり、ヒトの心を取り戻したりすることは、決してできない。それは、「きみ」を愛し続けること、「きみ」を不幸にした世界を憎み呪い続ける誓いを立てて異形となった自分への裏切りであり、主人公にとっては「きみ」の痕跡を否定することにすらなります。
だから、主人公のタマシイや肉体を覆い、それを異形たらしめている「殻」を脱ぐわけにはいかない。

ここに根源的且つ避けようのない矛盾が生じて、主人公は存在ごと引き裂かれようとしています。
だから、異形の殻の下にいる、苦しみからの解放を望み、葛藤の中で無様に引き裂かれゆく、ヒトとしての自分を「きみ」にも「あなた」にも見られなくたい。

それで、
「私を、見ないで。」
です。

そんなイメージをもった歌です。
せつねえなあオイ!!!!

■V系と異形
ヴィジュアル系って、異形の文化なんですよね。
ゴスやLAメタルといった、英米圏のお化粧ロック文化とV系の根源的な差違は、それこそウルトラマンや仮面ライダーとアメコミヒーローの違いを考えると、垣間見える気がします。
例えばマリリンマンソンやスリップノットも異形っちゃ異形なんですけど、彼らは「生きて血が通ったヒトが、コスチュームとして何かを纏っている」というニュアンスは捨てないんですよね。
他方で日本のV系は「いるはずのない何かが憑依して、変異したと見做す」というニュアンスが強いと思います。能面や歌舞伎にもそのニュアンスがあると思います。
そこが、結構V系がその他の類似カルチャーとの境界線を感じさせるところである一方で、「お囃子で踊り祈ることで神性を帯びる巫女」みたいな部分でアイドル文化とは相似関係もしくは地続き上にあるんじゃないかなーと思います。

こと、ぼく自身はとにかく「普通の子供」でいることから脱却したいと深く強く願った結果、メイクをして衣装を着て髪をセットし、ルシファー様だぞ!と言いながらステージに立つことになったわけです。
うちのギターはロボットだし、ドラムはピエロです。
異形のパレードでございますね。

のろゐみこが、アイドルでもなくガールズバンドという括りでもなく、V系だと感じられる理由も、そのあたりの話の中にあるんじゃなかろうかと思います。

■二項対立に挟まれて
ぼくを内包するTHE NOSTRADAMNZの歌には「夢に胸をときめかせるロック少年だった自分」と「何も成さずに大人になってしまった自分」の対立や、「そんな自分への自責と自虐」と「うまくいかない世界への他責と他者への責任転嫁」の対立や、「紳士的かつ知的なジェントルマンでありたい自分」と「野卑で下品で性的で暴力的な願望」の対立など、複数の二項対立の狭間で揺れたり、激しく葛藤したりする様が描かれています。
描かれているというより、滲み出てしまう、のほうが正確かも。

そんなぼくから見て、のろゐみこにも、「ひょうきんでたのしいお姉さん」と「暗澹たる怨み辛みと心の闇」みたいな二項対立が存在すると思います。
たぶん両方とも彼らの本当の姿であり、時にそれは矛盾を抱えながら同居したり、はたまた激しく葛藤したりして、それが楽曲やステージにも滲出することで成立する世界観だと思います。

だからこそ、「怨念」と対立し、矛盾し、それでいて地続きになっている「異形」をのろゐみこが歌うことで、この歌にはタマシイが宿るし、だからぼくはここまで自分の楽曲に感動できたのだと思っております。
なかなか経験できない、大変ありがたいことです。

以上でございます。
ご静聴、ありがとうございました。

こんにちは、ルシファーです。


前回は、前置きとしてぼくとパンクの関係性、そして認識の変遷を語りましたね。ええ、語りましたとも。



自己決定理論すげえ…などと考えていたとき、なんとなくTHE BLUE HEARTSの「少年の詩」が思い浮かびました。


↑違法にアップされてるじゃないか!ダメだぞ?ここから聴いたらダメだぞ?!あ??!


それこそ中高生の頃にすごくよく聴いてたし、好きな歌だったのですが、歌詞はあまりピンと来ていませんでした。

主人公が良い子なのか悪い子なのか判然とせず、大人を批判的に見てる割に説教くさいこと言うよなーと思ってました。

ぼくはそれよりは「吐き気がするほどロマンチックだぜ!」だったり、「何が日本の象徴だ!何にもしねえでふざけんな!」みたいなフレーズのほうが刺さりました。

さらに、ブルーハーツというバンド自体が、パンクという文脈から見た時の立ち位置に一抹の微妙さがあったことも一因だったのでしょう。パンクスたるものブルーハーツを素直に「好き」と言ってはいけない、みたいな雰囲気があったような気もしたりしなかったりというか。


改めて歌詞を見ていきましょう。



これもう、完全に自己決定のことを歌ってると思います。

しかし、なぜそう思えるのか。


ここで、自己決定理論の構成要素をかいつまんで、ぼくなりの解釈で説明します。学術的には不正確かもしれないけど、だったら自分で本を読みたまえ。


◾️外発的動機づけ

「言われたからやる」「怒られたくないからやる」みたいに、行動の動機が自分の外にある場合、それは「外発的動機づけ」によって動いていることになります。

平たく言えば、「やらされてる」かたちになるので、"モチベ上がんないよね〜状態"になります。

面白いのは、「どう見られたいか」で身につけるものを選んだり、「お金がほしいから」で仕事をしたりするのも、外発的動機づけによるものです。

皆さんがあんなにも仕事に行きたくないのは、外発的動機づけで仕事をしてるからなのかもしれませんね。


なので、「もっと給料が良ければ頑張れる」とか「ご褒美の為にテスト勉強を頑張る」は、無理です。一時的に効果があったとしても継続しないでしょうね。

これ、きちんと意識して振り返ると誰もにある経験な気もします。


◾️内発的動機づけ

対して、こちらは「自ら進んでやる」ことです。

例えば、言葉をマスターする前くらいの小さな子供って、そのへんに放つだけでチョコマカと探検したり探索したりするじゃないですか。給料も出ないのに。ご褒美もないのに。

皆さんも、どうでもいい石とか木の枝とかで遊んでたじゃないですか。ぼくも葉っぱをちぎるだけの遊びとか、CDの裏面の反射やビー玉の透明さを眺めるだけの遊びをよくしたものです。

それでも無性にワクワクして、満たされた気分だったと思うんですよね。

あれが、内発的動機づけによって動いている状態です。覚えてますか。

けれども我々は、成長過程で様々な外的要因に出会い、「統制」を受け、だんだんやる気を失っていくわけです。

それは親や兄弟、友達や先生、校則や法律、そしてお金と資本主義、さまざまなものによって、意識無意識に制限を受け、いつしか自律性を失って「やらされてる」状態になっていきます。

(これらは他の言説でいうところの「大文字の他者」と相同なのでは?と思ってるもののそれはまた別の話)


小さな子供は学びを求めて探索行動をしますが、学校に行き始めると勉強したくなくなるあの経験が、そういうことだと思うと合点がいきます。

これも、割と誰もに経験があると思います。


◾️自律的であること

つまり、過去に子供だった我々は「内発的動機づけ」で動いていた経験があるわけで、自覚さえできれば「やらされてる毎日」から脱却することも可能なはずです。


ぼくは悩みにぶち当たったとき、自己決定理論などをかじりながら「一回全部が全部自分のせいだという前提で考える」ということをやってみました。

やってみましたら、ぼくは、自分の思う通りに生きようとすること、即ち自己実現のための行動や判断の大半を、誰かのせいにして生きてきてしまったことに気がつきました。

ぼくは、それを「優しさ」や「大人の態度」であり、「かっこいい振る舞い」だと信じて疑いませんでした。しかし本質的には、うまくいかなかった結果について、他人のせいだと考えることで、自己防衛してきたに過ぎなかったのです。なんてこった!

それは衝撃的な気づきでした。


しかし、逆に考えると、全部自分のせいだとしたら、全部自分でどうにでもできるじゃないか!ということにも同時に気付くわけです。

つまり「どうにもならないことなんてどうにでもなっていいこと」であるように、どうにでもできることについては、どうにかしたいし(will)、どうにかできるし(can)、どうにかしなければならない(must)。


そう、起業やキャリア形成でよく出てくるアレを思い起こすのです。



これを自分で設定することができれば、それは自律的であるといえるでしょう。


つまり、自律的である状態とは、外部からの干渉や指示に依存することなく、自分自身の意思で行動し、判断できる状態のことです。


◾️自由と責任

自律的であれば、だいたいの外的要因による統制からは解放され、心はほぼ自由の身となります。

但し、自由は責任とセットです。

何からも干渉されず、誰の指示でもなく、自分自身の意思で行動し、判断した結果は、誰のせいにもできない。

だから、結果がうまくいかなかったとき、誰を責めることもできないということです。


他方で、結果について誰かを責めたくなるときは、その行動は自律的なものだったわけではなく、外発的な動機によって「やらされて」いた、ということになります。

平たくいえば、あなたは何かしらの奴隷だった、ということですね。


ちなみに、奴隷として生きることって別に罪ではないと思います。「奴隷」というと嫌な響きだけれど、奴隷でいるほうが幸福度が高い人もいていい。それは善悪ではなく、個々人がどっちを望むのかだけです。

自律的に奴隷を選ぶならそれでいいと思いますが、だいたい奴隷って、自分が奴隷であることには無自覚だと思います。


ぼくは、「奴隷を選ばない代わりに、自分の選択の責任は自分でとる」人を、カッコいい!と感じます。

それこそが、「Do it yourself」の本当の意味なんだと思います。

既存の社会的圧力や権威やルールを疑い、時に必要なら「関係ねーぜ」と一蹴して、自分で自分のケツを持って生きること。それが即ち、ぼくの思う「パンク」なのだと思います。


◾️ということを踏まえると

ピンと来ていなかった「少年の詩」が、わかるようになりました。

せっかくなので細かめに見ていきます。


「パパ、ママお早ようございます 今日は何から始めよう

テーブルの上のミルクこぼしたらママの声が問こえてくるかな」


つまり、「親」の気を引くための行動をとろうとしています。いわば外発的動機づけですね。


「1.2.3.4 5つ数えてバスケットシューズがはけたよ

ドアをあけても何も見つからない

そこから遠くをながめてるだけじゃ」


生物としての成長と発達によって、主人公は足を得ました。

だけど、靴を履いてドアを開けたら、まずドアの外に出て、手元と足元を見て、自らの眼で何かを探し、掴んでみなければ、得られるものは何もないわけですね。それはそう。


でも、ぼくなんかは遠くを眺めてるだけで勝手に奇跡が訪れたり、もしくは良き人が勝手にぼくを見つけてどこかに連れてってくれるんじゃないかな、なーんて思ってました。

この歌を初めて聴いた年頃に、このことに気づいていたら、良くも悪くもまた違った人生を送っていたでしょうね。


「別にグレてる訳じゃないんだ ただこのままじゃいけないってことに気付いただけさ

そしてナイフを持って立ってた」


主人公は、外発的な動機で遠くを眺めているだけではダメだと気づいたようです。そんな若くして気づいたなんてうらやましい。

そして、内発的動機づけによって自律的に行動を始めたわけです。

しかし、社会との摩擦は必ず起こります。

時にそれは、社会からは「グレてる」ように見えるでしょう。


「僕やっぱりゆうきが足りない「ILOVE YOU」が言えない

言葉はいつでもクソッタレだけど僕だってちゃんと考えてるんだ」


はたまた、時には自分との摩擦も抱えることになります。「愛してる」を言葉にできないもどかしさに日々葛藤したりもするでしょう。

それでも、考えることをやめません。


「どうにもならない事なんてどうにでもなっていい事

先生たちは僕を不安にするけど

それほど大切な言葉はなかった」


ここはさっきも引用したのでお分かりの通りだと思います。

小中学校ってどう考えても奴隷訓練施設なのは通ってた国民の皆様なら感じていたと思います。

民主主義と資本主義の名の下に、我が国は奴隷制を採用しています。

教師は、立派な奴隷になるための教育を、子供たちにせっせと施し、奴隷以外の何かになる方法は、無自覚に教えようとしません。

それこそ、どうにもならないことだし、どうにでもなっていいことでしょう。


「誰の事も恨んじゃいないよ ただ大人たちにほめられるような

バカにはなりたくない

そしてナイフを持って立ってた」


奴隷にならない選択の結果を、誰のせいにもしてないんですね。

ただ、望んで奴隷になって他者に判断を委ねることでシステムに迎合するような無自覚な人間にはなりたくないと思っているようです。

つまり、自律的である状態だとわかります。

この下りが、まさしく自己決定について歌っていることを明確にしてくれています。


「少年の声は風に消されてもラララ

間違ちゃいない」


そんな自律的な自己決定や自己実現は、あくまで自分の中の話であって、社会的な評価には繋がらないかもしれません。

むしろ、誰からも見てもらえないかもしれない。

でも、それは誰かが決めた善悪や正否で価値を判断されるようなものではないでしょう。

だって、行動や判断を自分で決めて、自分でケツを持つと、誰のせいでもなく自分で望んで決めたのだから。


「そしてナイフを持って立ってた」


繰り返されるこのフレーズが何を暗示しているのか。これが一番難しいと思います。

ただ、パッと連想できるような、不良性や反社会性の象徴ではないだろうと思います。これは、おそらく引っかけです。ミスリードです。

じゃあ何なのかと考えてみると、たぶんナイフって人類が手にした最古の道具のひとつなんじゃないですかね。

ナイフは、無いよりは有るほうが圧倒的に便利だけど、使い方次第では誰かを傷つけるし、殺すこともできる。

ナイフをどう使うかが自由だとしても、その責任って、ナイフを扱う本人以外には取れないんですよね。

だから、ナイフとは自由と責任の象徴なのではないかなーと思います。

少なくともぼくは、そう考えるとこの歌の全部に合点がいきます。


「そして!

いろんな事が思い通りになったらいいのになあ」


まさしく、ナイフを手にしたことによる責任と、それによってもたらされる使い方の自由のことではないでしょうか。

ナイフの便利さの行使権と、それに伴う責任を負うことで、きっと主人公のwillとcanとmustの円はぐっと拡がって、重なりも大きくなるでしょう。

合点がいきましたね?いきましたよぼくは。


…という感じで、ぼくが歌詞にグッときてやまない他のパンクソングについても同じような目線で見てみると、色々と合点がいきました。悔しいほどに納得しました。


◾️亜無亜危異「パンクロックの奴隷」



これすごいですよね。

奴隷になりたくない人々が飛び込んだ先がパンクロックだったはずなのに、その「パンクロック」自体がルール化し、権威化し、時代性を纏い、「パンクとはこうあるべし」という外発的動機を煽る圧力に成り果てているという、痛烈すぎる皮肉。

ぼくが「由緒正しきパンクファッション」に身を包み、ピストルズやクラッシュ、ディスチャージやGBHを「勉強」して、「ファッションパンク」になったのは、まさしく無政府主義の雰囲気だけを纏ったパンクロックの奴隷であることとピッタリ一致します。

初めて聴いたとき、なんて耳の痛い話をするんだと思い、仰天しました。


奴隷をやめることって大変なんですよね。

それでも自律的でありたいか、自由と引き換えに結果の責任を持つ覚悟があるか、という問いになっているとぼくは受け取りました。


それは日本にパンクロックをもたらした張本人による問いかけだからこそ響くのだと思います。

そう問いかけることこそが、パンクロックをもたらしたことに対する彼らの責任の取り方だと思うから。


あとは「今じゃドブネズミも億万長者」が、ブルーハーツの「リンダリンダ」のヒットとクラシック化、そして元メンバーのその後を想起させるところも痛烈。


◾️GAUZE「歯を食いしばれ」


↑個人が勝手にこういうところに上げるのは本当に良くないのでちゃんと買え!!!!


解説など全く不要なほどに、直球どストレートです。


ぼくは、これまた17才のときに、本厚木のディスクユニオンで、これが収録された「prank ep」と呼ばれるアナログ盤を買ったのが最初でした。

凄まじい演奏と音の気迫にただ圧倒されるばかりで、歌詞にまで思索が及びませんでした。

むしろ、「我慢して頑張って働けってことかあ…」と単純に受け止めて、バイトしていたラーメン屋へ向かい、歯を食いしばりながら掃除をしたり、味玉の殻を剥いたり、割り箸を補充したり、食洗機と格闘したりしました。


今は、「すべての責任を放り出して奴隷でいたくなる」衝動に見舞われたとき、ガーゼを聴いて気合いを入れて、歯を食いしばって我慢します。

彼らの活動そのものが、DIYであり自由であり責任であり、パンクの模範だったからこそ説得力が桁違いでした。

いつも叱咤され、勇気づけられています。


◾️「RISE」



もうぼくはこの曲が好きすぎて何回紹介するんだってハナシなんですけど、好きなんだから仕方がない。

これは歌詞が英語なので、AIの助けを借りて訳したり略したりしました。


「熱い電線」のところ、原文は「hot wire」になってるので、AIの訳より、ぼく的には「電熱線」のほうがしっくりくる気がします。


つまりそれほどまでに強烈な統制によって、模範的な市民でいることを強いられた、的な?

さらに、歌っている彼(元セックス・ピストルズのボーカル)自身がパンクの権化であったことも皮肉的に重ねてるのかなーみたいなニュアンスを感じます。

英語あまりわからないので全然違ったらすみません。


徹頭徹尾、彼は「自分であれ」と言ってます。

それは「自分らしく」とか「自分探し」とも違うんじゃないかとぼくは思います。

「何にも統制されない自分であれ。自分で考え、判断し、行動しろ。お前がそうしなくても俺はそうしてきた。見てただろ? そんなお前にも、道が拓けるといいな。俺はそれを心から祈ってるよ。怒りすら、そのためのエネルギーになるのさ。」

みたいに言われてる気がします。


めちゃくちゃかっこいいよね。

セックス・ピストルズだぜ?誰もが認めるパンクの代名詞。

だけど彼はセックス・ピストルズを辞めて、パブリックイメージリミテッドを立ち上げて、文字通り誰も聴いたことがないような音楽を、自分が本当にやりたい音楽を追求してきた。お金にならなくても。

96年に再結成したとき、ハイロウズが前座だったこともこの記事的にはアツいですね。

そのときにも「再結成の理由?カネのためだ」と言い放った。皮肉たっぷりに。これは彼が言うから皮肉として成立するわけです。誰よりも自律的に自己実現をしてきた人だから。


彼が演奏する音楽が、譜面上は「パンクロック」でなかったとしても、シドヴィシャスのような破壊的な人生を送らずに奥さんの看病をきちんとやってたとしても、否、だからこそ彼の知性と人となりがぼくは好きですね。長生きしてほしいです。


以上です。

前後編に亘ってお付き合いいただき、ありがとうございました。


ちなみぼくは、ぼく自身を全く自律的とは言えないし、そうあるべきとも思わないし、それがエラいとも思いません。

ただ、「かっこいいな、たまには、大事な局面で、そうなれたらいいな」みたいなテンションです。


ぼくにもあなたにも、どうかよりよい道がひらけますように。




こんにちは、ルシファーです。


人は11才、14才、17才でハマッたものを一生好きでいるとかいないとか、そんなことを聞いたことがありますね。ぼくはある気がします。


思えば意識的に音楽を聴くようになったのが11才くらい、ぼくが好きなのが「ヘヴィメタル」というんだと自覚したのが14才頃、そして「違う、ぼくはパンクスなんだ」と思ったのが16〜17才くらいでした。

「パンク」という音楽ジャンルは知っていたし、MISFITSの「EVILIVE」にガツンとやられたのは14才のときだし、セックスピストルズの「勝手にしやがれ」を買って聴いてたのは15才頃だったけど、「パンクとは音楽ではなくカルチャーなんだ」ということは16才のときに出会った友達からの影響でやっとわかったことでした。


17才になる年のはじめに、その友達と2人で、お年玉を握りしめて行った、原宿の竹下通りの靴屋さんで、当時は今の半値近い価格で買えたジョージコックスのラバーソールを手に入れました。

振り返ればあれが、ぼくにとって、自分がパンクスになった出来事だったのだと思います。


当時は、所謂裏原ブームの末期頃だったので、ストリートファッションにはパンクの影響が色濃くありました。

丁度、ヒップホップとパンク/ハードコアが、スケートカルチャーとミクスチャーロック(今で言うニューメタル)によって繋がれていて、それがストリートカルチャーを形作っていたように思います。

そのせいもあってか、テレビで見るタレントやお笑い芸人の服装もパンクアイテムが結構あったり、非パンクのミュージシャンがラバーソール履いてたり、あとは「NANA」の影響とネオヴィジュアル系の台頭で、雑誌「KERA」で紹介されるようなファッションが、特に原宿に集まる若者達の中でそこそこの割合を占めていた印象でした。


ぼくは頑なにそれらと自分は違う!!!!と息巻いていました。

雑誌はWARPとDOLLしか信じなかったし、服は古着と666とJIMSINNとSEXY DYNAMITE LONDONを着ていました。

つまり、「由緒正しきパンクファッション」に身を包んでいました。だから、そこから外れるものはNGでした。

親切にも、666が無料で発行していたカタログに、パンクファッションの懇切丁寧な解説が載っていたので、ぼくはそれを「勉強」しました。

幸いにも、例の友達や、彼の兄や、JIMSINNの店員さん、本厚木PARCOのレゲエのお店のお兄さんなど、ぼくにパンクファッションやカルチャーを教えてくれる良き「先生」方も居たのです。

すっかりぼくは、地元ではさながらパンク警察でした。「ネモトの前でパンクの話はしてはいけない」「ネモトがいるときにピストルズやクラッシュのTシャツを着てはいけない」といった空気すらありました。


当時は、ぼくのような奴のことを揶揄する「ファッションパンク」という言葉がありました。

ぼくはその、ファッションパンクだと思われたくなくて必死でした。

だからジムズインの店員さんに「若いのに色んなこと良く知ってるね!いかっつい良いパンクスになってよ!」と言われたのが嬉しくて、その言葉を胸に、独り古いパンクを聴いていました。


しかし、いつの間にかぼくは自分がファッションパンクであることに気がつきました。

そもそも進学校から現役で一応非Fランの大学に進んだぼくがパンクであるはずがありませんでした。

都内のライブハウスに出入りするようになると「本物」たちがいたし、怖くて近づけなかったし、彼らの輪に入るのもイヤでした。

だいたいパンクスなら群れてんじゃねえ!とまで思ってましたが、彼らは話すと気さくでイイ人ばかりで、ぼくは音楽としてのパンクとパンクファッションが好きなだけで、「パンクス」にはなり得なかったんだなあ、と思いつつ、気づいたら世間からは大人として扱われる年齢になっていました。


時は流れ、THE NOSTRADAMNZを結成し、シェハーンが加入しました。

ぼくとかみむらくんは、お互いのルーツの共通項として「パンク」があって、パンクがだいたいどんなものなかのかのイメージについて、言葉にせずとも双方向に重なる観念的なものがありました。ワナビーとしてパンクを選択したぼくとは逆に、かみむらくんはナチュラルに、結果的にパンクな人ですが、それでも「あの感じ」みたいな共通のイメージは確かにありました。

ちなみに同じパンク括りでも、ぼくにはどちらかというとイギリス寄りのイメージがあり、かみむらくんにはアメリカ寄りのイメージがあります。

で、シェハーンから「パンクって結局は何なの?」と問われたとき、機材車の中でちょっとした議論になったことがありました。

「あれはパンク」「あれはパンクじゃない」みたいなことを、ぼくとかみむらくんがどんどん例を出して、シェハーンが「てことはこういうこと?」と解釈してみせる、みたいなやりとりがしばらく続きました。


あーだこーだ言って、結局シェハーンにパンク何たるかが伝わりはしなかったものの、ぼくの中では「期待の裏切りや、既存のイメージや概念の破壊といった行為を、ポジティブな反応や評価に着地させること」がパンクなんだろう、という結論に至りました。

一理あるものの、どこか自分で納得できていませんでした。

納得できないから自分はファッションパンクなんだろうな、ということで片付けてしまいました。そのときは。


しかし、ここに来て「あっ、ぼくがカッコいいと思うパンクってこういうことだ!」という確信を得るに至りました。

そう、パンクを知って早600年あまり。ここに来て、ぼくはファッションパンクを卒業したっぽいのです。


それは、今年ぼくがどハマりしているエドワード・L・デシの「自己決定理論」によって導き出された答えでした。

自己決定理論のフィルターを通してパンクを見たときに、なぜぼくがパンクに惹かれたのかがとうとうわかったのです。


ここまでが前置きですが、めちゃくちゃ長くなったので後編は別で投稿します。


結論からいうと、「内発的動機づけ」ならびに「自由と責任」こそがパンクなんだ、ということなんですが、次回の後編では、ぼくの好きなパンクバンドの歌詞を引用して、それが何なのかを書き留めておきたいと思います。


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