パラリンピックアスリートの方々 | 洋一のブログ

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2021年7月23日
「TOKYO OLYMPIC 2020」開会式が行われ、1年間延期になりました東京オリンピックが幕を開けました。

開会式でオリンピックスタジアムになった国立競技場に聖火ランナーが入ってきて、見ていた日本の多くの人々が感動したのは長嶋茂雄さん、王貞治さん、松井秀喜さんの3人による聖火ランナーだったと思います。

僕も3人の聖火ランナーを見て凄く感動しました。
しかし僕はこの最終聖火ランナーで長嶋茂雄さん、王貞治さん、松井秀喜さんと同じくらいに感動したのは男女2人の医療従事者から聖火のバトンを渡された車いすの女性でした、僕は思わずテレビ画面に。

「土田和歌子さんだ!」と叫びました。





土田和歌子さんはパラリンピックアスリートとして日本人初の夏冬両方のパラリンピックで金メダルを獲得した日本のパラリンピックアスリート史上最高選手の1人です。

多くのメディアにも出演されているので知名度も日本のパラリンピックアスリートの中でも最も有名な方ではないでしょうか。

僕が初めて土田和歌子さんを知ったのはもう20年以上も前の事です、冬季競技のアスリートから夏季の陸上選手に転向されてまだ20代前半の選手でした。

その後土田選手は驚異的なアスリート能力を発揮し、夏冬の両方のパラリンピックに8度も出場し金メダルを始め数多くのメダルを獲得し「超人」「鉄人」と呼ばれ日本のパラリンピック史に金字塔を打ち立てていきました。

僕が開会式の土田選手を見ていて驚いたのは、土田選手がまだ現役選手として活躍されていること。
しかも8月24日から開催される東京パラリンピックにパラトライアスロンと車いすマラソンで日本代表として出場される事を知って驚嘆してしまいました。

20年以上も前に知っていた選手が現役でしかも日本代表として出場するなんて。
しかも東京オリンピックの最終聖火ランナーの一人にまで選ばれて。
土田和歌子さんという選手の偉大さ凄さを思いました。

その土田和歌子選手が今年の2021年1月語ったインタビューを読みました。

そのインタビューの中に土田選手が尊敬してやまない1人のアスリートの事が語られてました。

「偉大な大先輩の後をずっと追っていました」

そう土田選手は語られてました

その選手の名は

畑中和選手



    
本当に久しぶりに20年以上も前に購入したスポーツの写真集を読みました。

パラリンピックアスリートの方々を撮影した「プライド・オブ・スポーツ」です。

僕が初めてパラリンピックをテレビで観戦したのは25年前のアトランタパラリンピック大会。

パラリンピックの第一回は1960年のローマ大会。
当初は障がい者のリハビリを目的として始められたそうです。

しかし僕が初めて見た1996年アトランタ大会ではパラリンピックはリハビリスポーツてはまったく無く、選手たちは科学トレーニングを取り入れたオリンピックとまったく同じトップアスリートが凌ぎを削る世界最高峰のスポーツの祭典になっていました。

この写真集のアスリートの方々の写真を見ていただいてもそれが十分に伝わってくると思います。







この写真集は主に1996年に開催されたアトランタパラリンピックの各国代表選手の写真を掲載した本で。

この写真集に載っている1人の女性アスリートの方と僕は当時手紙のやりとりや国内の大会を見に行ったりして応援して交流させていただいてました。
パラリンピック車いす陸上競技日本代表の畑中和さんです。

畑中和さんは障がい者スポーツでの女子陸上車椅子競技で日本人で初めて世界レベルで戦えるアスリートでした。
パラリンピック史上最高のアスリートの1人です。




畑中さんの事を知ったのは1995年、大分国際車いすマラソンで女子車いすマラソンの世界記録を樹立して優勝した記事を読売新聞に載っていたのを見たからでした。

新聞の社会面に大きく「長田区から誕生、車いすの女王」と畑中さんの写真入りで大きく載ってました。

1995年は阪神・淡路大震災が1月にあった年で、しかも畑中さんが住んでいる神戸市長田区は震災で壊滅的な最も甚大な被害が出た地区。

1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災
神戸市東灘区で倒壊した阪神高速道路。





畑中さんが住んでいた阪神・淡路大震災の時の神戸市長田区の写真。




長田区に一人暮らしされてた畑中さんは震災の時に部屋がめちゃくちゃになって下敷きになって身動き出来ずにいたところにご家族が助けに駆けつけて来て助かったと話されてました。

畑中さんが大分国際車いすマラソンで優勝して翌年のアトランタパラリンピックの車いすマラソン日本代表に選出された時に僕は地元の書店で1冊のスポーツ誌を見つけました。

「アクティブジャパン」と言うスポーツ誌でその本は数ヶ月に1度刊行される障がい者スポーツの専門誌でした。

何気なく手にとって見て見ましたら。
あの読売新聞に載っていた大分国際車いすマラソンで優勝した畑中和さんが載っていたので驚きました。
このアクティブジャパンを読んで畑中さんは障がい者スポーツのトップアスリートなのだの知りました。

アクティブジャパンの創刊号の表紙を飾ったのは畑中和さんでした、この事を見ても当時畑中さんがスター選手だった事が解ります。




僕はアクティブジャパン編集部宛に畑中さんへお手紙を書いて。
震災の時に僕は芦屋市と神戸市東灘区にボランティアへ行った事を書いて、大分国際車いすマラソンであの被害が甚大だった神戸市長田区にお住まいの方が世界新記録で優勝された事に心から感動しました、これからも畑中さんを応援させていただきたいと思います、とその様な内容のお手紙を出しました。

畑中さんは震災で道路が陥没したりひび割れていたり、練習環境も大変な状況の中で練習を続けられ大分で優勝しアトランタパラリンピック日本代表に選出されました。

震災で傷ついた地元の為にとの思いで懸命に努力し掴んだ日本代表への切符。
そして翌年1996年アトランタパラリンピックが開催された時はパラリンピックの開会式がNHKで生放送で放送されていたので、夜中でしたが熱心に見ました。

この開会式を見ていて選手の入場行進を見ていたのですが。

1人のある国の義足の男性選手がおもむろに逆立ちをして手で歩きながら入場行進しました。
その選手はさらに逆立ちの姿勢から体を水平にして足を地に着けず、腕だけで腕立て伏せを始めました。
そして足を地に着けないまま再び垂直に逆立ち姿勢になり手で行進していきます
そして再び体を水平にして腕立て伏せをし、再び垂直に逆立ちで最後まで何度も繰り返し行進しました。
それを行進中ずっとその選手は続けていて。
まったく一度も足を地に着けず、腕の力だけでこんな事をする選手を見て開会式の会場は地鳴りのような大歓声をこの選手に贈りました。

実況アナウンサーも
「これがパラリンピック代表選手です!!」

そう叫ぶように言いました。

もう一人の実況の方も
「す、凄い!!こんな事オリンピック選手だって出来ないですよ!」

そう驚嘆されたように言われました。

日本代表選手入場で畑中さんがテレビに映ったのを見た時は本当に感動しました。

アトランタパラリンピックでの畑中さんは女子車いすマラソンに出場しました。
アクティブジャパンにこのアトランタ大会の車いすマラソンの詳しいレポートが載っていたのですが。
畑中さんはこの車いすマラソンの為に緻密に作戦練られていたみたいです。

ライバルは畑中さんの持つ世界記録を参考記録ですが10分近くも上回る記録を出した米国のジーン・ドリスコール選手。

畑中さんはジーン選手の事を1番のライバルと思い、ジーン選手も「1番怖い選手はカズ」と言っていたそうです。

畑中さんはアトランタのコースを入念に調べて作戦を立てました。

アトランタのコースは非常にアップダウンが多く、海外の選手は体重の重い選手が多く、体重の軽い畑中さんは下り坂では全力で車椅子を走られても体重の重い選手に抜かされてしまうそうです。
逆に上り坂は体重の重い選手は非常にキツく、ジグザグに上り坂を登っていくほどだそうです。

畑中さんは上り坂を勝機と捉えて上り坂で次々と抜いていってトップ集団に着いていったそうです。
そして車いすマラソンは予想通り終盤は畑中さんとジーン選手の一騎討ちになりました。

トップのジーン選手の真後ろに畑中さんはピタリと着いて風の抵抗を避けてジーン選手にプレッシャーを与え続けられたそうです。

ジーン選手の動揺が手に取るように解ったと。
ゴール前のスタジアムに入る直前に畑中選手はジーン選手を抜き去りトップに立ちました。

そのままスタジアムに入り畑中選手はトップでゴール、と思いましたら何か様子がおかしい。

畑中選手はすぐにあとトラックを一周してゴールする事が解りジーン選手と畑中選手とのトラックでの激しいトップ争いが繰り広げられました。
最後はトップに立っていた畑中選手をゴール直前でジーン選手が抜いてわずか数センチ差でジーン選手が金メダル、畑中選手が銀メダルになりました。

1位とほんの数センチというギリギリの僅差で2位の銀メダルになった事を知った時は悔しいのだろうか、それとも嬉しかったのだろうかと考えてしまいました。

アトランタパラリンピックが終わってしばらくして1枚の絵はがきが僕のところに届きました。
それはアトランタオリンピックの開会式の絵はがきで、畑中和さんから届いた絵はがきでした。
きっと畑中さんがアトランタ現地で売っていたパラリンピック前のオリンピックの開会式が絵はがきになっていて、それを買って僕に手紙書いてくれたのだと思いました。

応援してくれた事へのお礼と銀メダルを獲得した事への喜びが書かれてありまして、それから畑中さんとの交流が何年も続きました。





畑中さんが出場した大会を実際に見に行った事もあります。

丹波篠山で開催された車いすマラソンの大会で、僕はこのめて障がい者スポーツを生で観戦したのですが。

ゴール付近で僕は見ていて、畑中さんが女子トップでゴールに迫っていて、もの凄いスピードでゴールし、そのまま競技用車いすをドリフトのように横滑りにギャギャギャ!っとスライディングさせて停止させたのを見た時はこんなに格好いいアスリートは見たことがないと心から感動しました。




畑中和さんをモデルにしたテレビドラマも制作された事がありました。
「車いすの金メダル」と言うドラマで、お昼の1時から30分の月曜日から金曜日まで毎日放送される、いわゆる昼ドラ枠で放送されて、たしか半年近く放送されていたと思います。

僕は毎日ビデオに撮って仕事終わった後にドラマ見るのが毎日の楽しみでした。
畑中和さんの実名そのままの役を演じられたのは藤谷美紀さん。

父親役が大和田獏さん、母親役を奈美悦子さんが演じられていて、阪神・淡路大震災で被災された場面では家具の下敷きになって身動き出来ず必死で助けを求めても誰も助けてくれない、障がいを持った方が被災されてしまった時の大変さが凄くリアルに描かれいたり。

家族に支えられてパラリンピック目指す姿を藤谷美紀さんが爽やかに演じられていて本当に素敵なドラマでした。

イルカさんか歌う主題歌「花一輪」もCD買って毎日聴いてましたね(^.^)

話しが外れてしまいますが、「車いすの金メダル」が放送されていた時とまったく同じ時期に同じTBSで野島伸司さん脚本の「聖者の行進」と言うドラマが放送されていて、週刊文春に数ページに渡って激しく批判されてまして。
その批判文章の中に「車いすの金メダル」の事が書かれてあって「同じテレビ局が作ったとは思えないくらいまともなドラマ」と書かれてあったのが印象に残っています。

畑中さんはドラマになったのを恥ずかしがりながらも、とても喜んでいて「ドラマ第二弾が作られるように頑張ります」とお便りしてくれました。 

僕がホテルで料理人をやっている事を伝えましたら、何か手軽に作れる料理教えてくれませんかと言われて、その当時、有森裕子さんなど小出義雄監督の元で栄養士をされていた方の本を買って読んだりして畑中さんの作れそうなメニュー考えたりしました。
僕が仕事で今でも仕事でアスリートの方々に料理を作りますが、畑中さんの為に考えたメニューはアスリートの方々への食事の原点だったように思います。




ある3人の障がい者のドキュメントをレポートした本が出版された事があったのですが。
その3人の中の1人が畑中和さんが取り上げられていて、畑中さんの生い立ちが詳しく書かれているのを読んだ事がありました。

畑中さんは子供の頃から運動神経が抜群に良く運動会などに参加しても常にトップだったそうです。
畑中さんが小学生の時に家族で父親の運転で実家の和歌山に帰る時。
運転を誤った車は事故を起こして両親も怪我をされたそうですが、畑中さんは車の窓を突き破って車外に放り出され全身を強打し脊髄を損傷してしまいました。

長時間にわたる手術で一命はとりとめましたが、歩く事の出来ない、一生車椅子の生活になる事を告げられたそうです。

過酷なリハビリ生活の中で畑中さんはついに父親に向かって怒りを爆発させてしまいました。

「こんな身体になったのもお父さんのせいや!お父さんなんか大嫌い!」

そう父親を責めてしまったそうです。
畑中さんのお父様はその言葉を聞き、苦しそうにうつむかれたそうです。

「父を責めたのはその時1度だけです、父は苦しそうでした、今でも言ってはいけない言葉だったと申し訳なく思っています」

そのように畑中さんは話されてました。

1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災の時。
畑中さんはOLとして働きながら独り暮らしをされていて被災し、家の中はめちゃめちゃで身動きできなかった畑中さんのところに真っ先に駆けつけて救出してくれたのは畑中さんのお父様でした。


畑中和さんはパラリンピックに、バルセロナ、アトランタ、シドニー、アテネと4大会で日本代表として出場し、車いすマラソンではパラリンピックではずっと2位の銀メダルだったのですが。
最後に挑戦したアテネパラリンピックでの車いすマラソンで世界新記録で念願の金メダルを獲得し引退されました。

パラリンピックに出場するアスリートの方々はみんなそれぞれ畑中さんのような経験をされてきた方々と思います。


パラリンピックで忘れられないのは1998年に開催された長野パラリンピックでした。

ちょうど畑中和選手を応援していたので、日本で初めて開催される冬季パラリンピックを毎日夢中になって見ていました。

久石譲さんによる開会式総合演出も本当に素晴らしかったですし、なにより日本選手が大活躍されました。

この長野パラリンピックで大日方邦子さんが金メダル第一号獲った時はメジャーなスポーツ紙日刊スポーツが第一面全面カラーで大々的に報じたのを見て衝撃受けました。

日本選手の大活躍に連日メディアでも大きく報道され、長野パラリンピック各競技場は次々にチケット完売が続出し、ワイドショーではなんとチケット売り切れてダフ屋まで出てきた事を報じてました。

これまで世界で開催されたパラリンピックでチケットが売り切れてダフ屋まで現れた事など無いと思います。

どの競技場も大観衆と大声援に包まれて、世界各国の代表選手の方々は

「こんな光景は見たことない」

と心から感動されてました。

パラリンピックはやはりどの国で開催されてもなかなか集客に結びつけるのは難しいみたいですが、長野パラリンピックはパラリンピックの歴史の転機になるくらい大成功をおさめた大会になりました。



東京パラリンピックが8月24日から開幕しますが、オリンピック同様テレビ中継などしてもらいたいです。

パラリンピック競技の中でも観戦スポーツとして一際魅力的なのは何と言っても「車いすバスケットボール」と「車いすラグビー」ではないでしょうか。

あの日本の漫画史に残る名作中の名作「スラムダンク」を描いた井上雄彦さん。

車いすバスケを題材にしたこれも本当に素晴らしい名作「リアル」を描いています。

この「リアル」もあらゆる意味でとんでもない作品と思います。

「リアル」が連載開始したのが1999年で22年前、僕が畑中さんを応援していた頃に連載開始し今も続いています。

続いているどころか物語の内容は1年くらいしか進んでいないです、連載は22年経っているのに。

しかしこの作品のパスケの試合の描写はさすがに「スラムダンク」の作者だけあって本当に最高に素晴らしいです。

井上雄彦さんをも魅了したのは車いすバスケットボールという競技が作品として描きたくなるほど魅力的に他ならないからと思います。







日本で最も有名なスポーツ誌「Number」を買いました。
東京オリンピックの大特集で凄く読み応えのある記事です。

やはり卓球世界最強の中国を破って金メダルを獲得された伊藤美誠選手と水谷隼選手の記事が一際輝いてました。









そしてNumberは第二特集で東京パラリンピックを大きく取り上げられてました。

第二特集の表紙は車いすテニス女子日本代表の上地結衣選手。
上地選手はこれまでグランドスラムでシングル、ダブルスで25勝をあげています。
しかしパラリンピックはロンドン、リオと挑戦されましたがメダルには届きませんでした。

東京パラリンピックで悲願のメダル獲得へ燃えています。








「車いすラグビー」はパラリンピック競技の中で唯一車いすを相手にぶつけるいタックルが認められている競技です。

その事と競技中の当たりの強さ激しさから車いすラグビーは「車いすの格闘技」さらに「車いすのマーダーボール(殺人競技)」とまで呼ばれています。






車いすラグビーの日本代表は凄く強く4年に1度開催される世界選手権で2018年大会で日本は見事優勝し世界一になりました、東京パラリンピックでも金メダル有力候補です。





この世界選手権で金メダル獲得した車いすラグビー日本代表メンバーの中になんと1人女性の代表メンバーがいます。

その方は倉橋香衣さん。

Numberのパラリンピック特集で倉橋香衣選手の特集記事を読みました。

車いすラグビーは各国それぞれの代表選手に女性選手を選出しても良いルールがありました。
しかしあまりに激しいスポーツなので実際に女性が代表選手に選手された事はありませんでした。

しかし車いすラグビー日本代表メンバーに初めて女性選手の倉橋香衣選手が選出され活躍し、しかも優勝し金メダルを獲得し快挙を達成しました。
日本の倉橋選手に続けと今はイギリス、デンマーク、オーストラリアなど世界各国の車いすラグビー代表選手に女性選手が続々と選出されるようになりました。

倉橋香衣選手はポジショニングが非常に上手い選手と車いすラグビー日本代表のケビン・オアーヘッドコーチは語ります。

車いすラグビー日本代表の主将池透暢選手は倉橋香衣選手が日本代表に入ったことで戦術の幅が格段と拡がったと語られてました。

パラリンピックで最も激しい競技の車いすラグビー。

車いすラグビーの日本代表と倉橋香衣選手にぜひ注目してもらいたいです。











僕が車いすラグビーで日本代表と同じくらい注目しているのはニュージーランド代表です。

ラグビーでは世界最強と言われるニュージーランド代表の「オールブラックス」
オールブラックスは試合前にニュージーランド先住民族マオリ族の闘いの儀式「ハカ」を披露する事で対戦相手を震えあがらせるほどの凄い迫力ですが。






車いすラグビーニュージーランド代表の「ホイールブラックス」もハカを試合前に必ず披露します。

こちら世界選手権で日本相手にハカを披露したホイールブラックス、日本はそのハカに対し手を繋ぎ鶴翼のように相対しました。




車いすラグビーニュージーランド代表のキャメロン・レスリー選手のハカ。
レスリー選手はなんと水泳でもパラリンピック代表たそうで三連覇中のスーパーアスリートだそうです。





2019年日本で開催されたラグビーワールドカップでは世界最強オールブラックスによるハカが大反響を起こしましたが、東京パラリンピックでもホイールブラックスによるハカを見る事が出来ます。

車いすラグビーでもニュージーランド、世界に名を轟かせてもらいたいです。


僕が20年以上も前にパラリンピック日本代表の畑中和選手を応援していた時に、畑中さんはプロになりたい、とこかスポンサーになってくれる企業はないものだろうかとよくインタビューでも話されてました。 

それは畑中さんが出場してきた車いす競技の海外の選手でパラリンピック代表に選ばれるほどの選手はみんなスポンサーが付いていた事を話されてました。

海外選手は世界各国で開催される国際大会の遠征費用などもすべてスポンサーが出されていて畑中さん羨ましいがられてました。

畑中さんは企業のOLとして働きながら自費で日本各地の大会や海外の大会に出場されてました。
この状況は今もそれほど変わってはいないようです。

パラリンピック女子走り幅跳び日本代表の中西麻耶選手は合宿で渡米した時に資金が完全に底をついて野宿した事もインタビューで語られてました。

資金捻出される為にカメラマンの越智静雄さんに協力してもらいセミヌードのカレンダーを販売された時は、こう言ったカレンダーはオリンピック選手の間では度々ありますが、パラリンピック選手がセミヌードカレンダーを作った事に世界に衝撃を与えました。





中西選手は批判されるのは覚悟していたそうなのですが、批判はまったくと言っていいほどなく凄く美しいと世界から称賛されました。

中西摩耶選手は4度目のパラリンピックになる東京パラリンピック女子走り幅跳びに出場します

中西麻耶選手は5月のインタビューでこのコロナ禍で開催されるオリンピック・パラリンピックについて。

「アスリートにとって五輪・パラは夢、しかし人の命を犠牲にしてまで活躍したいと思う選手はいない」

そう複雑な胸中を語られました。






オリンピック種目の人気スポーツの中には、オリンピック以外にも大きな大会がある場合があります。

テニスなら四大大会

サッカーならワールドカップ

ゴルフのマスターズなど。

ベースボールのワールドシリーズ

しかし、パラリンピックのアスリートの方々にとってはパラリンピックが最高の舞台でパラリンピック他に大きな舞台が無い場合が多いです。

8月24日東京パラリンピック2020が開催されます。

パラリンピックの歴史上同じ都市で二度目の開催は初となります。

パラリンピックはオリンピック同様、スポーツの頂点を競う世界最高峰のスポーツの祭典です。

オリンピックが終わってもTokyo2020はまだ終わってません。

世界中から東京に集うパラリンピックアスリートの方々の大活躍にきっと全国の人々は驚嘆し感動する事と思います。