母も子も救う | 漢方1日1歩のブログ

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1日生きるとは1歩進む人生でありたい(by湯川秀樹)の言葉のように、傷寒論や類聚方広義、勿誤薬室方函を参考に1日1歩づつ漢方医として成長していきたいと思っています。(実際に患者に処方するにあたっては添付文書を参照され、自らの診断と責任でご処方ください。)

本日先哲命日


 水原三折は1864年4月30日に死去している。内科を宇津木昆台に、産科を奥劣斎に、蘭学を海上随鷗に学んだ。彼は賀川玄悦が胎児を犠牲にして母体を助ける回生術を改良し、母と胎児両方を救う探頷器を発明した。賀川玄悦の鉗子が鉄製鉗子であったため母体の損傷も激しく胎児を生かして娩出させることはが困難であった。江戸時代のある産科医が賀川流回生術で生児を得たのはわずかに1例と記載している。これに対し水原三折はシロナガスクジラのヒゲの特性である温めると軟化し、冷やすと固くなる性質を利用して見事に母子ともに救う技術を開発した。しかも回生術が秘技とされ弟子入り後ある年数を経ないと伝授されなかったのに対し、三折は『産科探頷図訣』を著し、その技術を余すことなく公開した。当時漢方は閉鎖的で弟子にしかその医術を伝えず医術公開は破門とされる流派もあった。一方蘭学は比較的自由であった。明治期以後蘭学が栄え、漢方が衰退したのは勿論政治的要因も大きいが、この閉鎖的な徒弟制度が文明開化の新しい時代にそぐわなかったのではないかと思える。その点三折は蘭学の素養がありこれが多くの者に向けて秘技を公開することに抵抗がなかったことが幸いした気がしてならない。


参考文献 


近世の医療史 今井秀 (MP)


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