北山友松子は1701年4月22日に死去している。彼は明からの亡命薬種商馬栄宇と長崎丸山の遊女樋口氏との混血児であり、長崎で独立性易に、小倉で原長庵に学び大阪道修町で開業した。彼は医術もさることながら生薬の鑑定に優れその技術を学ぶために彼の周囲にしだいに生薬問屋が軒を連ねるようになった。現在でも武田薬品工業株式会社、小野薬品など日本のトップ製薬企業の本社が道修町にあるのはその名残である。特に田辺三菱製薬は北山友松子が開業していた当にその時に起業しており今の田辺三菱製薬は漢方医が作ったと言っても過言ではない。北山友松子は逸話も多いが、弟子がある日先生の学統についてお話し下さいと言われたところ
丸山遊女の子
とのみ書いたという。彼の豪傑な一面を今に伝えるエピソードである。
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