この前の週末、二宮にある吾妻山に登った。

菜の花と海の青ともやの白と、コントラストが美しくてしばしボーッと景色に癒された。

山と言っても急階段と斜面を大人なら20分くらいで登れてしまうのだけど、びっくりしたのは娘が駐車場から頂上までの往復1時間以上を完歩したこと。

転んだとき以外抱っこ!と言うこともなく、手をつなぐのも嫌がり嬉々として歩く娘。

帰りに斜面に作ってある芝生の広場を走って下り、予想通りすっころんで勢い余って宙返りまでしてズッシャーンと・・・苦笑。

余りの転びっぷりに慰めるとか以前に笑いが止まらずお腹がよじれるほど笑った私達、酷い親・・笑。

娘はとにかく、私は一人前よ!と主張する。

6ヶ月で話しだし、9ヶ月で一人歩きし、1歳からよく言う言葉は「ママ、だいじょうぶよ!」だし、笑。

見た目はまだ赤ちゃんなんだけど、立派な一人の人間として私の前にいて、私も生まれたときから、彼女を1人前に扱ってきた。

優大がいてくれて、次男が生まれて、私の中では「子どもは何もできないから大人より劣っていて、躾けて教育をして価値のある存在になる」っていう感覚が全くなくなったことが私の今の子育てをつくっている。

子どもは大人よりずっと輝いていて全てを知っていてとっても尊い存在なんだって思う。

子どもは親の持ち物じゃない、コントロールされる存在じゃない。親の思惑の中で生きられる子がいい子だなんて、絶対に違う。

私が子どもの頃からずっとずっと思ってきたこと・・。

そんな私でも都合に合わせて我が子をコントロールしようとするけれど、それが正義で正解ではなくてただの自分のエゴだって気付いていれば、結果は全然違うものになる。

目的がコントロールすることじゃなくて、意思疎通することになっていくから。

完璧な親なんていない、いつもいつでも親は子どものことが心配で愛おしいことに変わりはない。

不器用でも、いつもじゃなくても、愛しているよって伝え合いながら生きられればいいんだなって思う。

キラキラしている子ども達を見ていると、みんないつかの子どもだった大人達が、忘れてしまった輝き思いだすために小さい命を授かるのかもなって感じる今日この頃。

みんなみんな子どもだったんだよね。






映画ドラえもんの主題歌がずーっと頭に流れている私、笑。

「ねえ~気付いて~あなたは~特別な存在なんだよ♪」

みんなそれぞれに特別な存在、わたしである、ってだけで誰とも比べる必要のない存在。

この「特別」は私もあなたも特別な存在って意味で、わたしもあなたもちっぽけな存在、って言っても意味は同じで。

世界をどんな風に見たいかは人それぞれ。

みんな間違ってるって思うか、みんな合ってるって思うか。

例えばこの世界は能力や肩書きで優劣が決まるとしたら、それは序列が価値基準だと思いたい人が見ている世界。

あなたはどんな風に世界を見たい?

世界は怖いこと、悲しいことばかりが起こっているから、私もいつ被害者になるかもしれないって思って生きたい?

世界は美しいこと楽しいことがたくさんあるから、私も喜んでワクワクしながら生きたい?

世界は一人につき一つ、生きている人の数だけある。

世界を見ることができるのは、自分の目を通してだけだから。

自分の心と身体で感じることしかできないから。


私は小さい頃から、誰もが安心して眠れて、起きた時には希望が溢れているような、そんな世界になるように、って祈ってきた。

でも大人になって気付いた。

世界がそうなるように、って祈るよりも、世界はそうだって信じることで「私の世界」はきっと変わるんじゃないかって。

「360° どこでもいけるさ~!」

すごく胸に響く!

映画ドラえもん宇宙英雄紀 主題歌MIWAさん「360°」


冬と春が行ったり来たりするようなお天気の毎日ですね。
週末いかがお過ごしですか?

金曜日は少し久しぶりのシャンティハウスオープンの日でした。

朝から夕方まで、いつもの仲間や初めてお会いする方々が入れ替わり立ち替わり訪れてくれて、とても賑やかな一日となりました。

みなさんのお顔を見ていたらとても輝いて見え、私とシャンティハウスがどんどん暖かく豊かになっていく感覚がして、少しポカーンと眺めてしまった私です、笑。

なんだ、今すごく悩んだり、今のお天気のように日だまりのポカポカ暖かい所に突然寒風が吹きすさぶような心の揺れ動きも、大きく見渡してみれば確実に春に向かっているのだなぁと。


何かを決めると突然に義務になってストイックになってしまう、過去の私は本当にこれがひどかったのです。

これは紛れもなく、私は完璧にやれていると認めてもらいたい、どれくらい一生懸命やっているかわかってもらいたいという欲求の現れでした。

そうでないと、私は一人前の人間として扱ってもらえない。。そんな気持ちでした。

だからいつも苦しくて窮屈で、自由になりたいと思っていた。

自分で自分を縛り付けていたことに気付いていませんでした。

ただただ自分を見つめる時間の中で、私は少しずつ「わたし」というものを知り、本当のわたしを取り戻すことができた。

そしてそこから、「わたしを生きる」ことを始めました。

自分で自分を愛し、感謝し、大切にすること。

そしたらどんどん自由になっていきました。

それでも揺れる、苦しむ、立ち止まる、そんな時もある。

そんな時、「大丈夫」と自分に言うことができる今、心が揺れたあとに帰る場所ができました。

春の日だまりのように、暖かくてとっても穏やかな平安な場所。

そんな私の心の帰る場所のように、シャンティハウスがみなさんにとってホッとして本当の自分に帰れるような場所になるよう願いながら、準備をすすめていきます。


今日もすべてに感謝です。






「私は何者か?」

最近しばしばこの言葉を投げかけられることがある。

シャンティハウスでどういう仕事をしていくのか?私の肩書きは何か?主婦以外に役割はあるのか?

などと聞かれるわけだけど、ものすごくマイペースな性格なので・・正直、私はわたしです。と言いたくて仕方ない、笑。

仕事をしていく上で、何か社会的に活動していく上で、相手があって何かの役割を担っていく場合の責任というものがあるってことはよくわかる。

「責任をもって初めて信頼を得る。」ということなのだろうなぁと思う。

責任はとらないけど信じて下さい、私の言葉を聞いて下さい、なんて言える訳もないのだから。

肩書きが表現の広がりや信憑性を左右することは現実。

でも「私はわたしです。」っていう一番大切なところを素直に表現することを止めたら、それはやっぱり知らないうちに肩書きに動かされ依存していくことになるのだろうなって思ったりする。

例えば母親という肩書きを終えるとき、部長という肩書きを終えるとき、そこにまぎれもなくまっさらな「わたし」がいるはず。

その役割を果たす以外の時間も心から楽しむことができている?私はわたしであることを純粋に喜んでいる?

「わたし」はけっして肩書きの中にいるわけではないから。

宇宙に名乗るつもりで「この世界での私の役割は~です。心を込めて担っていきます。」と言うことならば、私は肩書きというものを持ちたいな、と思う。

そしてそれは実は「わたしという存在そのもの」以外の何者でもないなぁと思うわけなのだけど。。。















震災翌日からの避難先の長崎で長男が入院し、約1ヶ月後の4月19日天国へと旅立った。

(その時の話しはこちらです★

直接被災したわけではないけれど、あの日のこと、あの時に旅立った多くの命のこと、私にとっては全く人ごとではなく、人生の大きな大きな一部として今も胸にある。


大切な人を見送ったとき、どうしてあの人はいなくなり、わたしがここに残ったのか・・そう問いかけることがある。

すべての意味なんてきっと紐解けはしないかもしれない。

でもひとつだけ決してゆるがない真実・・意味がわからずとも、私たちが今生きているってこと。

そして先に旅立った命には伝えたいことがあるということも。

優大は伝えてくれた。

「ボクの命はママに託したよ!さあ輝いて生きて!ママの命を生きて!」

残された私達ができること、それは悲しみ続けることではなく、今を大切に自分の「命」を生きること。

だから無力感のかわりに愛を胸に生きたい。

今は見えなくとも確かにあった大切な命から託された愛を胸に。


私だけのものではない命。あなただけのものではない命。

すべてひとつになって私たちの命はつながりあっている。

一人一人が輝いて生きる時、見える命も見えない命も一体となり地球が輝いていく。

今、生きている私たちは、愛されてここにある。

愛はいつも伝えてくれる。

「あなたのいのちを生きて!」と。

余すところなく自分を表現し、笑い、泣き、自分色に鮮やかに命を輝かせて生きよう。

悲しみを喜びにかえて、生きる、始まりの時。