出直しスタートです。両親、天に感謝です。 | 東海道五十三次・最後の旅籠 次期八代目当主、台風の目と称された興津 清見潟の宿と町を目指して…

東海道五十三次・最後の旅籠 次期八代目当主、台風の目と称された興津 清見潟の宿と町を目指して…

東海道五十三次 興津宿 "最後の旅籠" 岡屋旅館 次期八代目当主 岡屋弥左衛門松太郎。

東海道 宿場町の本陣・脇本陣を筆頭にした三千軒の旅籠を背負って、
台風の目と称された
【世界遺産・三保ノ松原】 裏磯、かつて天下の清見潟…そんな宿と町の再興を目指して…。

ハク様、おにぎりもらい泣いてます。

それ千尋でした。




三国志の水鏡先生の言葉を借りると、

血なまぐさい戦場をさまようてきた落武者かなんかです。

(「だれじゃ、それへ参ったのは。……いま琴を弾じておるに、幽玄清澄の音いろ、にわかに乱れて、殺伐な韻律となった。かならず、窓外へきたものは、血なまぐさい戦場からさまようてきた落武者かなんぞであろう。……名を申せ。たれじゃ、何者じゃ……」)


コロナ禍が収束に向かう中、

なんとか死線を乗り越えてきたんだな…

私たちに家業という帰る場所を残してくださっている…。



(拾った写真ですが、神々しいので)


我、(選別に生き残り)2級になれた。しかし、このままでいるつもりはない。我は、ムートンだ。

byシャトームートンロートシェルトの名セリフ


みほのまつばら裏磯の清見潟と言えば、いにしえからの景勝地でしたが、国道1号静清バイパスと清水港の拡張の為に埋め立てられてしまった。

便利にはなったのだろうけれども、現在はいまひとつだと感じるようになった街を復活させるには、そのバイパスは台風の浸水被害もあるのだから防潮堤でもあり、興津で誕生した日米友好の桜の里帰りの桜を植える山として外交の海浜公園&バイパスの上に清見潟堤&清見寺の鎮守の森(そして、世界遺産 三保松原 裏磯の…、竹千代の竹林の小径、臥龍梅の梅園、秋葉山&千里眼の楓🍁の紅葉の街と秋葉みよし灯籠、出光ではなくとも神前挙式&清水の興津宗像神社⛩)を創れば良いだろうとクラウドファンディングをしましたが、敗戦…。

財力もそうだが、知名度やみんなを納得させる力が足りないんだと痛感した。




そして、コロナ禍の観光業の逆境の中、東海道の興津宿の最後の旅籠の跡取りとして東海道を歩いた。

東京から京都までの500kmの東海道五十三次は、宿場町を53つ繋いだ道で、今の旅館の原点のひとつである旅籠が3000軒、かつて、あった。

その道のメインは参勤交代の為。

参勤交代の大名家や勅使が宿泊する本陣、脇本陣が旅籠の筆頭だ。

我が家、岡屋は幕末創業。

かつては本陣でも脇本陣でもなかった。

東海道を歩き、かつての本陣や脇本陣の石碑を訪ね、感じた。

(まさに『時空を越える道との対話。東海道五十三次の旅。』のタイトル通り)




我が家は、最後の旅籠だった。

宿場町を繋げた東海道全体で…。


つまりは、本陣・脇本陣を筆頭にした東海道五十三次の三千の旅籠を背負っているんだ…。



かつて、東海道の名宿 一碧楼 水口屋と呼ばれていた宿の主人の残した記録(水口屋物語にも書いてある)が頭に浮かびました。


かつての宿帳を眺め友人や家族、お客様のおかげでいつのまにか家業が大切なものに感じた。』(水口屋物語より)




一流の老舗旅館、"王者の宿"あさばで客室係と布団ひき等サービスの修業を2年半しました。

友人がオーナーをする小規模のデザイナーズ旅館のフロントを2年半し経営を間近で勉強しました。

甘い…!

ぜんぜんだめ。

しっかりしろよ。


私は、実業家としては負けてばかりだ。


私が東海道を歩くとインフルエンサーが追従して東海道五十三次の旅ブーム&東海道の宿ブームが来る予定でしたが…。


まだ私はなんとか死線を越えさまようてきた落武者に過ぎなかった。


しかし、私は、あきらめない。


私は、名のある川の主だ。






幕府系の、日本旅館の原点…。

東海道五十三次の本陣・脇本陣を含めた三千の旅籠を背負って世界に魅せる存在になる為に頑張らないと…。


かつては本陣・脇本陣にはなれなかったが、今や最後の旅籠…。



『岡屋さん、いずれ、帰ってきますよ…。』

"東海道の名宿"一碧楼水口屋・最後の当主が曽祖父に残した言葉が心に響きました。

あの時のひ孫の私も30歳です。

八代目という数は中興の祖とされますが…、私にその力があるのだろうか…。

どの道、やらなければやられる背水の陣…。


そう思い、また一から出直し…。


今月から箱根の一流旅館として知られる強羅花壇で見習いから修業を始めました。


再来年の大河ドラマは徳川家康だそうですが…。

興津清見寺はゆかりですが…。

来年から天中殺だそうです。

事業を行うには向いていないが、この時の勉強が後に活きてくるそうです。

下積みの本気の修業ならちょうど良かったのですかね。


そう言えば…、

大河ドラマ【太平記】の足利尊氏の

『我、源氏の棟梁なり!敵は六波羅、北条軍なり!』

のセリフに重なるのでしょうか?

"今や源氏の棟梁"ですもんね。


とにかく、私は、しっかりしなくてはいけない。


(我、一級になった。かつて2級だった。けれどもムートンはムートンだ。

byボルドー5大シャトー・シャトームートンロートシェルトの目標とする名セリフ)


南無八幡大菩薩!!


いずれ宿と町を再興する為に…、

また出直します。


引き続き応援していただけましたら幸いです。


私はまた出直してきますが、引き続き私の両親が営む岡屋旅館をよろしくお願いいたします。


では、東京と京都を古今東西を繋ぐ"東海道の名宿"の復活、岡屋を東海道の一流老舗旅館にし、宿と町を再興する大物実業家になるべく頑張る次第です。

(写真は拾ったものです。)



東海名區 清見潟

東海道五十三次"最後の旅籠"

岡屋旅館

次期八代目当主岡屋弥左衛門 松太郎 若旦那 小田裕也



相模国一宮 寒川神社にて八方除守護