理由を知らずして理解は生まれない | ヨッティのブログ

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自分がしてほしいことに対して理解されないことがある。なんでこうしなきゃダメなの?別にこんなことする必要ないじゃん…なんて思われてしまうことがある。


神経質な奴だとか細かい奴だとか思っている人はいると自覚はしている。でも自分の主張には正当な理由があるし、わがままの一言で片付けられてしまうのは心外だね。


こうしてくれないと不都合が生じるからお願いをするのであって、要求に無意味なものなど一つもないんだよね。


介助者によく細かいと思われるのは洋服のシワ伸ばしだ。僕はそんなに気にならないほうだが、気になる人には気になるものだと思う。


でも、その人はただシワが気になるからという理由だけで直してほしいと要求しているわけではないのだと思う。


筋ジスの人は自分で身体を動かすことができないし、筋肉がないので重力をまともに受けてしまうため、身体の部位が洋服のシワに食い込んでしまい痛みが生じることがある。


身だしなみを整えるというのも理由としては正当性があると思う。それは普段の生活の中で皆が当たり前にやっていることであって、介助される側の人間はダメだ言われる理由にはならないよね。


一見無意味な要求に思えることにも正当な理由があるけど、それを一々伝えるのも結構な労力なのでわざわざ言ったりはしないけどね。


逆に介助する側が疑問に感じたのならば理由を尋ねてほしいなって思う。介助される側は伝えるのが仕事のような部位があるけど、介助する側にも違和感が生じた場合は疑問を投げかけてほしいなと思う。


介助する側される側の気持ちの相違や違和感が誤解を生み、お互いの信頼を失墜させる結果に繋がってしまうと思うんだよね。


介助される側の気持ちなんて介助する側にはわからない、だからといって意思や気持ちを伝える努力もしないで勝手に察しろとか言うのは、介助される側として絶対にやってはいけないことだと思う。想いが一方通行のままでは一番嫌な想いをするのは自分であって困るのも自分だからね。


どうせ理解されないだろうと諦めていてはいつまで経っても理解は生まれないし、それこそ差別や偏見をつくるきっかけになりかねないと思う。


理解してもらうには苦労するだろうけど、介助される側としては理由や意図をしっかり伝える、介助する側としては疑問に感じたなら理由や意図を聞く、そうすることで理解への道筋ができていくような気がする。


理解の言葉の意味は「理」物事の道筋・道理を「解」ほどくことであって、理由を知らずして理解は決して生まれないと僕はそう思います。