日蓮宗とキリスト教 | 日々是好日
日蓮宗の歴史と、キリスト教の歴史は、とても似ています。
(ここでは、日蓮を宗祖とする宗派を、便宜的に『日蓮宗』としています)

■教義の解釈に関する議論

教義についての議論がさかんなのが、日蓮宗の特色でもあります。
法華経全巻を一体として扱うか、後半の巻に極意があるとするか、ということで争いました。

似たようなことが、キリスト教でも起こっています。
無数にあった「福音書」について、ニケーア公会議で議論した結果現在の「四福音書」が決定し、正典とされ、ほかのものは異端とされました。

聖典のセグメントに関する議論が行われた、という点が似ています。

■絶対者と宗祖の関係

日蓮宗では、宗祖日蓮を「本仏」とするか、釈尊を「本仏」とするかで、議論が行われました。

原始キリスト教でも、イエスを「神」とするか、「預言者」とみなすかで、熱い議論が繰り返されています。
結局、イエスを「神」とする派閥が、いまのキリスト教となっていきます。

■分派の数

日蓮宗の派閥は、国内の他の宗教の中でも、とくに多いです。
歴史的にもそうですが、現代でも創価学会をはじめ、多数の日蓮宗系の新興宗教が生まれています。

キリスト教も、とくにプロテスタント(教会ではなく、聖書に依拠する派閥)は、もう数え切れないほどの派閥があります。

■戦争との親和性

日蓮宗ほど、「戦争」で注目を浴びた仏教は他にないでしょう。
そもそも仏教は殺人を決して認めないし、軍国主義の日本は国家神道でしたから仏教を排斥しようとしていたにも関わらず、日蓮の「闘う姿勢」にシンパシィを覚えたのか、軍の上層部には「日蓮神秘主義者」とでもいうべきカルトな日蓮崇拝者が多数いたようです。

キリスト教は、ローマ帝国からはじまって、「異端の排除」という名目で戦争を繰り返していきます。
世界で最も人を殺している宗教は、じつはイスラムではなく、キリスト教です。

キリスト教の原理主義に危機感を覚えて、日本は原理的な「国家神道」を定義したともいわれています。

■殉教者の多さ

日蓮の弟子は、ひどい拷問によって殉教しているひとが多いです。
日本の宗教で、ここまで激烈な殉教者を出した宗教は、たぶん類を見ないでしょう。

キリスト教の殉教は、いうまでもありませんね。


とにかく、よく似ているのです。

なぜだろう?
と考えると、やはり、聖書と法華経が、よく似ているからだと思わざるを得ません。

日本の宗教は、元々平和的なものが多くて、わるく言うと「ぬるい」ものが多いです。
島国だから、よけいにそうなるのかもしれません。

日蓮はもしかすると、このへんのことを「先取り」していたのではないかな、と思うことがあります。

このままでは、日本は他国に侵略される。

頑強な「精神的支柱」がなければ、いずれ日本は、闘わずに死んで、消えてしまうだろう。
国を愛するがゆえに、死にものぐるいで日本を「強化」しようとしたのかもしれません。


平和で、なごやかに生きていくことが重要なのは、当然です。
しかし、時には「闘わなくてはならないことがある」のもまた、悲しいかな事実です。

法華経のような人、というのはとても、魅力的です。
親心のような、やさしく深い愛情を持ちつつも、一方では死をも厭わぬほどの絶大なる勇気と闘争心をも持ち合わせている。

でもこんなひとは、見方を変えればキリスト教が理想とする姿と同じで、ほんとうによく似ています。


西洋的とか、東洋的とか、そういうしょうもないことではなくて、同じ「人間」なのですから、理想が似てくるのは当然なのかもしれませんね。

やさしく、つよく、かしこくあること。

このことは、どんなに時代が変わっても、ずっと変わらない、人間の要件なのかもしれません。