法華経と聖書の符合 | 日々是好日
いぜん、法華経にかんする記事を書いて以降、偶然ながら妙に法華経や日蓮に関することに接する機会が増えたため、これも何かのご縁と思い、法華経を読み返しておりました。

風邪のため体もダルく、外出もままならないためゴロゴロしながら読んでいましたら(失礼かナ)、

「あれっ!?」

と思ったのです。

法華経には、いろいろな「比喩(おはなし)」が出てくるのですが、こんな話があります。

「大金持ちの息子が家を出たが、戻ってくるおはなし」

貧乏になって、うらぶれた息子は、お金持ちの父の家に戻ることについて罪悪感をおぼえて拒否しますが、父親は彼を丁寧に迎え入れるという話です。

法華経の「信解品」というところに出てくるお話しです。

じつは聖書の「ルカによる福音書」にも、似た話があるのです。

大金持ちの放蕩息子が家出をしたものの、貧乏たれになって泣きながら家に戻りますが、父親は気にも留めず、立派なきものを着せて迎え入れ、宴会をするのでした。

法華経では「父」=「お釈迦様」、聖書では「父」=「神」の比喩で、ともに「父」は「子」を、おおきな愛でもって迎え入れ、莫大な財産を与えます。

構造が、とても似ているのですね。

法華経は、ほかの仏典とはかなり様子が違っていて、極論すると「人は根本原理によって支配されている」と説き、愛をもってこれを教え弘めよ、と説きます。
また、「他の教えを許さない」という側面があるのもまた、法華経ならではの特質だと思います。

法華経には、すこし一神教的な「におい」がするのです。

ぼくは大学時代「キリスト教学」というのを選択していたのですが、じつはあまり興味がなくて寝てばかりで、毎年「赤点」をとっていました。
したがって、4年間ずーっと授業に出ていました(必須科目だったので、卒業も危なかったです)。

どうやら毛穴からでも講義が聞こえていたのでしょうか、法華経を読むにつれて「これは、聖書と同じだ」ということに、ピンときて、聖書を久々に開いてみましたら、やはり同じことが書いてあるのですね。

法華経を読むにつれ、いつもなんだか、なんか聞いたことあるなあ、違和感ないなあ、そう感じるのは「毛穴」のせいなのかもしれませんねえ。

別件ですが、チベットと日本にも、共通点があります。

古事記では、ツクヨミノミコトはイザナギの右目から、アマテラスは左目から生まれた、とあります。
チベットでは、観音様の右目からは白ターラー、左目からは緑ターラーが生まれたと伝えます。

このように、神話は国や地域を超えて、共通していることがあります。
おそらく、悠久の時を経て、伝わっていったのでしょう。

世界中を、人が動き回っていた証だとも思います。

なので、法華経と聖書に共通点があっても、まったく不思議ではありません。

最近はやっている「ハロウィン」だって、キリスト教ではなく元はケルト民族のお祭りだったし、クリスマスはイランのミトラ教のお祭りだった。

「純粋な、完全な、唯一の教え」

なんていうものは、じつはないのでしょうね。
ものごとはなんでも、「ながい時間」の中で、いろいろなものに影響をされ、また影響を与えながら、複雑に、有機的に発展形成されていくのだと思います。

ぼくは、このことが、とてもおもしろい一方で、ふしぎです。

国内外問わず、宗教のことでいろいろ「いさかい」があるけれど、元をたどっていけば、同じことが起源のものを信じていたりする。

信じているひとたちは、
「この教えこそが、オリジナルで、唯一で、正しいのである」
というけれど・・・

「歴史」を見れば、そうではないことは明白です。
オリジナルな教えなどありえないし、したがって唯一ということも、ありえない。
そもそも、信じているひとにとっては、どんなものだって「正しい」に決まっています。

なのに、「わたしたち『だけ』が正しい!」と我を張るのは、なぜだろう。

そんなわけないじゃん、向こうだって正しいとこあるよ。
元をただせば、おんなじことやってるんだからさ。

正しいか、正しくないか。

そういうことは、どうでもいいのに、と思ったりもします。

「違い」を見つけることに躍起になると、ひとは攻撃的になるし、孤独感が募り、同族でかたまろうとします。
「共通点」を見つけることに集中すれば、やさしくなれるし、あたたかい気持ちになって、輪が広がる。

このことは、病気についてもいえることがあって、
「ぼくはおかしい、人と違う、間違っている、ぼくは異常だ、ふつうじゃないんだ」
というふうに自分を認識すると、とんどん悪化していきます。

しかし、
「ま、たまには、とち狂うこともあるわなあ、生きてるんだもの。それでふつう、かまへんかまへん」
というふうに「取り合わなければ」、案外するっと治ったりするものです。

「ひととの差異」や「正常との差分」に集中しだすと、もうとどまることを知りません。
「違う」ことが、気になってしかたがない。

あたりまえだ。
ひととぼくは違う人間なんだし、正常な人間なんて妄想なんだから、違うほうが多いに決まってる。
捜せばさがすほど、人との差異が目立って、自分の特異性が際立ってきます。

そして、自分の特異性に失望したりするのです。

ひととはちがう、そんな当たり前のことを忘れてしまって、あれが違う、これが異常だと考えだしたら、そりゃあちょっとは、頭もおかしくなります。

正常こそが、正しい。
わたしは、正常でなくてはならない。
そんな観念に「偏る」から、具合が悪くなるのだと思います。

正解なんか、はなから無いんだもの。
無いものを求めるから、よけいな苦労をするのですね。


あることを信じすぎることは、一種の「謗法」かもしれないな、と思う時があります。
お釈迦様は「中道」を説いていて、どこかに偏ることを、つよく戒めていたりもします。

ニュートラルに、客観的に、クールに、ふつうのテンションで、自分のことも、物事も、判断する。
このことは、宗教に限らず、仕事でも、生活でも、病気の時でも重要なことです。
これを「不動心」といいます。

ま、なかなかむずかしいですけどね。
偏るほうが、案外楽なものです。