今日は日曜ですが、仕事がありました。
ずーっと調子が良くて、けっこう上機嫌だったのですが、ふとしたきっかけで「電車恐怖症」が復活してしまい、もう1週間も会社を休んでしまいました。
今日こそは必ず行かなくてはいけない、と思っていたので、電車に乗れないのですが、がんばって行きました。
おそらく途中で下車してしまうだろうから、そのへんの「ロス」も計算して、早めに駅に行きました。
本来のるべき電車の、3時間前にホームに立ちました。
結局・・・
ぼくは、恐怖に打ち勝つことができませんでした。
肌寒いくらいの気候なのに、ぼくは滝のように汗をかいて、ホームで恐怖におののいていました。
電車が来たら飛び込み、ドアが閉まる寸前に、ホームに戻る。
そんなことを、1時間も続けていると、
「ああ、こりゃあ、無理だなあ」
そう思って、すごすごと、家に戻りました。
情けなくて、涙が出ましたね。
1時間もホームに立ち続けることができるのに、どうしてたったの15分間、電車の中で立つことができないのか。
りくつなんかありませんよね、怖いものは、怖いんです。
関係各位に電話をして、一生懸命に謝罪して、家についたら、なみだが出てきました。
くやしいのは、今日の仕事は、ほんとに「行きたかった」のです。
ずっと楽しみにしていた仕事なのに、電車に乗れないせいで、断念してしまった。
仕事がイヤだとか、誰かに会いたくないとか、そう思っていたのなら、まだあきらめもつきます。
したいことすら、できないなんて。
今はひとりぐらしだから、家にずっといたところで何もすることもなく、風邪をひいているから、食欲も性欲も飲酒欲もなく、ほんとうになにもせず、うすぐらいワンルームに閉じこもっていると、
「おれはいったい、なにをやっているんだ」
情けなくて、なみだがでてくるのでした。
発作を治すために、3年以上も、考え得ることをすべてやって、やっとうまくいったのに、また、振り出しに戻ってしまった。
千回も発作に耐えてきたんだから、あと千回だってやってやるさと、決心はしたものの。
着の身着のまま、ベッドに横になって、狭い天井を眺めていると、
「・・・そんなの、無理かもしれないなあ。こんなこともできないくせに、あと千回とか、さすがに無理だな」
明日は祝日で会社はないけど、明後日は、どうしよう。
もう1週間も休んでいるのに、どうしたら、いいんだろう。
このまま、またあの苦しい毎日に戻ってしまったら、どうしよう。
・・・
居ても立ってもいられなくなって、枕元の娘の写真と、携帯電話を手にとって、別居中の娘に電話しようとしました。
でも、なんていうんだ?
「お父さんな、治ってたんやけど、またおかしくなってな。つらいねん。助けてくれ、顔みせてくれ」
とか、いうのか?
いまは受験勉強中だ。へんなことで、邪魔したらアカン。
結局ぼくは、オトンに電話をしました。
もう70を超えているから、へんな心配をかけたくはないけど、どうしようもなくて、電話をしました。
正直に、「また出てしまった、どうしたらいいのかわからない」と言いました。
すると親父は、即座に、
「そうか。それはまあ、しゃあないなあ」
と言うのでした。
「ワシは、この家(同居中の家)のローンだけお前が払ろてくれたら、なんでもええさかいな」
「はあ」
「病院いけ病院」
「でも、それでは今までの努力が無駄になるやないか。病院でへんな薬のまされて、肝臓がめちゃくちゃになって、大変やったからいま、おれがんばってるねん」
「それがうまいこといかんかったから、そうなってるんやろ。病院いけや」
「・・・」
親父は、なにもわかってない!
薬をやめて、これだけ闘ってきたぼくの歴史を、どう考えているんだ!
・・・と一瞬思ったけど、ぼくの口から出たことばは、
「そやな」
でした。
そうだ、病院へ行こう。
薬を飲まずに治す、ということだけに、こだわるのはおかしい。
ぼくの目的は、薬を飲まないことではなくて、治すことだ。
「負け」を認めることは、勝つことよりも、大事なんです。
しっかりわかっていたつもりなのに、ぼくはいまだに頑固に、「ぼくの持論」を押し通し、勝とうとしている。
負けを認めて「病院へ行く」こと、この行動そのものが、ぼくにいま必要な「薬」かもしれない。
電話を切ったあと、へんなもので、
「そうか、おれは、病院に行っても、べつにいいのだ」
そう思うと、きゅうに気が楽になったのでした。
ぼくは、「薬に頼らずに治すこと」に、あまりに固執していました。
「薬だけに頼る」ことは、もちろんよくありません。
しかし、「薬に頼らないことだけに頼る」というのもまた、おかしなことです。
目的と手法が、混淆しているからです。
主語は「ぼく」です。
ぼくの目的は、「ぼくの病気を治すこと」です。
ある種の方法だけに拘泥すると、絶対に間違う。
重要なのは目的で、方法は枝葉だ。
ぼくはいつの間にか、あたまのなかが、ぐちゃぐちゃになっていたのでした。
そりゃ、そうだろう?
お医者さんだって、「人」なんだ。
間違うこともある。
人が人を頼るのは、何も不自然じゃない。
医者の当たりが悪いのは、ぼくの考え方が偏ってたからかもしれない。
どんな悪い人でも、こちらから信頼して、誠心誠意つきあえば、よい人になっていく。
ということは、お医者さんだって、そうじゃないか?
ぼくは、お医者さんに対して、こころが「かたくな」でした。
正直いままで、ろくなことがなかったから。
でもどうだろうか、ぼくが「信じていない」から、お医者さんも、そうなったとはいえないか。
お医者さんは、すくなくとも、ぼくよりも病気のことをよく知っている。
こんなぼくでさえ、ホームページをつくることについては、どんな素人さんよりも、よく知っている。
それは、ぼくが「プロ」だからだ。
医者は病気の「プロ」なんだから、それを疑ってばかりいるのは、ちょっと恥ずかしいことです。
素人がホームページのことをぐちゃぐちゃ言うのを聞いていると、正直ぼくは笑ってしまいます。
言っていることは正しいことも確かにあるけれど、「偏っている」のです。
自分が知っている世界のことしかわかってないから、全体的にはめちゃくちゃなのです。
だから、素人は、食っていけない。
あたりまえのことなのに、ぼくは親父の話をきいて、はっとしました。
ぼくがやっていたことは、「ちょっとかじってプロ気取りをしている、いけすかない素人」そのままかもしれない。
いけすかない素人が独自でつくった会社のホームページなど、ほんとうにクソの役にも立たない。
オナニーで作っているから、まったくもって、恥ずかしいものになっていきます。
いけすかない素人に限って、こういうことを言うのです。
「あの業者は、頼りにならない。知識が偏っている。知識が古い。おれのほうが、プロよりマシだ」
そんなわけが、ないだろう?
10年間も昼夜問わずプログラムを書いているプロが、おまえなんかに、負けるわけがないじゃないか。
でもみんなやさしいから、「いやあ、あなたすごいですねえ」とリップサービスしてるだけだよ。
頼れるもの、それはプロです。
ぼくはもうすこし素直になって、もういちど、お医者さんに頼ってみようと思います。