2011年3月11日の私 その1の続編です。

 

 

これは当時毎日書いていたブログから持ってきました。

3月11日から約3ヶ月後に思い出しながら書いたものです。

毎日生きるのに必死だったのと、頭がマヒしているというか、思い出したくないような記憶の曖昧さもあって、すぐは書けなかったんですよね。

 

 

ではその1からの続きです。

 

いったん強い揺れが収まってから事務所に戻るまでの間、信号がついていたかとか、ラジオが聞こえていたかとか、人がどうだったかとか、記憶に残っていません。

十字路に差し掛かった時、緊張した記憶は残ってるから滅灯してたのかな。
ホントに記憶が残っていません。

長年宮城県に住んでると、地震はいつ起こってもおかしくないレベルで身近だよね。
こういう場合はこうする、そういう場合はそうする…等々、頭に入ってる対応があって、でも今の上司達は指示なし。
当時は苛立ったけど、地震に免疫がない人にとってはショックも大きくて、仕方なかったんだろうなとしばらく後に思った。

当時の自分に戻ります。
事務所で瞬時に緊急体制に入った自分と、周囲の人達の温度差は激し過ぎ。
たぶん彼らからは「自分だけ助かろうとしている」自己中心的な人物に見えたはす゛。
私からすれば、自分や家族を守る意識を忘れて、不安をうつろいに任せてる人々。

漫然と無駄に流れる間に「具体的に指示して下さい」って何回言ったかな。
時々つながるメールで家族や彼に連絡しながら、私は自分のカバン2つ身に着けたまま、いつでも“行ける”体制でいました。

余震の度に外に出ろと言われて、出るだけ出ても頭上から降って来るじゃないか~とツッこむ私、どんどん時間だけが過ぎて夕方になった。
「停電してるから暗くなる前に帰宅させるべき」というのが伝わったのか分からないけど、やっと解散になった。

 

その3に続く

 

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