#500 「あなたの息子で良かった」と「ごめんね」と「ありがとう」 | せんちゃんのThree good things

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自分が感じた嬉しかったこと、楽しかったことを中心に書いていきます。みなさんと喜びを共有できれば嬉しいです。

日頃、思っていても相手に伝えられていないことは多い。母に対してもそうだったが、母に少し先が見え始めた頃、やはり伝えるべき事は伝えた方が良いと思うようになった。


一昨年の母の日に花を送った時のメッセージに「あなたの息子に生まれて良かった」と書いた。それを母はとても喜んでくれた。その後、電話でも同じことを伝えたし、面会した時にも直接伝えた。この言葉は、私の長女が結婚式の時に私に書いてくれた手紙に書かれていた文章のパクリである。


この話は葬儀の時の挨拶で言おうと思ったが、途中で泣いてしまいそうな気がしてきたので、急遽内容を変えてしまった。



2024年5月26日、母は突然逝ってしまった。その日は、施設にいる母の面会予約を取っていて、東名高速道路を走って帰省途中だったが、最後には少し間に合わなかった。


葬儀は親しい親戚と家族のみに声をかけた。次女は札幌にいたので、札幌から手を合わせてくれればいいと伝えたが、どうしても出席したいと言うので来てもらった。


通夜の挨拶では、私がアサリが好きで、毎年潮干狩りに行ってアサリを送ってくれたこと、その時に母が転んで骨折したこと、それが施設に入るきっかけとなったことを話した。


葬儀では、今までの母に対する私の行為に対して謝罪した。コロナ前の旅行で行った金沢の石畳を、車椅子を押して歩いた時、何度も「怖い、怖い」と言う母に、つい怒ってしまった。「あの時は怒ってしまってごめんね」と言うと「いいよ、いいよ」と言ってくれた。


施設から外出して、母を家に連れて帰った時、帰りの車に乗せる時に足がもつれて、抱えていた母と一緒に転んでしまった。背中と頭を打った母に、何度も何度も謝ったが、再度「あの時はごめんね」と謝ると「いいよ、いいよ」と言ってくれた。結局、母が家に戻ったのはこの時が最後となってしまった。


この10年間、中国にいた4年8ヶ月を含め、ほぼ毎日母に電話していたが、最後の方は電話を耳にしっかり当てることができなくなったようで、「もしもし、もしもし、切れちゃっただかん?」を毎回連発するので、大きな声を出して怒ってしまった。そのことを謝ると「いいよ、いいよ」と言ってくれた。


私は入学した大学が第一志望の建築ではなく、第二志望の化学だったため、ろくに大学に通わず、卒業までに7年もかかってしまったのだが、「何年も大学に行かせてもらってごめんね」と謝ると、「あれは長かった」と言われた。


初七日の後の挨拶では、まだ母が元気だった数年前に「最後の晩餐には何を食べたい?」と聞いた時のことを話した。私は、昔、母が出かける時によく作ってくれた梅干しのおにぎりと、毎年春に食べたアサリの味噌汁かなと言うと、母は「伊勢エビが食べたい」と言った。最後の最後で伊勢エビですか!


その後、孫である私の長女と3人で伊勢神宮に行った時に「伊勢エビのお造り」を食べ、地元蒲郡の海鮮料理店でも伊勢エビを食べたので、一応は望みは叶えてあげられたと思っている。


毎日母に電話していた目的は、母の認知症対策だった。日課となっていたので、母が亡くなって、電話できなくなった今も、母の声が聞こえてきそうな気がしている。いまは、返事をしない遺影に母の好きだったコーヒーを供えて話しかけている。電話の最後に母がいつも言っていた「ありがとう」が耳に残っている。


母が痩せてきて、いよいよ先が見えてきた頃からは、昔話をよくする様になった。昨日のことはよく覚えていなかったが、昔のことはよく覚えていた。少しでも笑って欲しくて陽気な話題を選んだ。


長女の結婚式は6年前に東京のホテルで行った。初めは、車椅子の母が参列するのは難しいと思ったが、思い切って車椅子でも着られる留袖を探し、車で蒲郡まで迎えに行った。母は結婚式に出られたことをとても喜んでくれたので、連れて行って良かったと思っている。母の携帯の待ち受けは、最後まで長女のウエディングドレスの写真だった。結婚式の後は、お台場のホテルに私の妹と3人で泊まり、富士山と浅草見物をして愛知に戻った。結婚式に出られたことも、東京観光したことも、最後まで母はよく覚えていた。


結婚式の後、コロナ禍となる前の半年くらいの間、毎月、母を2泊3日の旅行に連れて行った。京都に2回、金沢、富山、伊勢志摩、高山など。コロナ禍で行動が制限されるまで旅行は続けた。この頃は、歩行器があれば、母は夜中も一人でトイレにいけていた。長女も2回一緒に旅行に行ってくれたので、母には良い思い出になったと思う。


コロナの制約が緩和されてからは、旅行に行けるだけの体力が無くなっていたので、毎月月末に帰省して外出、外食、面会をしていた。海鮮料理を食べることが多かったが、今年の2/27はうどんが食べたいと言うので、ガマゴリうどん(アサリの入ったうどん)を食べに行った。食べるのに時間はかかったが、母は完食した。そのあともコメダ珈琲でミックストーストを1/3食べ、コーヒーも半分飲んだ。母の施設での晩ご飯用にスーパーでにぎり寿司を買い、スーパーの入り口で売っていた、たこ焼きが食べたいと言うので一皿買った。福祉車両のレンタカーの中で、たこ焼きを3個、手をベタベタにしながら母は美味しそうに食べた。これだけ食欲があれば、まだまだしばらくは大丈夫と思っていたが、これが最後の外出となってしまった。


4/1から私が帯状疱疹になってしまったため、約2ヶ月間、帰省できず母に会えていなかった。


なんとか我慢できる程度の痛みになったので、5/26に面会の予約を取った。午前8時に妹を厚木でピックアップして、東名高速を走っていると施設から電話があった。


施設から電話があると、いつもびっくりする。電話によると、母が市民病院に緊急搬送されたらしい。母が緊急搬送されたのは今回が初めてではなかったので、この時点ではそれほど驚いていなかった。


その後、病院に駆けつけてくれた叔母から電話がかかってきたが、良く聞き取れない。叔母も気が動転しているようだった。


叔母は慌てて家を出たらしく携帯電話を忘れ、公衆電話から掛けてきたためか、声が小さくて雑音が入る。妹と2人でBluetoothで繋がった車のスピーカーから聞こえてくる声を必死に聞き取ろうとしていた。


叔母の声から状況が良くない事だけは理解できた。その後、何回か電話があり、心肺停止になって酸素吸入マスクが外されたことを知った。


今年の3/6にも母は蒲郡市民病院に緊急搬送されていて、2週間ほど入院したのだが無事に復帰した。その際、延命措置についての意志を聞かれたので、延命措置はしないと書面で回答していた。この措置を少し後悔した。


そのあとは、私の従兄弟の奥さんが電話を代わってくれて、葬儀社はどこにするか、遺体を自宅に運ぶか、葬儀社の霊安室に運ぶか、お寺はどこにするかなど、話は事務的にどんどん進んで行った。話が進んでいく事はありがたいのだが、それをぼんやり俯瞰している自分がいた。


母は自宅に戻りたいだろうと思ったので、自宅に遺体を運んでもらい、我々も自宅に向かった。自宅に着くと、母は応接間に寝かされたところだった。ドライアイスで冷やされているので、母の額はひんやりとしていた。その晩は母の隣で寝た。


応接間の上の階は私の部屋で、何かの音が聞こえてくる。2階に上がってみると、留守の間雨戸を閉めてあった東側の窓から小鳥の鳴く声が聞こえてくる。雨戸の戸袋に小鳥が巣を作って、雛が餌をくれと鳴いているようだった。鳴き声からスズメではなく、ヒヨドリのようだった。かなり大きな声で鳴いていた。雨戸を開けると巣が壊れてしまうと思ったので、東側の雨戸は閉めたままにしておいた。


※巣作りに使われた藁が、戸袋からはみ出していた。


5月31日、青梅に戻る前に戸締りをしていたら、2階の東側の戸袋から雛の声は聞こえなくなっていた。


雛は巣立っていったらしい。


雛が母と重なった。


楽しそうによく笑う母だった。


最後にお世話になった施設に、荷物の引き取りに行き、担当者と応接室で母のことを話していたら、突然込み上げてくるものがあり、嗚咽しながら泣いてしまった。人前で泣くのはこれが人生で3度目だった。おそらくこれが最後だと思う。


葬儀の時はこらえたんだけどな。


※コーヒーカップは、私が作って以前、母に送ったもの。コーヒーが好きだった母に毎日2回供えている。


※受け入れて、前を向いて行くしかない。


(今日の日課)

1. 体重、体脂肪、血圧等の測定と記録:◯

2. 坐禅(朝晩各10分間):◯

3. 般若心経を唱える:◯

4. 口角トレーニング(1分間):◯

5. 語学学習(英語、中国語):◯

6. 読書:×

7. 料理:◯

8. 書道:×

9. 蕎麦打ち:×

10. 陶芸:×

11. 畑:×

12. 一日一万歩:×

13. テニスボール整筋(10分間):×

14. ストレッチ(30分間):◯

15. ジャンプ(100回):◯

16. スワイショウ(300回):◯

17. 体幹トレーニング(1分間):×

18. 腕立て伏せ(30秒に40回):◯

19. 真向法体操:◯

20. ギター(3分間):×

21. 俳句(1句):×

22. Three Good Things:◯