「生かせて頂いている」ことの実感 | 8歳で両親と死別。天涯孤独な男の成り上がり人生

8歳で両親と死別。天涯孤独な男の成り上がり人生

8歳で両親を亡くし、兄弟や親戚も居ない孤児。人生のどん底を味わい、天涯孤独で生きるしか道がなく、頼れるのは自分だけ。何もない孤児でも弁護士事務所を開業出来、他の事業している、その状況の中『失明宣告』を受けて心の中の葛藤を綴っています!!

現在の環境にて

今までとは違う視点で

物事を考えるようになった。

例えば...

「死」という概念

私の母を含め...

8歳から今までも

身近で亡くなった方はたくさんおられた。

母の「死」は勿論のこと...

身近の方が亡くなられると

とても辛いし...

とても悲しい...

敢えて批判を恐れずにいうと...

その時の気持ちは

自分自身が一生懸命に生きることに

精一杯だったということもあったが

どこかしら「対岸の火事」的な...

判りやすくいうと

ニュースで事件や事故に巻き込まれて

お亡くなりになった方を見ている感じ...

感情移入はするのだが

それ以上でもなければ...

それ以下でもない。

あたかも自分自身が「生きている」ことが

「当たり前」と想いこんでいたからかも知れない。

だが今はコロナ禍という状況の中で

家族にも逢えず...

最期の言葉も伝えられず...

「死」えおお迎えになられる方を

目の当たりにしたとき

今まで感じたことのない

想いが込み上げてくる。

様々な理由で亡くなられる方...

その「死」を近くで見届けてあげることも出来ない

家族の方々...

あるいは知人の方々...

コロナ禍とはいえ

お亡くなりになられた方や

ご遺族の方々の心労は

計り知れないものがあると想うようになった。

これも私自身が「がん」になって「死」というものを

身近に感じることになったからなのだろう。

この度「がん」になって失ったものも

たくさんあったが...

それと同時に得るものもあった。

何より「日常」の「当たり前」が

「当たり前」ではないということ...

緑内障になってからも感じていたこと。

「五感」があるということの大切さ。

決して「当たり前」ではないということ。


「今」だからこそ想うこと...

耳は...

人の言葉を最後まで聞いてあげる為に使う。

眼は...

人の良いところを見るために使う。

手足は...

人を助けるために使う。

心は...

人の痛みを知るために使う。


「生きている」のではなく...

生かせて頂けているのだから...