皆さんお久しぶりです。どうも!TKです。皆さんは、年末年始は
どのように過ごしていましたか、僕は依然として続くであろうWikiコロナ禍対応なのか、
それとも元々持っている素行なのかわかりませんが曖昧な状況下ですが。
たぶん僕の年末年始の行動予定はステイホームで居間のテレビで今の状況を把握しつつも猫のように自由気ままに過ごすお笑月になっていたと思っています、、、
ちょっと待てよ僕のステイホーム好きな気質は別にコロナ禍になる前からだったと考えるとここ最近の話題の端々にコロナと言うワードを書けば自分の近況を
説明しやすいと判断してしまう筆者自身の安直さにヘキヘキしてしまいながらも
言葉の鮮度で選んでしまうだよな~
これは僕の個人的な偏見ですが、近年言葉と言う物が、本来意味に
プラスアルファして時勢や風潮に合わせ類似した、
意味合いの関連した和製英語などが多様に増え、本来、同音意義語や情緒を楽しむ日本語の特性が。安易な言語の簡略化によって、
用件重視の寒々しい会話が主流の割に、会話の端々に入れてもいいような
予断や会話相手との信頼関係故に生じる。
うちわに対する気遣いの様な、会話は案外、批判やハラスメントとされる、
世の中なっているように僕には見えて少し寂しい気がします。
昔は感情で生まれていた言葉が、今はその時の世相に合わせ生み出した。方が共通認識されやすいし時代に圧殺されにくい物が多いと、
感じる時代になってしまったと、僕は思っています。
でもこのスタンスが流行ったきっかけは、誰もが短かに人の意見に賛同し
議論を重ねより良い意見を発表できる今の時代、
多くの人が、問題提起をして賛同や賞賛を求めて、不平不満を匿名で言えるこの時代だからこそ、ホワイトタイガの様に白黒はっきりつけたい。
人が増えて来て、言葉自体は単一で鋭利なっている印象なのに、
全体文は中立的な意見が求められているので、自由な発言は言えない。
雰囲気を、制限されていると僕は、感じています。
と新年一発目から読者置いてけぼりの暴論を書いていますが。
僕はこの曖昧な論法スタンスを変えるつもりは有りませんが。
どうしてそんな事を思ったかと言うとバライティー番組で
カースタンドなどを利用した、爆破リアクション芸など、
いわゆる身体に負担を掛けて笑いを生み出すテレビ設営は演者と視聴者に双方にストレスをあたえる可能性があるので自粛する風潮だったり、
漫才コンテストなどで決まった優勝者を話題にして、ネタを自己判定で
発表し自分の意見を語るのは自由意志だと思うのですが。
これは漫才じゃないとか、これは漫才であるなど、当時者を無視して
第三者である。視聴者やフリーク達が勝手に理想の漫才像を抱いて
身勝手な基準作りそのネタの一言一句やセンテンスや、
ニュアンスはたまた人間性まで批判する論調などを、
ネットニュースなどで見るとエンタテインメント業種が批判されやすい対象になっていて、
お笑や商品のポップなどが一番の共感や自由で自遊な意見が
求められる職種だと想うのに、不遇な立場に置かれていると、
僕は考えしまうのです。
だってあの某有名アミューズメント企業のサンディオのキャラクターアニメ商品の中に女の敵はいつだって女なのよ、と言うフレーズが、入っていた為にそれが、
ジェンダーバイアスを助長するのではといった批判がツイッター上などの一部で出ている。その結果、サンリオは、商品の発売を中止にするなど、
と言う議論が持ち上がる、時代だもん!
確かに女の敵はいつだって女なのよ、と言うフレーズは、
今のジェンダーフリーの時代には不適切な語彙に入るかも知れない
でもこの商品製造販売された 2005年当時はこのフレーズはアニメの名言と
言われていた事を鑑みると、これこそ見方と時勢によっては
同調を煽れた論法なのに情報過多によっていろいろな価値観の同調圧力が
起こって、個人主義な社会設計が進んでいる割には思考は気づかないうちに
統一化が求められていると思います。
公共性が増すと影響力と普及率を鑑みると多数派の意見が基準になるのが
自明の理ですが個人の見解を言葉選んで発言しなきゃいけない
こんな世の中、皆さんはどう思いますか。
戯言使いのTK