3男が産まれても、収入は安定しないどころか、全く食べていけませんでした。
私は何があっても3人の子供を食べさせていかなくてはなりません。
苦しい生活が続く中、結局夜の世界へと舞い戻り
どうせ務めるのなら1流のお店。
ダメ元で挑戦してみようと会員制高級クラブへ
面接に行きました。
当時の私は初めて見る北新地の光景にドキドキしながら、こんな田舎っぺで大丈夫なのか?
博多中洲とは全然違う何かを感じ不安でいっぱいの中、必死だったのを思い出します。
無事面接終了。合格。
即、以前から探していた"家政婦さん紹介状"に
連絡をして、仕事に行く事になりました。
私が行ったお店は本店支店があり、
本店は全員通訳が出来るホステス。通訳など出来ない私は支店での勤務でした。
本店は広いホールの真ん中にカプセルがありその中にはバンドが入っていて、常にBGMが流れています。支店ではグランドピアノにサックスの生演奏。後で聞いた話では、私が英語の歌を歌えるから採用されたのだそうです。
ここで、博多中洲での経験が役に立つ事になりました。しかし仕事は全く比べ物にならない程厳しいものでした。出勤前には必ず新聞は隅から隅まで読んでおく。毎日お客様にはお礼の電話。時には会社訪問。礼儀作法に話術の勉強。
勉強する事ばかりでした。
また服装は高級なものを着ないといけない。
髪は毎日美容室でセットしないといけない。
高級なお給料には、
その分まで含まれているそうです。
それでも私には一家を支えるお金が必要。
髪は自分で美容室に行ったようなセットが出来るように何度も練習。洋服は当時大阪に1件だけあったリサイクルショップで定価の10分の1の値段で買ったり、貧乏な生活の知恵はどんどん磨かれていきました。
また北新地では2月2日節分の日は(オバケ)の日といって仮想パーティーがあります。
今では数少なくなったようですが、北新地のお祭りで花魁道中などもありました。
今でも「北新地クイーン」が花魁姿で練り歩き。なんかは残っているそうです。
花魁の姿になるだけで、当時でも50万はしたのではないでしょうか?1番安い仮想でも10万はしました。そんな時も大阪日本橋にある古着屋さんで3千円のウェディングドレスを買って美容室で生の霞草で豪華にセットしてもらい、合計1万円以内で収めたり、当時の北新地では考えられないような事ばかりしていました。
当時の北新地はバブルも終わりにかかっていましたが、まだまだお金が飛びかっていました。
北新地は日本でもトップクラスの社交場。
普通の主婦なら出会うことのなかった日本のトップの方々との出会いは大きな学びになりました。
北新地でのエピソードは数えきれないほどあります。今回のブログでは書ききれそうにないので、
またの機会に書く事にして先に進みます。
北新地の華やかな世界と、家に帰ればボロマンションで暮らす子供3人のお母さん。家事に追われバタバタ生活でも、子供との暮らしは喜びもたくさん与えてもらいました。
続く
今日も最後まで読んで下さり
ありがとうございました。


