奮闘記:「神を知る」者としての、これまでとこれから。 | yosia621のブログ

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自身の経験から、統一原理の講義を聞けば神を受け入れ、み言葉を聞けば感動し、メシアを信じて、教会に伝導できると思っていた若き日のあの頃。

熱意を持って友人、知人、親に伝えました。

だけれども、初回でダメだった人、統一原理を聞いたけどダメだった人、メシアを受け入れずにダメだった人・・。
結局友人関係で祝福まで行きついた方が1人という結果でした。

両親にも御言を聞いてもらいました。

情関係があるので多少強引に「難しいけどそういうものなのだ」と。

 

「親泣かせ原理運動」と悪評高い統一教会の真の姿を知ってもらい、父は「世間でいうほど悪い教えではない」程度には受けとめてくれて、母は元々神仏に対し畏敬の念を持っていたので、先祖や親を大切にすることはよいことだし、他人に親切にることも大賛成なので、理屈(原理)はよくわからないけど、息子に言われるままに教会へ来て、人の良い信者さんと交流する中で、いろいろと協力(動員や献金)してくれました。

その後も、父には原理は生きる指針であり、真理である、復帰歴史としての人類史を解ってもらおうと事あるごとに伝えましたが、キリスト教や聖書がベースだし、原理用語も日常的でないので馴染めまずに、神仏に対し「敬えど、拝せず」精神をもって生涯を終えました。


母は健在ですが、難しい事はよくわからないというのが実情です。

母と一緒に近所のおば様に原理講義をしたこともありますが、やはり難しいとの感想でした。

良心基準の高い人にとって

「為に生きる」
他人に良くする、親切にする、公的に生きる。
人間、正直に正しく生きる。

というのは、至極当然な人生観であり、特別に意識する生きたかではありません。

環故郷で、地元に溶け込みながら生活している人は解かると思うのですが、特殊な人を除く普通の人々は利他的に生活し助け合っています。

そこに、難しい哲学や真理や神学など必要ないし、そんなものとは関係なく平和な日常は過ぎていきます。


難しい哲学や真理や神学はかえって争いの種になるのです。

原理による一神教VS地域住民「八百万の神(やおよろずのかみ)」

というように。

 

人間生きていれば、その人なりの人生哲学や宗教観は持っています。

その人生観や宗教観を否定するようなことをやっていてはダメなのです。

SNSによって、色んなグループでの、知的探求者の方々との意見交換は私にとっては有意義ではあります、しかし実践の場ではあまり役にたっていないのも現実です。


地域では、神の名称が「神様」であれ、「天の父母様」であれ、「天のお父様」であれ、親神様(天理王命:てんりおうのみこと)であれ、天照大神であれ、拘っていないません。

互いに何かに拘ることで争いが起きるということを知っているからです。

 

神学という場においては名称などは厳密な定義よって定めるので拘ることは必要です。

ブログも家庭連合に関係を持っている人により、多角的な情報を提供する場なので、ある程度の拘りは必要と思っています。

あくまでも、現実の世界で地域の人々を神に繋げる過程では拘りは、あまり必要ないという事です。

 

面と向かって改めて「宗教は好きですか」と聞けば「好きではない」と答えるでしょう。

では「宗教行事は好きですか」と聞けば「好きではない」と答えるでしょう。

 

しかし、子供が生まれればお宮参り、七五三の祝い、新年のお参り、お祭り(基本は神社の祭礼)など神社に行って参拝しているし、葬式、月命日、お盆やお彼岸、年始にお寺に行ったり、お寺様(住職)に来てもらったりして仏壇、お墓をお参りもしています。

 

日常的な宗教行事を宗教行事なんだという特別な意識なく、生活に溶け込んでいるので風習や伝統としてやります。お祭りなども、喜んで参加し、御神輿を担ぎ町内をねり歩きます。

日本人(地域の人:知人友人、親戚含む)は日常から離れた宗教や宗教団体いわゆる新興宗教と言われる異質な宗教は嫌いです。

排他的に感じています。
新興宗教は日常の中に溶け込んでいる、協調性のある「宗教」と同じではないのです。

原理や御言で伝導とうのは、その価値を理解できる人はいいけれど、それほど多くはいません。世界平和統一家庭連合(旧統一教会)という宗教団体を前面に押し出せば、受け入れ難い人が多く救いからこぼれるのです。


家庭連合という名称に変えても、やはり[宗教]では、回りいる多くの人は受け入れません。
日常、生活に溶け込んで共感してもらう、共感してもらえるような活動や運動体でなければ限界だと思います。


世界平和は日本の平和、日本の平和はわが町、わが地域の平和であり安寧から、平和な家庭はその礎という運動。

そして祝福家庭単位で連携し、連帯しながら活動していかなければ、文先生の提唱する世界平和は実現しないと実感しています。

 

地域の人々を神に繋げるには、全てを飲み込み愛するという、別次元の戦いだと思っています。

 

原理の勉強や神学的見地などのは自身の知識を深めるには良い事なので、疑問に思ったことは調べ考え、どんどん議論しましょう。

その価値が解る人の為に。

 

でも、「真の父母論」が間違っています。

 

真理である統一原理でさえも地域社会に浸透させることは困難きわまりないのに、間違った「真の父母論」が地域社会が受け入れる事はないでしょう。

例え「真の父母論」が真理であったとしても伝道の手助けには全くならないのです。

 


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