「知る」ことなしに「信じる」ことはない・・・・ | yosia621のブログ

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総序によると
「信ずるということは、知ることなしにはあり得ないことである」また「堕落人間にとって、「知ること」は命の光であり、また蘇生のための力でもある。そして、無知は死の影であり、また破滅の要素ともなるのである」とあります。

知りたいという「思い」と、知るという「行動」は大切だと思います。情報統制の中、現代にはインターネットという情報源があります。教会はインターネットを禁じている?との話もありますが、インターネットを前提とした公式HPも存在しているし、良い事、悪い事様々仕分ながら判断力を上げていかなくてはならないと思います。

そして現在進行してる問題の本質を知ることは無関係ではないはずです。宣布文実行委員会のHPにありますが、その原因が「個人の愛の減少感」に端を発しているという説明をしています。しかしここま問題が大きくなった背景の説明にはなっていません。「減少感」を感じたかどうか、本人に確認をとっていないのであれば推察や憶測の域をでず「事実」の原因解明とは言えず、未確定のものを公式見解として断定するのは疑問が残ります。

そして公式見解は誰がまとめものか明確になっていません。
そして[よくある質問事項]の中に・「One Family Under God」の理想を実現しようとすることにおいては、御言や天の願いに一致しており、何も問題はありません・としながら・・・・文鮮明師の主管の中でないことが問題としているわけですが「公式見解」の承認を得ているか疑問です。

先日、コメントに「信仰は真の父母様への忠誠が問題だ」と書きこんでくれた方がいます。
「忠誠」という言葉は大好きですが「忠誠」とは「上位にある人物,集団,理念等に対する尊敬の念を伴った献身と服従の態度」のことです。「信仰の対象は神」であるはずが「父母様」になり、親子である関係性は上下ではありませんし、尊敬の念は持つべきですが、親が子に求めているのは献身や服従ではないはずです。この方だけの考え方でなく教会の教育や指導がであればやはり、誤った教育だと思います。

かつて献身者として歩みましたが、教会や教会長に献身したのではく、神の御旨の前に身を捧げ、その神様が祝福した館が教会でしたし教会という組織でした。組織であれば秩序や序列は必要です、但し組織が正常に機能している場合のみです。組織が正しくなければ、正しくないその命令をしくしくと実行すれば神の祝福は受けれないと思います。アベルカイン信仰からの脱却をして、組織的上下関係でなく、家族関係の愛の関係を築いていくためにも真実を「知る」為にも、本来の信仰を取り戻す為にも邁進努力していきたいものです。



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