「・・・政府に尋問の筋これあり・・・・」 | yosia621のブログ

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維新最大の功労者とされる、西郷隆盛を大将として始まった、日本最後の内戦、西南戦争の時
政府に送った文の中の一節「政府に尋問の筋これあり」
全文を要訳すると「暇を頂いて帰省していましたが、政府に聞きたいことがあるので上京します。大勢でいきますが、人民が動揺しないように気おつけてください。」という内容です。

征韓論(遣韓論)*に敗れ、明治政府参議を辞任し、一人鹿児島に帰った西郷でしたが、彼を慕い陸軍少尉「桐野利秋」「篠原国幹」など多くの者が集いました。鹿児島県令(知事)大山綱良の協力の中で「私学校」を設立しました。政府は彼ら(私学校)の威を恐れ、曲解してとらえ(私学校を政府への反乱を企てる志士の養成所養成する機関だとする見解である)。明治9年1月、私学校の内部偵察と離間工作のために鹿児島出身の「中原尚雄」警吏ら24人を帰郷という名目で派遣した。

中原は知人に「西郷を‘‘しさつ”するために戻ってきた」と話した。「視察」とも「刺殺」ともとれるひどく屈折した表現でした。
後に捕獲された中原は尋問(拷問)によって西郷暗殺の命を受けたと「自白書」が取られました。また政府により鹿児島にあった陸軍の火薬倉から武器、弾薬を大阪に移送するのを私学校生徒が知りこれを襲撃した事件が発生しました。

「政府は先手を打ち、西郷先生の暗殺団を送り、隠れて武器を移そうとするやり方は卑怯だ」との思いからの襲撃でした。
これを知った西郷は「しもた!なんちゅうことを・・・」と一言漏らし、しかし彼らを捕まえて政府に差し出すという非情なことは出来ず、「こいもまた天命ごわす・・」と捉え、「おいの命おはんらに預けもうした」と周囲のものに言いったと伝えられています。

政府に尋問の筋これあり」として・・・出向く決意をしました。

2月5日、私学校幹部及び分校長ら200余名が集合して大評議がおこなわれ、2月17日東京へ向けて出発します。
9月24日薩軍370余名となり城山に籠城するも政府軍の城山総攻撃の号令が出る。西郷は股と腹に被弾し負傷し、駕籠に乗っていたが「別府晋介」を顧みて「晋どん、晋どん、もう、ここでよかろう」と言い、跪座し襟を正し、遙かに東方を拝礼した。遙拝が終わり、切腹する西郷を「別府晋介」が介錯し、「別府」自身もその場で切腹して果てました。

こうして西南戦争は終焉へと向かいます。

 西郷が何を言いたかったのかは推測の域をでませんが・・・
   疑心暗鬼に駆られ公人としての判断を誤るな、そして国家の方向を見失うな・・・との思いはあったような気がします

*西郷隆盛が下野し西南戦争の遠因となった「征韓論(遣韓論)」について
朝鮮国にいる「居留民」保護の為に武力に訴えても修好条約を結ばせるとする、参議「板垣退助」に対し
「責任ある全権大使を送ろう」とするのが西郷の意見でした。
それを受けて太政大臣「三条実美」は「全権大使も兵を連れ軍艦で行くのがよろしい」とするも
「兵は連れて行かず、礼儀をもって正しく行われるのがよろしい」と西郷が返答
そして平和大使として西郷自らが朝鮮国へいく事が決定しましたが・・・
その後、洋行から帰ってきた「岩倉具視」「大久保利通」らにより朝鮮使節は延期する為に閣議を開き直す。
西郷と大久保の大激論が交わされましたが西郷の朝鮮派遣が正式に決定されますが・・・・
岩倉具視によって私見である「西郷使節派遣必要なし」が天皇に奏上され「御意」を頂き、これが正式なものとなりました。

我、・・・・・に尋問の筋これあり。




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