という訳で、鬼滅の刃能狂言。
感想です。

使える写真がネタ切れし



前の記事は以下。



友達から『初めての人にはわかりやすいかも知れないけど、能の公演を見慣れてる自分にはイメージし辛い』と言って色々質問されたので、大きいところを先に色々書きました。



で、今回の記事は時間を置いてちょっとこなれてから書いてます。

ワタクシは能の稽古をしていない、ただの観能する人なので、ありゃ何だろこれ?というところもありましたが、概ねわかりやすくてかつ新しい試みが伝統的な形式の土台に乗っかっていて細部まで[練り上げられている]と思いました。

原作の人気が高いのにあやかって漫画以外の手法で表現する(映画も音声ドラマもノベライズも劇にするのも)という要素は勿論あるんでしょうけど、能楽や狂言で鬼滅の刃の物語を表現するとなった時に、恐らく、この企画を牽引した監修・演出の野村萬斎さん、大槻文藏氏に『鬼滅の刃は能楽と非常に親和性が高い』故に『鬼滅の刃を能楽で表現してみたい』というパッションが先ずあったように感じました。

原作が漫画ですから、型が比較的自由なミュージカルや歌舞伎であればもっと原作の再現度は高くできる、それに対して能楽はどうだろうか?と随分考えられたのではないかと思います。

能楽と狂言で鬼滅の刃を演じる場合の表現方法にはタイトな制限がある、とワタクシは思っていました。
能や狂言の約束事を崩さず物語を表現し、観客に受け入れて貰う・・・観客に受け入れられる表現の上に能楽・狂言上演上の約束事はきっちり守るという事で、脚本の木ノ下裕一氏や作調の亀井広忠氏も随分ご苦労があったのではないかと思われます。

で、実際に見てみると、色々と本来の能楽上演にはない仕掛け等はありましたが、観客にウケるためにギリギリのラインを攻めるような事にはなっていなくて、きっちり能や狂言の枠組みの中で鬼滅の刃の物語を表現していて完成度が鬼。
という事に、非常に感銘を受けました。

勿論、それぞれの役者さん達がきっちりその役を演じての事なんですが。
芸達者で働き者の野村萬斎さん、フレッシュな大槻裕一さん、底の知れない人間国宝大槻文藏氏、全てを見守る福王知登さん、コミカルな狂言方の皆さん、絶妙な音で締めるお囃子の皆さん。


再度載せておきます。

ワタクシがMSExcelで作成した能舞台平面図略図です。



最初は件の洋装無惨様。
見所が真っ暗になり、サーチ照明で照らされた無惨様が後ろから登場、きざはしから本舞台へ。

無惨様が去り、次に橋掛りから登場した竈門親子、炭治郎が炭十郎からヒノカミ神楽を伝授されるところ、七支刀を手にして、完璧な炭十郎の舞いを振りうつしで習う炭治郎。
炭十郎は野村萬斎さんだったのですが、最初それとわかりませんでした。
舞い所作が完璧。

あの舞いは神楽人は見ておくべきだと思いました。

完全に釘付けでしたよ。

そこから炭治郎役の直面大槻裕一さんが、ワキの冨岡義勇役の福王知登さんと出会い、更に鱗滝左近次役の野村萬斎さん。

狂言方の錆兎(野村裕基さん)・真菰(高野和憲さん)が面を掛けて(狂言方に着面はあります)登場。
立合いがあり、聞いた事がない合戦の太鼓。

何これ?カッコいい!と思ったら観世流太鼓方!

林雄一郎さん。

藤襲山は回想で、この回想ってところが非常に能っぽかったです!
亡霊が過去にあった話をするって形式が多い能ですが、リアルタイムの出来事を回想という形式にして能に寄せるという凝った仕掛けで作られていました。

狂言はナウインジスモーメントなので、過去に炭治郎が刀を折っているから今、狂言で刀が打たれていると。
そういう仕込みになっている模様。

狂言は鋼塚蛍フィーチャーで、テーマは多分狂言の擬音。

次につくりものから登場する禰豆子には、あのざわめきから察するに能を見たことのない素の目の人達には、違和感あったんじゃないかなあと思いましたが、あの表現が能のお約束なんですよね。
そうそう、狭霧山の岩も、客席のざわめきがあったので素の目でご覧になってた方が多かったなあと思いました。

善逸役の野村裕基さんは客席の女性に声を掛けるし、善逸でした!

三十分の休憩!

後半も無惨様から。
平安時代の無惨様の妖艶で深い表現が素敵でした。
モノローグの出来、ビジュアルも口上も素晴らしかったです。
あれで萬斎さんに持って行かれた人達も多かったのではありますまいか。

鎹鴉の狂言からシームレスに那多蜘蛛山。
ワチャワチャが可愛い。

そしてやっぱり、大槻文藏氏の累ですよ。
累ってなりは子供なんだけど百年鬼として存在していて、自分の中に深い恨みや解決出来ない不満の澱を貯めていってる存在じゃないですか。
その存在感たるや、という。
最後、両親に迎えられて戻って行く救済。

そして、再度洋装無惨様が登場して、締めて終わる。

能は一曲単体で40分から一時間(それ以上)かかるのですが、狂言進行にすることによってテンポよく進めるのもさすがの構成でした。

ワタクシはもっと地謡を聞きたかったよー
って思いましたが、地謡入れちゃうと初めての方々に難解になるって事と時間の関係と狂言・・・色んな要素があって地謡が少なかったんでしょう。

とーころが、ワタクシはコロナ後遺症で喉が完全ではなくて、仕事は完全復帰して山の中を歩き回り転けつまろびつやっていたので、今回欠席しなくて&ですが、咳が不安要素。
ワタクシはただでさえ気管支が弱くて冬に風邪をひくとスギ花粉が飛び終わるまで咳込んで、酷い年は気管を広げる吸引薬を持ち歩いているといった体たらく。
今回も当然気管支炎っぽくなっていて、薬を仕込んで乗り切ろうとしたのですが、眠くなるやつは避けたいのでちょっと工夫して臨んだのですが、後半、累が手蜘蛛出したところで恐らく薬が切れた→

咳込むのを我慢してたら喉がゴロゴロヒューヒュー鳴り出すし、だいたいクライマックスでは囃子の音が大きくなるのでここで咳ひとつして勘弁して貰おうと思ったんですが、思わぬ静寂でゴホンが出来ず、本気で気絶するかと思いましたわ。

体調は整えて行かないといけません。
席が多少空いていたので、後ろのいつもの公演では自由席になっているところに座らせて貰うよう交渉するとか、そういう事を考えておいた方が良かったと思いました。

周囲の皆さんにはご迷惑おかけしました。

で、放生会の日で混むだろうって事で高速に乗ろうとしたところ
高速通行止め。
更にゲリラ豪雨。


直方から先は高速生きてたんだけど、ここまで帰ったら下道でも同じなんですよね。

小倉か門司で夕食って時間だったし。



最後に。
今回、鑑賞時点でガチの能楽ファンの人以外で、鬼滅の刃能狂言の舞台を見に行った人達のうち15%くらいは通常公演に足を運んで頂いて、そのうち1/3くらいの人が固定ファンになれば良いのではないかという、観光客の石見神楽鑑賞からの再訪のきっかけになるか?みたいな事を思いましたが、どうだったんでしょう。

※石見神楽は石見地域の人は学校でやるので見た事がない人は恐らくおらず、観光客は祭りを目指して石見まで来ないと見られないので、再訪者はもっと少ないと思います。

入口で渡されるいつもの別公演のフライヤーも、今回は気合い入ってたなあと思いましたが、アクション的な事はなかったんですよね。

ワタクシは自分ところの祭りが終わってるので、土曜日だけれども宇佐神宮には行っとこうと思いましたがー

次は本格的な能を見ようって方々を誘導出来たのかな?とやや心配してしまいました。

ワタクシは今回も一人観劇だったのですが、神楽でもそうなんですけど、一人で鑑賞して、終わってから先の公演を語る会を持つといいなあと毎度思っています。
神楽は友達と一緒に見ても、終わったらはい解散!でバラけるので(疲れるもん)、人の視点を聞く機会がほぼ無いんですよね。
次の計画を練ったりするのにも良いので、そういうの付きで友達と観劇を企画しても良いんじゃないかなと思いました。


という事で一旦終わります。
ワタクシは発毛系素人ですが、能楽をもっと見に行って欲しいと思ってますので、見に行き方とか聞きたい事がありましたら、気軽にコメントしてください。