Dance under the Moon 4 | Yoshitaka Blog. ~Dancer Life in Amsterdam~

Yoshitaka Blog. ~Dancer Life in Amsterdam~

2005~2009 NY、2012~2014 London、
2016~ now in Amsterdam。
UK Jazz Dance x Japanese Folk Art

 

4. 4年振りに日本でダンサー&バイト生活、そして渡英修行時代

 

 

NY生活と世界一周ダンス放浪の旅を終え、2005年に渡米したそのちょうど4年後の同じ日、2009年9月10日に日本へ帰国した。

4年分の経験と歳を重ね、28歳になっていた。

 

とりあえず家がないので、都内の大学に通う弟の家に居候した。

今思えばキューバ帰りの真っ黒に日焼けして頭ボサボサの兄を、6畳1Kの部屋によく数ヶ月も居候させてくれたなと思う。後から聞いたらあの時、いつまでも居座るので「こいつまじか」と思っていたらしいが。

 

結局半年ほどそこにいた後、練馬の桜台のアパートを借りて生活を始めた。

ただやはり海外から帰ってきても、以前所属していた事務所はもう辞めていたし、すぐにダンスの仕事は入ってこなかった。なので生活費を稼ぐ為、まずバイトを始めた。スポーツジムでダンスインストラクター、テニスコーチ、パチンコ店、ファストフード店、その他日雇いのバイトなどで働いた。

 

師匠のHorieさんが自分のレッスンにアシスタントとして呼んでくれてまた毎週参加させてくれたり、先輩ダンサーのShunさんが、毎月目黒で主催していたUK Jazz Danceのクラブイベントに声を掛けてくれて、そのオーガナイズチームに入り、一緒にイベントの運営やパフォーマンスをした。そうして少しずつ日本の社会と、東京のダンスシーンに自分を馴染ませるように、ダンサーの繋がりやネットワークを再構築していった。

 

 

 

2010年5月のある夜、一人ダンス練習からの帰り道に電話が鳴った。

出てみるとShunさんからで、スケジュールが合わなくて受けられない仕事を代わりにやれるかと聞かれ、それを受けた。その仕事がその年のSMAP全国ツアーのバックダンサーだった。

 

もし将来ダンサーとして仕事をしたいのなら、バレエ、ジャズ、ストリートダンスを一通り鍛えた上で、なおかつダンサーとしての自分の個性をしっかり磨く事を勧める。そして自分のダンサーとしての実力や特性を、出来るだけ多くの、プロの仕事をしているダンサーや振付家に知っておいてもらうのが、とても大切だと思う。

 

約2ヶ月ほぼ毎日のリハーサルを経て、その夏の全国5都市を回るツアーに参加した。東京ドームを埋める、満員の観客約5万5千人の光景は忘れられない。客席のペンライトが夜空に浮かぶ満点の星々のようで、本当に綺麗だった。

 

自分が子供の頃から知っていた沢山の曲やその振付を、本人達と踊らせてもらえる事にも不思議な巡り合わせを感じた。大変な事も色々あったが、とても楽しくて、貴重な体験を沢山させてもらった。

 

2011年には北京公演が開催される事になり、再びそのバックダンサーとして呼んでもらえた。そしてその夏の間はリハーサルの日々となり、毎日10時間くらい踊る生活が続いていた。

 

ある朝、突然激しい痛みで目を覚ました。どの姿勢になっても腰の痛みが酷く、何とかベットから出ると、立てなかった。中学校のテニスの部活以来持っていた腰痛が、ついに爆発し、椎間板ヘルニアとなっていた。整形外科でブロック注射という強力な麻酔を背骨近くに打ってもらい、痛み止めを飲み、リハーサルへ向かった。

 

振付師に相談し、とりあえず1~2週間は見学し、新しいフォーメーションや構成を頭に入れつつ、体を回復させていきながら、何とか継続させてもらえる事になった。

 

この頃、リハーサルにはNHKの番組プロフェッショナルのカメラが入っていて、後日その放送を見たら、みんなが踊るリハーサルをただ横で突っ立って見学をしている自分の姿が、しっかり映されていた。

 

近くの区営プールに通い、水中ウォーキングをしてリハビリをしたり、鍼治療も受けた。そうしてなんとか2週間後くらいから少しずつ踊ることが出来るようになった。本番の北京へも大量の痛み止めを持って行き、何とか最後まで踊り切った。

 

この頃、もうすぐ30歳になる自分の体は、もう今までと同じように使っていてはもたないと痛感した。体の動かし方、ストレッチ、トレーニングの仕方を徹底的に見直す事が、これからも踊り続ける絶対条件だった。それでも、いつまた体が動かなくなるか、わからない。

 

 

2012年2月、韓国最大のストリートダンス大会で日韓合同チームとしてパフォーマンスさせてもらえる事になり、UK JazzダンサーのMuneさんやCryberと一緒に韓国へ飛んだ。

韓国は、ビックリするほど、ものすごく寒かった。

大会出演以外に、Bopster ScatのDuckyに誘われ彼の映像プロジェクトの撮影にも参加した。

 

 

Just Dance - Circle Inspiration

 

 

 

日本に帰ってきて2年間、東京でダンサー生活を再開して、日々を過ごす中で、微かに、でも徐々にはっきりと、頭の片隅で違和感を感じていた。最初にそれを感じたのは、バックダンサーとして満員のドームのステージで踊っている時に、ふと客席のお客さんの顔が見えた時だった。

 

当たり前のことだが、自分がどんなに必死に踊っていても、お客さんは全員アーティストの方を見ていた。もし自分が踊れなくなってもすぐに代わりの人が入り、回っていく世界。

 

思えば、ニューヨークへ行く前にやっていたミュージカルのアンサンブルの仕事もそうだった。個性を押し殺し、決められた振付を決められた場所で毎回正確にこなす事を求められる世界。

気が付けば、僕は同じ場所に戻ってきていた。

 

ダンサーの仕事が毎日あるわけではなく、それ以外の日はスケジュール調整のしやすい日雇いのポスティングや、マクドナルドなどでのバイトをしていた。アメリカでは誰でもやれる簡単な仕事の事をマックジョブと呼ぶ。もちろん実際にやってみるとマックの仕事はそんな簡単なものではないけれど。

 

しかし、華やかな満員のドームで踊った次の日に、マクドナルドで他の高校生アルバイトに混じって働いていると、その落差に心にもやもやとくるものがあった。海外に長く住み、色々な経験をして、もうすぐ30歳になる自分が、ここにいて良いのだろうかと考えながら、延々とハンバーガーを作り続けた。

 

自分が本当になりたいと思うダンサー像。

それは、自分にしかできないこと、自分がやるからこそ意味のある踊りをして生きる、表現者だった。誰かに決められた振付を、他の者に替えがきくことを、これから一生やっていくことは自分の人生ではなかった。

 

そう気付くのに、すんなりとはいかなかった。日々もやもやと渦巻く違和感をうまく処理することが出来ず、葛藤し、困惑し、苦しんだ。

生きるためのバイトと買い物以外は、深夜に一人自転車で出掛けて、人けのないビルのガラスの前でダンスの練習。それ以外はほぼ家から出なくなっていった。

 

ひたすら家でインターネットか、レンタルDVDを見て過ごしていた。人に会うのが何か億劫で、引きこもりの様な状態になっていた。SNSを見ると、友達や身近な人達が世界中で大活躍している姿が、心に重く、痛かった。

 

それでも、ここでこのまま終わる、ことはどうしても自分に許せなかった。

諦めるなら、もはや本当に生きている意味がない。

だから本当に自分がなりたいものになるしか、自分の生きる道はなかった。

自分のなりたい、表現者に。

 

その為には自分にしか出来ない踊りを手に入れなくてはならない。そう思った時、自分の持つ最大の武器、UK Jazzダンスを一生使える本物にする為、イギリスに行かなくてはならないと思い至った。

 

この時30歳。

調べるとイギリスのワーキングホリデービザの申請条件の年齢が30歳以下までだった。しかもイギリスは一番人気があり倍率が高く、抽選式で選ばれる。正にラストチャンス。腹を決めて、2012年の年が明けた直後、申請し、結果を待った。

 

数日後、申請可能通知が届いた。ああ、これでまだ先へ進めると思った。

それから本格的に渡英する為の諸々の準備を始め、約2年住んだ桜台のアパートを引き払い、日本から今度はヨーロッパへ、イギリスへ向けて飛び立った。

 

 

 

ロンドンへ着いたのはもうすぐオリンピックの始まる、2012年4月20日だった。

3年ぶり、2回目のロンドン。そして今回は2年間の滞在。

 

ロンドンに着いて数日後、Irven Lewisと何と道端でバッタリ再会した。それからはしょっちゅう撮影やジムでのプライベートトレーニングに誘ってくれた。彼は本当に不思議で、何とも言えない魅力を持っている。どんどん思いついたタイミングで色んな所へ連れ出された。ダンスだけでなく、写真や映像など常にクリエイティブを追求するその生き方が、正にJazzだった。

 

 

Photo : Irven Lewis

 

 

 

彼は80年代にBrothers in Jazzというチームを結成し、UK Jazz Danceの中にBe Bopと呼ばれる新たなスタイルを生み出した。その魅力は遠く日本まで届き、1990年にTRFのSAMさんやHorieさんがそれに反応して、わざわざそれを習いにロンドンまで訪れ、日本にも広まった。そして今の自分に繋がっている。

 

 

そしてIrvenと一緒にそのBe Bopを生み出したWayne Jamesが、その頃毎週木曜にダンスレッスンを開いていて、2年間欠かさず通った。Irvenが自由に踊る感じとは違い、彼は基本やテクニックに忠実に、細かく教えてくれた。

 

2年間で受けたレッスンでは毎週ほぼ同じメニュー、振付を延々と繰り返した。そして毎回めちゃくちゃ怒られた。一度怒りすぎてレッスンが中止になったことさえあった。バレエを強化するため、ロイヤルオペラハウスのBallet Blackが開催していたプロダンサー向けバレエレッスンにも毎週通った。

 

そして毎月ロンドンで開催されていたるUK Jazzクラブイベント、Shiftless Shuffleに出掛け、オリジナルUK Jazzダンサー達と、とことん踊り合った。他にもNottinghamで開催されるOut To Lunchや、年数回開催される伝説的なイベントDingwallsなどにも足を運んだ。

 

 

Shiftless Shuffle

 

 

UK Jazz Dance Report 2013

 

 

 

そうして1年が過ぎ、2年目に入った頃、あるオーディションに呼ばれた。連絡をくれたエージェントによると、あるCMでタップダンサーを探しているが、お前のUK Jazz Danceを思いっきり見せてこいと言われ、自分の踊りやすい曲を持って行き、30秒程カメラの前で全力で踊った。

 

数日後、プロダクションから直接電話掛かってきて出演決定を伝えられた。それがハイネケンの2014年に全世界で使われたコマーシャルフィルムだった。後から聞くと、イギリス中から何百人とタップダンサーを集めてオーディションは行われ、その中で自分のUK Jazz Danceのステップが、ハイネケンの社員や監督のイメージに1番近かったから選ばれたと教えられた。

 

撮影するバルセロナへ出発する数日前、Irvenといつもの様にスポーツジムで一緒にトレーニングをしている時、僕のダンスを見ていた彼が、お前の踊りは大き過ぎてエネルギーを無駄にしているから、もっとコンパクトに、足元の狭い範囲で力を集中させる様に踊れとアドバイスをくれた。

 

なるほど、と思って数日後バルセロナへ出発し、海岸に作られた巨大な撮影セットにいってみると、監督からこのテーブルの上で激しいステップを踊ってくれと指示された。それは直径1mもない小さな丸テーブルだった。

 

この時ほどIrvenの預言者の様なアドバイスに驚き、感謝したことはない。彼から教えてもらったことをひたすら思い出しながら撮影に臨み、無事怪我もなく終えることができた。

 

 

Heineken - The Odyssey

 

 

 

2年目はこの他にもソニーのブラジルサッカーW杯コマーシャルや、ナイキの広告写真モデル、全英ファッションショーのCatwalkモデルなど、大きな仕事が次々に決まった。1年目にUK Jazz Danceを磨いたことが、2年目になってその成果として出始めた。

生活費のためにやっていたバーテンダーのアルバイトも辞め、ダンスだけで生活できるようになっていった。

 

前回のロンドン滞在時にJazzCotechのリハーサルに参加させてくれたPerry Louisが、今度はドイツやスロベニアなど国外のパフォーマンスに、グループのメンバーとして参加させてくれた。日本への帰国直前にはIncognitoのミュージックビデオにも声を掛けてくれて急遽出演した。

 

 

IncognitoのBluey、JazzCotechのPerry, Tonyと

 

 

 

IrvenとWayne、この2人からこの2年間で教えてもらったことの価値は計り知れない。

そしてBrothers in Jazzのもう一人のメンバーTrevorにも実は一度だけ、会うことができた。しかもそれは彼の結婚式だった。

 

Irvenにいつもの様に突然呼び出され、綺麗なスーツを着てこいと言われ行ってみると、Trevorの結婚式だった。写真撮影のアシスタントとして同行させてくれた。ずっと古い映像でしか見たことがなかったTrevorとの初対面がいきなり彼の結婚式という状況だったが、会えた事が心から嬉しかった。別れ際、彼がそっと教えてくれたダンスを上達させる秘密のアドバイスは、もちろん今でも忘れずに覚えている。

 

 

Brothers in Jazzの三人と。左からIrven、Trevor、自分、Wayne

 

 

2年間のイギリス生活が終わる頃、大きな仕事が取れるようになってきた事をエージェントが評価してくれて、次のビザを協力して申請してくれる事になった。それでひとまずロンドン生活を終え、自分の荷物はしばらく何人かの友達の家に分けて預かってもらい、日本から弁護士と連絡を取りながら、次のビザ申請を行うことにした。

 

2014年4月8日にロンドンを離れ、日光に飢えていた僕はカナリア諸島で休暇を取り、それからドイツのデュッセルドルフにいる幼馴染のダンサー瀧森を訪ねてから帰国し、日本へ着いたのは4月25日だった。

 

 

 

(2021年に秋田魁新報WEB版に掲載されたコラムを一部改訂して掲載しています)