Dance under the Moon 3 | Yoshitaka Blog. ~Dancer Life in Amsterdam~

Yoshitaka Blog. ~Dancer Life in Amsterdam~

2005~2009 NY、2012~2014 London、
2016~ now in Amsterdam。
UK Jazz Dance x Japanese Folk Art

 

3. 世界1周ダンス放浪の旅

 

 

世界1周の旅に出る為、一度New Yorkに戻り、当時住んでいたハーレムにあったアパートの荷物整理や退居手続きを行い、お世話になった沢山の人達にお別れの挨拶をしにいった。

 

急にいなくなってやっと戻ってきたと思ったら、いきなりそんな事になっているのでみんな驚いていたが、笑顔で送り出してくれた。ただ、この街で過ごした時間は自分が思っていた以上に濃密で、やっぱりとても寂しかった。

 

「栄光も悲しみも、全ては過去の思い出と変わる」

中学校の部活の恩師の言葉が、頭に浮かんだ。

 

 

 

この旅の中で長く滞在した場所では、その分その土地の空気や生活、人生観などを直に感じながら学ぶことができた。

 

全期間の内、半分を過ごしたイギリスでは、日本でBe Bopとして知ったUK Jazzダンスのその本場で、沢山のオリジナルUK Jazzダンサー達と出会えた。

 

みんな年齢関係なく、自由にステップを踏み、音楽に揺れ、汗だくになって、純粋に踊りを楽しんでいた。その踊りの輪の中に飛び込み、こちらもステップを見せるとすぐに笑顔で受け入れてくれた。それは言葉も理屈も必要としない、至幸の人間交流とも言えるものだった。

 

UK Jazz Danceの伝説的ダンスチーム、Brothers in Jazz。

そのリーダーのIrven Lewis。師匠のHorieさんにBe Bopを教えた方達なので自分にとっては大先生にあたる。

 

その独特のステップはもちろん、腕の一振り、指先の形、体全体の緊張感が、強烈なオーラとメッセージを生み出す。そして踊りだけでなく、何よりその生き方や感性がまさにJazzだ。

 

Irvenの振付で、ロンドンにいる他の日本人UK JazzダンサーMaki&Tamaと一緒に、何度か劇場で踊る機会を与えられた。そしてこの時はまだ知らないが、この数年後にはもっと沢山の事を教えてもらう事になる。そしてフォトグラファーでもある彼に撮ってもらった沢山の写真は、全て宝物だ。

 

 

 

2009年ロンドンにてIrven Lewis撮影

 

 

 

ロンドンで現在も活動している唯一のUK Jazzダンスカンパニー、JazzCotech(ジャズコテック)。主宰のPerry Louisがカンパニーのリハーサルに参加させてくれた。

 

彼はDJ、オーガナイザーとしてShiftless ShuffleというUK Jazzダンスのクラブイベントを今も定期的に開催していて、この貴重で稀有なUK Jazz Danceカルチャーを今も守っている重要な存在だ。

 

 

 

JazzCotech Dancersとリハーサル後に

 

 

 

UK Jazzダンスは70年代頃に始まり80、90年代に全英中へ爆発的に広まり、遠く日本まで伝わったが、現在イギリスの若いダンサーはUK Jazzダンスを知らない人がほとんどだということを、この時ロンドンに住んで初めて知った。

 

 

 

この初めてのLondonで3ヶ月を過ごし、この後パリから北欧などヨーロッパ6カ国を周り、マドリードからリオデジャネイロへ飛び、南米大陸に渡った。

 

ちなみにこの時、マドリードから一度Londonへ戻ろうとして、うっかりイギリスの空港の入国審査で入国理由を今夜イベントのショーで踊る為と答えてしまい、人生初の入国拒否、強制送還を経験した。あの場所では何時如何なる時も、絶対に気を緩めてはいけないことを学んだ。その時のパスポートには、はっきりスタンプの上にバツが付けられている。

 

 

 

南米に入ると途端に英語が通じなくなり、スペイン語が必須になった。特にブラジルはポルトガル語でお手上げだった。しかし言葉とは本当に不思議なもので、心から伝えようとすると身振りや表情で何となく伝わり、何とかなった。

 

ペルーでマチュピチュの麓の村へ向かう電車の中で、前の席の子供たちが隙間からちらちら見てきた。コロンビアから旅行で来ていた家族連れで、子供たちがなぜか僕に興味津々ですぐに仲良くなり、スペイン語を熱心に教えてくれた。もう今頃は彼らも大人になっているのだろうか。

 

 

 

マチュピチュへ向かう電車で知り合った子供達

 

 

 

マチュピチュは今回の旅の中でも特に行きたかった場所の一つだった。500年以上前に造られたインカ帝国の遺跡。山の下からは全く見えない。隠れるように建てられ、かつて人が住んでいた壮大な廃墟の街。

 

行く前はとても楽しみなのと同時に、とても寂しいような、もの悲しい気持ちになるのかなと想像していた。

しかし、いざその場所に立ってみると全く違った。

 

そこは周りも高い山々に囲まれ、空は地上よりも近く見え、緑は多く、空気は澄んでいた。思っていたよりも広い。全ては石で造られ、道は迷路の様に縦横無尽に広がっている。沢山の住居の跡が並び、広場があり、段々畑が広がっていた。

確かにここには人が住み、生活していたのがそこら中に感じられた。しかし僕は悲しみや無情感に浸っていたのではない。

 

 

僕はそこに、生きる喜びを強く感じたのだ。

 

 

この宇宙の中で、人の一生なんてほんの一瞬、

塵がかすかに揺れたぐらいのものかもしれない。

 

でも僕たちは今、確かにここで生きているのだ。

かけがえのない一生を生きている。

色々な事を考え、悩み、闘い、喜び、もがきながら。

 

僕は神様も宗教も特には信じていないけれど、何かに感謝したい気持ちで一杯になった。今この瞬間に生きているのが無性に嬉しかった。

 

帰りのバスまでに許された時間は約2時間。滞在しているクスコ(標高3400m)より低いとは言ってもここも標高は2430m。動くとすぐに息が上がってきたが、僕は夢中でマチュピチュの路地で、広場で、段々畑で踊った。

 

そうせずにはいられなかった。この無性に湧き上がってくる感情を、その大地を踏み締め、ダンスで表現し、この場所に少しでもお返ししたかった。

そして帰りのバスの中で思い浮かんだ曲にその撮影した映像を乗せて、滞在していたユースホステルで動画を制作し、次の日にYoutubeにアップした。

 

 

 

マチュピチュのダンス旅映像 

 

 

 

旅の最後に訪れた国は、キューバだった。

 

2009年当時、まだキューバはアメリカとの国交が断絶している社会主義国。入国するにはまずツーリストカードというものが必要だった。キューバへ向かう飛行機の中で配られ、キューバに入国する時にそれに入国スタンプが押され、パスポートにホッチキスで止められ、出国する時にカードごと回収される。つまりパスポートにはキューバ入国の印が残らない。

 

入国審査も独特だった。

 

審査官は女性で、入国目的など普通の質問などの後に、現在恋人か妻はいるかと聞いてきた。ん?と思いつつ、いないと答えると、じゃあキューバ女性と結婚して日本へ連れて帰るつもりかと聞かれた。一瞬何かの冗談かと思ったけど、真面目な顔でこちらをじっと見ていて、もちろん違うと答えると訝しげながらも入国スタンプをくれた。その時点で、ああ、この国は他とは何か違うなと感じた。

 

今はどうなっているかわからないが、その時のキューバは国民が国外に出るのを厳しく規制していた。海外旅行は基本的に許されず、特別な仕事か外国人との結婚くらいしか国外へ出る方法はなかった。ほとんどのキューバ人が一生国を出ることはない。

 

通貨もキューバ人用のペソクバーノと外国人用のCUC(セウセ)の2種類が存在していて20倍の価値の違いがあり、国家公務員のお医者さんよりも外国人相手のタクシー運転手の方が何倍も給料が良かったりする。

 

街角で売っている食べ物の値段が大体、アイス5円、バナナ4本25円、ホットドッグ50円、ホールピザ50円、チャーハン75円くらいで、よく買って食べた。

 

そしてキューバに来て数日後、丸1日人生で経験したことのない程の激しい下痢と嘔吐の腹痛で寝込み、その後は全く大丈夫になった。人間の体の適応力には我ながら感心する。

 

 

 

朝、通りでバナナを売る馬車

 

 

 

外国人観光客が公に受けられるダンススタジオは存在せず、人づてに紹介してもらったキューバ人ダンサーの自宅に行き、プライベートでこっそり踊りを教えてもらった。決して周りには知られてはいけない、秘密のダンス活動という感じだった。

 

日本から知っていたダンサーSaekoが自分より先にキューバでダンスを学んでいて、住む場所(カサ・パティクラルという国公認の民宿)やダンスの先生などを紹介してもらい、とても助けてもらった。

 

彼女とは一緒にキューバの街中でダンス映像を撮ったり、コンフント・フォルクロリコ(キューバで一番歴史のある国立民族舞踊学校)のイベントでマンボやチャチャチャのパフォーマンスをして一緒に踊った。彼女はその後ラテンダンスの世界大会で3位入賞などに輝いている。

 

ある時、外国人はまず来ないような、地元民だけのとてもローカルなルンバパーティーに行ける機会があった。住宅地の団地の広場みたいな野外で地元住民が集まり、クラーベや太鼓、手拍子に合わせて歌を歌ったり、ルンバを踊る。

 

一見とても楽しく自由な雰囲気だけれど、みんな本気で歌い、踊る。真剣な顔で誰かが何かについて歌いだし、周りが答えるように合いの手を入れ、どんどん熱を帯びていく。どんどんラムを飲み、踊りも激しくなっていく。

 

そして広場の真ん中にスペースが作られ、赤い鮮やかな衣装を着た女の子がサンテリアというキューバの宗教ダンスを踊り始めた。キューバンダンスは正に大地を踏み締め、土着的で、魂を揺さぶる踊りだ。サンテリアの踊りはそれぞれが神様を現していて、とても神聖なもの。そしてそれが踊られる場も神聖な場となる。

 

しかしこの時は、一人のキューバ人男性が酔っ払って最前列でごろんと横になり、飲んでいたラムをその踊っている場に撒き散らしてしまった。神聖な場が汚されたという事で大騒ぎになり、踊りは途中で中止となってしまった。

 

 

 

伝統衣装でサンテリアを踊る少女

 

 

 

閉塞的な社会の中でそれぞれが懸命に生き、人生の光を、幸せを求めて宗教や伝統を大切に受け継ぎながら、音楽や踊りを魂から奏でる。その光景はキューバの街並みや、人々の生活と自然に溶け込んでいた。そんな土地で生きている人々と言葉を交わし、手を握り、歌を歌い、踊りを教えてもらった。

 

世界中の国で色々なダンスに触れたこと、そしてそれと同じくらい、世界中の人達に自分のダンスを見てもらい、色々な反応をもらえたことも多くのことを教えてくれた。正にダンスはコミュニケーションだ。人とキャッチボールを繰り返すことで踊りにその深みを与えてくれる。

 

 

 

この旅を始める前に、2つ、やる事を決めていた。

 

 

一つ目は、行った全ての国で同じダンスのポーズで写真を撮る。

そしてバルセロナのサグラダファミリアの前では、タイマー撮影していた時にカメラ横に置いていた、買ったばかりの腕時計を盗まれた。

 

 

二つ目は、旅の途中で自分が出会った各国のダンサーにインタビューを行い、「あなたにとってダンスとは何ですか?」という同じ一つの質問をする。そしてそれを動画に記録、編集しドキュメンタリーFilmを制作した。

 

 

 

Documentary Film - What is the “DANCE” for you?

 

 

 

そしてこの旅ではギターも一緒だった。

ノルウェーのフィヨルドの断崖絶壁を登る時も、ドイツの山の上にある古城ユースホステルへ泊まる時も、ブラジルのでこぼこの石畳をひたすら歩く時も、いつも必死に持ち歩いた。

 

 

 

キューバのTrinidadにて民宿の呼び込みに囲まれる

 

 

 

旅先の宿の部屋で、山の頂上で、夕暮れの海岸で、思いついたフレーズを、感じたメロディをその場所の空気に浮かべ、ギターを奏で、歌にしていった。

 

キューバ滞在中、滞在している地域一体が大雨で長時間停電になった。外はものすごい土砂降りで、厚い雨雲が空を覆っていた。夕闇が迫り、薄暗く、不気味な雰囲気だった。

 

部屋で一人でギターを弾いていると、キューバ人のホストマザー、イネスが部屋をノックした。スペイン語のみでのやりとりなのでほとんど意味は通じないのだけれど、どうやら心細いからリビングルームでギターを弾いて歌ってほしいという事らしかった。

 

普段は気丈で明るい人なので少し戸惑いつつ、自分の知っている歌、そしてこの旅中で作った歌を片っ端から日本語、英語関係なく、あるだけ弾いて歌った。

 

電気が戻らないまま夜が来て、辺りがどんどん真っ暗になっていき、お互いの顔もほとんど見えなくなっていった。暗闇の中でイネスは横でじっと聞いていた。歌いながら、ああ、この曲達はこの為に生まれてきたのかな、と思えてくるような不思議な時間だった。

 

その頃作った1曲にキューバ、ロンドンでの映像を付けたものがYoutubeに残っている。録音はキューバで出会ったミュージシャンやダンサーに演奏してもらい、その人の家のトイレで録音した。

 

 

 

キューバで制作したユレルカラダ Music Video

 

 

 

自分が旅の中でその時に感じた思い、記憶、空気感のようなものをできるだけ残しておきたかった。もしかしたらもう2度と会えない人々を、その時の自分にしか抱けなかった感情を、その時の自分にしかできない形で記録しておく必要があると思った。

 

今当時のブログや動画を見ると本当に沢山の忘れかけていた光景や感情が蘇ってきて、その宝物のような無数の記憶に、かけがえの無い感情を覚える。

 

 

 

キューバのダンス旅映像

 

 

 

キューバに滞在できる上限2ヶ月ギリギリまでビザを延長して過ごし、トロント経由で帰国した。トロントで2ヶ月ぶりにスターバックスやマクドナルドを見た時、無性に感動して、ものすごくホッとしたのを覚えている。

 

 

今回の世界一周ダンスの旅では、12カ国15都市を訪れた。

行った順にNew York、シカゴ(US)、London(UK)、パリ(フランス)、アムステルダム(オランダ)、プレーケストーレン(ノルウェー)、ベルリン(ドイツ)、ベルン(スイス)、バルセロナ、マドリッド(スペイン)、リオデジャネイロ、サルバドール(ブラジル)、ブエノスアイレス(アルゼンチン)、クスコ(ペルー)、ハバナ(キューバ)。

 

 

 

 

 

 

約半年に及ぶ旅を終え、日本に帰国した時、僕は28歳になっていた。30歳を目前に控え、約4年ぶりにまた日本でのダンサー生活を始めることになった。

 

 

 

(2021年に秋田魁新報WEB版に掲載されたコラムを一部改訂して掲載しています)