Dance under the Moon 2 | Yoshitaka Blog. ~Dancer Life in Amsterdam~

Yoshitaka Blog. ~Dancer Life in Amsterdam~

2005~2009 NY、2012~2014 London、
2016~ now in Amsterdam。
UK Jazz Dance x Japanese Folk Art

 

2. 飛び込んだNew Yorkでの修行生活

 

2年間の専門学校を卒業し、どこの芸能事務所にも所属することは出来ず、ひたすらバイトをしながらダンスを磨き、オーディションを受け続ける日々だった。

 

当時、毎週欠かさずに通ったのがHorieさんの大崎でのダンスレッスンだった。そこでBe Bop(UK Jazz Dance)だけでなくストリートダンス全般を教えてもらい、1年後には無事オーディションに受かり事務所に所属し、プロとしての仕事ができるようになった。

Horieさんは師匠であり、あの場所で僕のUK Jazz Danceの基礎は形成されていった。New Yorkに旅立つ直前まで通い、Horieさんが渡米前最後のレッスン後にビデオカメラにメッセージを録画して、飛行機の中で見るようにと渡してくれた。

 

 

 

 

New Yorkに着いたのは2005年9月11日。

この時、24歳だった。

知り合いも当てもないまま、初めての海外生活が始まった。

日本からインターネット掲示板で住む所を探し、日本人とアメリカ人の夫婦の家の1部屋を間借りした。場所がウエストハーレムのかなり上の方、本当に道を歩いているのが黒人しかいない、治安が良くない地域だったので、初っ端から中々緊張感のある毎日だった。食事は毎日チャイニーズのテイクアウトをするわけにもいかず、キッチンを借りて自炊を始めた。炊飯器がなくても、タッパーに米と水を入れて電子レンジに入れて炊ける事を覚えた。日本食料品店がマンハッタン内にあり、そこで米、納豆、味噌などを買えるのがとてもありがたかった。朝起きて語学学校に通い、ダンススタジオでレッスンを受け、受けられるオーディションがあればどんどん受けた。

 

 

New Yorkに住み始めた当初、セントラルパークにて

 

 

New Yorkのダンススタジオでは、先生がレッスンの中で良い生徒を見つけると声を掛け、ダンスカンパニーに誘ってくれて、大きなイベントやショーへ出演するチャンスをくれた。

僕も声を掛けてもらい、Angel Felicianoの”The Movement”、Jamie Jの”Jamie J Dance Company”のメンバーとなってタイムズスクエアやラスベガスのステージで踊った。

 

 

The MovementでThe Joyce Theaterにてリハーサル

 

 

Jamie J Dance Companyのメンバーと

 

 

The Movementには他に日本人ダンサーTakahiroとNobuyaがいた。3人とも同い年で、沢山刺激をもらい、互いに磨きあった。一緒にダンスコンテストにも出場して優勝したりもした。彼らは今もそれぞれNew Yorkと日本でダンサー・振付家として活躍している。

 

 

The Movementとして出演したラスベガスで収録されたジェリールイスの全米チャリティー番組

 

 

 

New Yorkではダンスだけでなく、ゴスペルを学び、歌の勉強もした。毎週土曜日ハーレムにある教会でゴスペルのワークショップを受け、クワイアーにも参加し、ハーレムやブルックリンの教会やイベントなどで歌った。教会ではプレイズダンスや、クラップという手で腕や体を打って音を出して踊るダンスなどを見ることができた。教会ではゴスペルを歌っている人や聞いている人が涙を流し、音楽に身体を揺らし、手を天に伸ばしていた。音楽が、ゴスペルが、宗教が、紛れもなく生きる希望となって沢山の人を救い、支えていた。

 

 

ゴスペルワークショップで出会った日本人シンガーAkiと組んでクラブのイベントなどに出演して歌った。

ハーレムでプロのボイストレーナーも紹介してもらい、毎週その個人レッスンを受け、マンハッタンにあるVillage UndergroundやSugar Barのオープンマイクに出場してNew Yorkerの前で歌を磨いた。

 

 

New Yorkでは是非挑戦したい場所があった。Michael Jacksonもここから世界に羽ばたいて行ったと言われる、ハーレムにあるアポロシアターのアマチュアナイト。

そのオーディションに8時間以上並んで参加し、合格して、あの舞台に一人で立ちパフォーマンスをするチャンスを得た。

 

出場が決まってから半年間準備して本番当日を迎えた。ところが、パフォーマンスが始まり30秒も経たないうちに、会場中から嘲笑とブーイングが少しずつ巻き起こり、どんどん大きくなっていった。そしてついに突如サイレンが鳴らされ、パフォーマンス途中でいきなり音楽が止まり、袖からピエロみたいなのが出てきて、ほうきで掃かれるように強制退場させられた。観客はそれを見て大爆笑して手を叩いて喜んでいた。

 

その時は舞台袖でただ呆然として、悲しくて、悔しかった。起こったことが信じられなかった。終わった後に劇場の外で、応援に来てくれていた友人達が励ましの声を掛けてくれたが、それを聞くのも辛く、逃げるように家に帰った。部屋で一人になって気を落ち着かせてから、時間をかけて何が原因だったのか、冷静に考えた。このままでは絶対に終われない。しっかり検証、修正し、もう一度あの舞台に戻ると心に決めた。

 

UK Jazz Danceを踊れる友人とチームを組み、アメリカ人、特に場所柄黒人が多いあの会場の観客を想定した選曲、ダンススタイル、振付、構成でパフォーマンスを作り直し、またオーディションを受け、再度本戦へ出場した。今度は最後まで踊り切ることができ、沢山の拍手と歓声が巻き起こった。信じられないくらい嬉しくて、涙が出て、夢中でお辞儀をした。

結果は準優勝となり、その次のステージでも準優勝となった。甘くない、正真正銘のエンターテイメントの世界。人を楽しませること、理屈抜きに心に響く何かを表現することの大切さを、あの舞台が教えてくれた。

 

 

当初、滞在期間は3ヶ月の予定だった。最初の1, 2ヶ月は早く日本に帰りたいと思っていたのに、3ヶ月経つ頃にはまだこのままでは帰れない、と思うようになり、気が付けば半年、1年と延び、結局4年となっていた。

 

あの狭いマンハッタンに世界中から夢や野望を持った様々な種類の人間が集い、混ざり合う。あの街での生活は、とても刺激的で、まさに自分次第でチャンスは至る所に溢れていた。確かにあの街には特別な何かがあって、その魔法にかかるようにその中での生活に夢中になっていった。

 

 

ダンサーTakahiroとNew Yorkのマンハッタン34丁目にて

 

 

新しいビザへの切り替え時期に祖父の危篤の知らせがあり、急遽日本へ一時帰国した。New Yorkの弁護士と連絡を取り合いながらビザの手続きを進めていたが、2~3ヶ月でとれるだろうと言われていたのが何故か4ヶ月、5ヶ月待っても連絡は来なかった。そして半年が経った時点で、もうこれ以上待てなくなってしまった。もしビザが取れたとしてまたNew Yorkに戻るよりも、もっと世界中を見て回りたくなった。

 

ついにNew Yorkを離れることに決め、そのまま世界1周して日本へ帰る事にした。せっかく回るなら色々な国のダンスを実際に見て、学ぶ旅にしようと考えた。New Yorkに4年住んで、ダンスの文化はその土地、人々、生活、歴史に深く関係し、その中から宿命的に生まれてくるものだと感じた。

 

生きる苦しみや悲しみに負けないように、生きるために幸せや楽しさを求める人々の心が、音楽や踊りの形になって生み出される。だからそのダンスが生まれた土地で、その土地の人々の踊りを、この目で見て感じ、可能なら少しでも習い吸収しながら世界を回る。期間も特に決めず、次に行く国や宿もその時々で決めながら渡っていく即興的な旅にすることにした。

 

New Yorkに一度戻り、住んでいたハーレムのスタジオアパートを整理して荷物を日本へ送った。

こうして約4年過ごしたNew Yorkを離れ、トランクとリュックとギターを持って、世界1周ダンス放浪の旅へと出発した。

 

 

 

(2021年に秋田魁新報WEB版に掲載されたコラムを一部改訂して掲載しています)