5. ロンドンから帰国。故郷秋田での2年間。
2014年4月25日に日本へ戻った。
新しいビザが下り次第すぐまたロンドンへ戻るつもりだったので埼玉に住んでいた幼馴染の家に居候させてもらい、そこで夏頃まで過ごした。その後、渋谷のシェアハウスに2ヶ月住み、それでもなかなか進まなかったので、仕方なくひとまず故郷秋田に戻る事にした。
その時、埼玉で中古で買ったママチャリを秋田に送ろうかと考えた時に、だったらいっそこのまま乗って帰ってしまおうと思い立った。その場でiPhoneのGoogle mapで調べたらその距離約600km。1日120km漕げば5日で縦断できる。いける。
出発前にStax GrooveのリーダーIZMさんが、主宰するダンススタジオで送迎鍋パーティーを開いてくれた。朝までみんなで食べて飲んで語らい、そのまま徹夜明けで見送られながら出発した。その旅の模様はブログやSNSに毎日詳しくアップし、写真や映像も各地で撮影しながら進み、後日ドキュメンタリー映像にしてYoutubeに残した。
Tokyo~Akitaママチャリ縦断の旅。
秋田に着いた後、そのママチャリ旅の事をSNSで見た幼馴染が連絡をくれた。彼は北林といって、高校振りの再会だった。何か面白いことやってるなと思い、連絡をくれたらしい。
秋田を出て、今までやってきた活動や経緯を話すと彼はさらに興味を持ってくれて、知り合いの地元テレビや新聞社などメディア関係の人たちに紹介してくれた。まさか自分の活動に興味を持ってもらえるとは思っていなかったので、とても意外だった。
UK Jazz Danceという聴き慣れない、アンダーグラウンドなダンスということもあり、各社新聞記事や、テレビ番組に出演し、その年の暮れには地元プロバスケットチーム、秋田ノーザンハピネッツのオープニングセレモニーで3000人の観客の前で踊った。
実はそれまで一人でパフォーマンスをしたことがなかった。いつもダンスカンパニーやグループの一員として踊ってきた。一人で踊るのはショーの中でソロを踊るせいぜい30秒~1分くらいのものだった。
しかしせっかく幼馴染が繋いでくれた仕事を、チャンスを、出来ないとは絶対に言いたくなかった。とにかく全力でやってみて、大失敗した方がまだましだった。
今までニューヨークやキューバ、ロンドンで学んだことをもう一度思い出し、今自分に出来得る最高の、自分の踊りを真剣に模索した。そして全ての場で常に全身全霊で踊った。
人は、生物は、本当に追い詰められた時、次のステージに進めなければもう生きられないという時、進化という生命の神秘とも言える力を発揮する。
今までの自分のダンス史の中で、最大の転機は、実はこの時だったかもしれない。
もちろん毎回本番の映像を見ては落ち込むことが多かったが、冷静にそこから学び、次に必ず生かした。有り難いことに秋田で人前で踊る機会は沢山あって、その本番ごとに自分の踊りを磨いていった。
そして2015年2月21日、秋田のジャズクラブCat Walkで初のソロ公演を開催した。北林と2人でとことん内容や構成を考え、ぶつけ合い、練り上げて本番に望んだ。生バンド演奏でのダンスだけでなく、映像やトークや歌、Michael Jacksonまで盛り込んだ、その時の自分にできる渾身の2部構成80分のShowだった。
終演後、北林、マスター太田さん、バンドのメンバーと
2015年4月にはIrven Lewisを、8月にはHorieさんを秋田へ招聘し、それぞれダンス公演を開催した。丁度この頃Irvenの9年振りの来日を知り、何とかスケジュールを入れてもらい、来日した次の日から5日間秋田に滞在してくれた。
彼が自分の生まれ故郷に来てくれただけでも感無量だったが、一緒に秋田の地で踊り、写真を撮り、秋田の料理を美味しいと言って食べてくれるのが嬉しかった。秋田のクラブJAMHOUSEで開催した公演には秋田の地元ダンサーと、竿燈会の協力も頂き、Irven、秋田ダンサーと竿燈のお囃子という特別コラボパフォーマンスを行い、沢山の秋田の人達に見てもらうことができた。
Irven Lewis秋田公演
そして5月、秋田県立美術館からミュージアムコンサートで踊る依頼がきた。
最初は2階にあるカフェスペースでUK Jazz Danceを踊るというものだったが、その時打ち合わせをしたカフェの窓の外に広がる水庭が本当に見事で、ここで是非踊らせて欲しいとお願いした。そして打ち合わせ後に美術館の中を見学させてもらった。
その時、展示室に入ったすぐ目の前にあったのが、藤田嗣治の大壁画「秋田の行事」だった。
子供の頃は美術館には一切興味がなく、行った事がなかったので、その壁画を見たのはその時が初めてだった。
何よりそこに描かれている人達の迫力が凄かった。筋肉は彫刻のように盛り上がり、交差する肉体は躍動し、表情は生き生きとして、全てのポージングが美しい。秋田を形作る大きな力がそこには描かれていた。
壁画に圧倒され、一度美術館を出た。するとだんだん、あの感動を自分の踊りで表現してみたいという気持ちが沸々と湧き上がり、止まらなくなった。再度美術館を訪れ、秋田の行事を踊らせてくださいと改めてお願いし、やらせてもらえることになった。
自分で言い出したものの、壁画を踊りで表現する方法なんて全く分からない。それでまずは毎日美術館に通い、壁画と向き合った。始めてみると、不思議なことに毎日見ていても飽きなかった。毎回その印象が微妙に違った。
その日によって目が行く場所が違ったり、同じ人物でもその表情や感情が違って見えたり、今まで気にならなかった所がやけに気になったり。
壁画は変わらなくても、それを見る自分は毎日違う。
見慣れない不思議なポーズをした踊り子が右端に3人描かれていた。聞くとそれは秋田音頭の手踊りで、その型は秋田県内でも地域によって違うという。美術館の紹介で、描かれている手の型が残っている秋田県仙北地方の手踊りを教えてもらえることになった。
その時に訪ねたのが、仙北歌踊団の鈴木香織先生だった。かつて藤田が壁画を描くために取材で訪れた角館で見た当時の仙北歌踊団の踊り子(壁画の中でもかまくらの中に描かれている)のお孫さんというとても所縁ある方だった。
以前、東京で能のワークショップを10日間受けたことがあるが、その舞台芸術とも違い、秋田の民俗舞踊は独特でとても興味深かった。膝を曲げ、腰を落とし、片足でバランスを取りながら手を滑らかに動かしたり、手の指のそらす方向がバレエとは逆で外側へ伸びていた。その指を綺麗に揃えて動かすことによって美しいフォルムを生み出し、なんとも言えない素朴で、力強い魅力を創り出していた。
秋田音頭の手踊りを初めて教えてもらった時
壁画には描かれていない、秋田の民俗芸能や祭りの雰囲気を少しでも体感し学ぶため、秋田県内を巡った。羽後町の西馬音内盆踊りも教えてもらい、本番では3日間毎日2時間、最初から最後まで踊った。角館祭りのやま行事では曳山に載せてもらい山ぶつけを体験したり、田沢湖生保内の梵天祭りでは大きな梵天を荒々しく交代で回し、家々を回りながら秋田音頭、秋田おばこ、ドンパン節などの手踊りを踊った。壁画の中央に描かれている秋田を守る霊峰、太平山にも登った。
田沢湖生保内の梵天祭りの踊り子たちと
秋田の行事に描かれているハレとケ。
秋田は雪国だ。冬は長く厳しく、雪は深く積もり、生活は閉ざされる。それゆえに短い夏は貴重で、みんなで喜びを分かち合う。お盆には県外に出ている人も地元秋田に帰り、みんなで集まり、先祖に感謝し、祭りという最高の舞台で、みんなのパワーをぶつけ合う。
そうしてまた次の1年を生きる力を蓄え、それぞれの日常へ戻っていく。
それは遥か昔から繰り返されてきた人々の祈り、祝福のように感じられた。
各地の祭りに急に参加してきた自分を、どこもとても温かく迎え入れてくれて、また来年も来いと言ってくれた。秋田に生まれてきて、みんなに出会えたことがとても嬉しかった。
結局、美術館水庭の使用の許可は下りず、場所の変更を余儀なくされた。
かつて藤田に「秋田の行事」の制作を依頼した平野政吉が、最初に藤田嗣治美術館を建てようとした、秋田日吉八幡神社の拝殿で踊らせてもらえることになった。
その間も美術館には毎日通い続け、準備期間が伸びた分、自分なりに秋田の歴史を、文化を、空気を、可能な限り吸収し、自分の踊りへと変換させていった。音源はCat Walkの太田さんに相談し、秋田の行事の4場面にそれぞれ選んだ4曲をJazzアレンジでの生演奏をお願いした。
イベント告知用写真はIrvenがこの為だけに再度来秋し、撮影してくれた。
そして藤田が壁画を描き上げた制作期間15日間に習い、本番の15日前から現地で、本番と同じ黄昏時に制作リハーサルを行なった。
2015年10月17日、本番当日。
神社、地元の青年会や美術館スタッフなど、大勢の人達が朝から公演の準備してくれた。
その日用意したパンフレット300枚はすぐ無くなり、400人以上の来場者があった。
後はそれまで積み重ねたものを信じ、ただ全身全霊で踊るだけ。
それはこれ以上ない、完璧な、晴天の秋の日だった。
黄昏時、踊りを奉納する為の神事が行われた。
そして辺りが暗くなっていき、Jazzと篝火の音の中で踊った。
秋田県立美術館ミュージアムコンサート「まぼろしに舞う」本番
大壁画「秋田の行事」は15日間で完成したけれど、ダンスに完成はない。
その瞬間だけの、たった1回があるだけ。
そして自分自身が踊っても、それは毎回違う。
今日の自分はもう二度と存在しないように。
この5ヶ月、そして15日間を踊り終えた後、微かな、一筋の光のような可能性を感じていた。
この「秋田の行事」をこれからも踊りたい。
様々な場所で。
様々な人の前で。
様々な人生の時間の中で。
この時、表現者として、強く、素直にそう思った。
秋田に滞在中、色々な場所に呼ばれ講演会やワークショップをさせてもらった。
秋田高校や秋田大学、聖園短大、聖霊高校、羽川小学校、秋田幼稚園、能代養護学校など。
2015年9月24日、自分の母校である附属中学校で、全校生徒、保護者、先生達の前で進路講演会をさせてもらったのは特に感慨深かった。
何故ならその体育館こそ自分が最初にダンスをした場所であり、その楽しさを知り、その後の進路へ進む始まりの場所だったこと。そしてその頃の自分と同じ年の後輩達に、自分がこの場所から今までどう生きてきたかを伝えるという、自分にとっても特別な思いが込み上げる時間だった。みんな真剣に聞いてくれて、質問も沢山してくれた。
附属中学校での進路講演会
イギリスのビザは当初思っていたようには進まず、時間が掛かるにつれエージェント会社への負担も増え、また様々な会社内部事情が変化するにつれてどんどん難しくなってしまい、ついに話し合いの上、断念することになった。
既にハイネケンで得たギャラの半分をその申請、弁護士費用などに費やしていたので、正直かなりショックだったが、それ以上はどうしようもなかった。
しかしどうしてもまたヨーロッパへ行き、この秋田で創り上げてきた自分の踊りを、ヨーロッパの人たちに見てもらいたかった。そこで辛抱強く、他のヨーロッパの国のビザ事情を調べると、オランダで丁度その頃、日本人就労ビザの特別待遇が認められるという情報を見つけた。オランダへ渡り拠点を作り、ヨーロッパで活動するという道筋が見えた。
2015年12月から2ヶ月半かけて秋田魁新報のクラウドファンディングを行なった。
チラシを作って県内の幾つもの忘新年会や企業パーティーでソロパフォーマンスを行い、思いを話し、一人一人に挨拶をして回った。
本当に有難いことに多くの場へ呼んでもらい、沢山の人たちにお会いすることができた。結果は目標金額の116%に達し、無事成立した。秋田の沢山の人達に支えられて、自分のダンスを追求する人生を続けられている。この時からこの事を忘れたことはない。
県内の民俗芸能を色々調べていた中で、大日堂舞楽や霜月神楽などで舞われる剣舞を見て、他にもないか探していた中で、羽川剣ばやしを知った。しかしもうその剣舞は失われていた。
秋田で名前に剣が付く民俗芸能はとても珍しく、他にはない。その失われた剣舞がどうしても気になったが、図書館や史料館に行ってもそれ以上は分からなかった。
それで2016年1月に保存会の会長、大友隆一郎さんに会いに行った。しかし保存会にも剣舞に関する史料は残っていなかった。
そこで自分から、剣舞を創作して復活させる事を提案し、やらせてもらえる事になった。その日から羽川に通い、踊りを指導されている平塚久子さんに、現存している手踊りと扇の舞をまず教えて頂いた。その動きには剣を振るうような動きが入っていた。
剣を握った事もなかったので東京に行き、映画キルビルで剣術指導と出演をしている、剱伎衆かむゐの島口哲朗さんに基本技術のマンツーマン指導を受けた。
秋田の民俗学に詳しい齊藤壽胤さんに相談し、色々アドバイスを頂いたり、田沢湖にあるわらび座の民俗芸術研究所では小田島清朗さんに貴重な資料を見せて頂いた。
そして仙北地方に伝わる、神事として舞われている仙北神楽を知り、その剣舞を角館神明社の宮司、戸澤さんに教えて頂き、その魔を払う激しい動きを振付に取り入れた。
さらに数ある秋田音頭の手踊りの中でも1番古い、元の型を残しているといわれる土崎湊祭りの秋田音頭も名人の方から教えて頂いた。
こうして約4ヶ月を掛け剣舞を研究、創作し、羽川の皆さんに御披露目したのが5月1日。
場所は毎年9月のお祭りで剣ばやしが舞われる羽川八幡神社にて、奉納という形で行った。
民俗芸能は何よりその地域の人達のもの。羽川剣ばやしの剣舞という以上、地元の方々に認めてもらえなければ意味がない。
なので気に入ってもらえるか、とにかくそれが一番大事な問題だった。直前の4月にはストレスからか腰を壊し2週間動けなくなった。
雨上がりの境内で集まった沢山の地元の人達の前で披露した。
舞った後、大きな大きな拍手が起こり、沢山の笑顔を見た時、本当に嬉しかった。この時、心からほっとした。本当にやって良かったと思った。
剣舞初お披露目の後、羽川剣ばやし保存会の皆さんと
羽川剣ばやしも他の民俗芸能と同じように年々踊り手が減り、継承に不安を抱えている。2021年現在もこの剣舞は地域の子供達によって踊り継がれている。伝統とは人が作り、そして受け継いでいくもの。自分に何が出来るか。またあの子供達と一緒に剣舞を踊れる日を楽しみにしている。ちなみに羽川剣ばやしはヨーロッパのどこで踊っても、とても喜ばれる。
羽川の子供達に剣舞を指導した時
2016年の夏は去年以上に、沢山の秋田の祭りに参加した。
土崎湊祭り、竿燈祭り、生保内梵天祭り、西馬音内盆踊り、花輪ばやし、一日市盆踊り、毛馬内盆踊り、花輪の町踊り、羽川八幡神社祭典など。
前年の西馬音内盆踊りにひょんな事からお世話になった呉服やまだいの山内さんに繋いで頂き、西馬音内盆踊り保存会の菅原裕美子さんに直接ご指導頂ける機会があった。その動きは、地元で子供の頃から踊り、積み重ねて生まれ得る独特のニュアンス、民俗芸能の奥深さを感じさせるものだった。やまだいさんには見事な藍染めの着物を作って頂き、前年に続きこの年も3日間、毎日2時間以上踊り続けた。
羽後町の西馬音内盆踊り会館にて
2016年西馬音内盆踊り本番
秋田の行事の竿燈を上げる姿を研究するため、竿燈の練習に参加する内に、祭りにも参加させてもらえることになった。自分の地元の、子供の頃から見ていた竿燈祭りに参加し、満員の観客が埋め尽くす山王大通りで大若を上げたあの感動は、今でも忘れられない。
2016年の竿燈祭り
そうして秋田の文化や祭りを学びながら、諸々の準備はその年の年末まで掛かった。
最後に12月6日、秋田児童会館けやきシアターにて渡欧壮行公演を行い、それまで秋田で関わった沢山の方達と共演して舞台を作り上げ、秋田の人たちに踊りを見てもらった。
渡欧壮行公演YOSHITAKA DANCE LIVEのカーテンコール
そして2016年12月18日に日本を発ち、再びヨーロッパへと旅立った。
渡欧前、秋田で制作したドキュメンタリー映画「冬の秋田の行事」
(2021年に秋田魁新報WEB版に掲載されたコラムを一部改訂して掲載しています)