小浜城址に立つ~安達郡の山城を巡る②~ | 学芸員・大沢の研究ノート Second Season

学芸員・大沢の研究ノート Second Season

歴史博物館 青葉城資料展示館の学芸員・大沢慶尋の学芸活動のノート。日ごろの調査研究活動や教育活動、また個人的な日常の関心事や出来事などについて思うままに綴る。

天正十三年1585閏八月二十七日小手森城から脱出した大内定綱は、九月末居城の小浜城を退去し二本松をへて蘆名氏を頼り会津に走った。こうして塩松地方が政宗の領地となった。

その小浜城址(二本松市小浜字下館)へ向かう。

現地に設置されている鳥瞰図をみると、大規模な山城の姿がうかがえる。

 

 車で城郭の本曲輪の下まで行くことができた(下写真)

この階段を上ると、比較的広い本曲輪が見えてきた(下写真)

奥へ進むと、「戦国政宗桜」なる表示と桜の古木があらわれてくる(下写真)

さも、定綱退去後の畠山攻略時に政宗が駐留した際に、政宗自らお手植えしたかのように思わせるが、それを証する同時代史料はない。しかし、伊達政宗による観光客誘致・地域活性化、利用・活用できるものは活用しようという意気込みは伝わってくるし、うれしく思う。

 大内氏・宮森家を顕彰する「宮森家祖大内氏城趾」の標柱とともに、「伊達政宗桜」の表示が両立していることに、往時の歴史をあるがままに受け入れ、我々訪れる者に対し一方のみに片寄った善悪を定め押しつけてこないことに、好感がもてた。

 

 その後、政宗の父・輝宗は、十月八日畠山義継により阿武隈河畔の粟ノ(二本松市沖)で非業の死を遂げるが、政宗はこの時も小浜城を拠点とし駐留していた。

 

 次なる目的地・二本松城へ向かおうと、車をすすめてほんの数分。福島交通のバス停付近に「大内看板店」を発見。かの大内氏の末裔と思われ、430年以上時が過ぎた現在まで連綿と在地に根を絶やすことなくあり続けたことにしみじみとした感慨をおぼえ、また大きな感動を覚えた。