天正十三年(1585)閏八月二十七日小手森城から脱出した大内定綱は、九月末居城の小浜城を退去し二本松をへて蘆名氏を頼り会津に走った。こうして塩松地方が政宗の領地となった。
現地に設置されている鳥瞰図をみると、大規模な山城の姿がうかがえる。
奥へ進むと、「戦国政宗桜」なる表示と桜の古木があらわれてくる(下写真)。
さも、定綱退去後の畠山攻略時に政宗が駐留した際に、政宗自らお手植えしたかのように思わせるが、それを証する同時代史料はない。しかし、伊達政宗による観光客誘致・地域活性化、利用・活用できるものは活用しようという意気込みは伝わってくるし、うれしく思う。
大内氏・宮森家を顕彰する「宮森家祖大内氏城趾」の標柱とともに、「伊達政宗桜」の表示が両立していることに、往時の歴史をあるがままに受け入れ、我々訪れる者に対し一方のみに片寄った善悪を定め押しつけてこないことに、好感がもてた。



