ふと思い立ったので、伊達政宗関係の安達郡(福島県)の山城など関係史跡を巡ってみることにした。恐らく20年ぶりだ。
今回テーマとしたのは、伊達政宗が伊達家当主となって初めての戦いである天正十三年(1585)大内定綱の支城小手森城(おでもりじょう)攻めから、父輝宗が非業の死を遂げる粟ノ須の変の関係史跡だ。
まず、二本松インターを降り、小手森城址(二本松市針道字若宮)へ。そもそも、この小手森城とは一体何が起こったところか。
天正十二年(1584)冬、塩松の領主・小浜城主大内定綱が政宗の家督相続を祝い米沢へきた。この時蘆名・佐竹氏に従っていた定綱は、今後は伊達家に奉公したい、米沢に屋敷を賜り妻子を移したい旨を述べた。よって屋敷を与え、定綱は米沢で越年した。翌天正十三年正月定綱は一時的に塩松へ帰った。しかし、雪が消えても米沢に戻らず、度々の催促も固辞した。蘆名の牽制により蘆名・佐竹の麾下に戻ったのである。
閏八月、大内攻めがはじまった。定綱には岩城・蘆名・畠山が援兵した。しかし、閏八月二十七日定綱の拠る小手森城が落ちた。この小手森城攻めの模様を政宗は山形城主で叔父の最上義光に即日書状で伝えている。内容は、小手森の城主をはじめとして大内定綱の親類ら五百人あまりを討取り、その他女・子供はもちろん犬まで「撫で切り」にしたので、合計千百人あまりを切らせた。虎哉宗乙宛の書状で政宗は「合計八百人程討ち取った。」としているので、こちらが実数に近いと思われるが、大変な惨劇の舞台となったことは間違いない。家督相続まもない伊達家当主としての気負い、若気が感じられるが、このような織田信長が行ったような「撫で切り」は東北地方ではそれまで行われてこなかったため、この地方の諸氏に大きな衝撃を与えることとなった。
大手口(下写真)より鳥居をくぐり、急峻な山道を登りはじめる。
紆余曲折の末、途中ほぼ一直線に登るルートを見つけすすむ。
ここが実城、いわゆる本曲輪である。立派な解説も設置されている。攻め落とされた城あとには、神社が建立されていることが多々ある。最上義光に滅ぼされた天童氏の天童城の実城跡にも愛宕神社がご鎮座している。