仙台大人の情報誌『りらく』で対談 | 学芸員・大沢の研究ノート Second Season

学芸員・大沢の研究ノート Second Season

歴史博物館 青葉城資料展示館の学芸員・大沢慶尋の学芸活動のノート。日ごろの調査研究活動や教育活動、また個人的な日常の関心事や出来事などについて思うままに綴る。

 現在発売中の 仙台発・大人の情報誌『りらく』7月号 で、アナウンサーで朗読家の渡辺祥子さんと青葉城址で対談しました。

政宗公の一生を貫いた行動理念である「外は剛、内に慈悲(=柔)」についてお話しし、本丸にひっそりと残る何気ない往時の痕跡をご紹介しました。

お話しした基本になっているエピソードは以下の通りです。

 

仙台城~外は剛、内に柔。政宗の理想が宿る~

          大沢 慶尋『舘山城ハンドブック』より

 建物を建てるということは、そこに施主の思想・理想が映し出されることは古今東西問わず常識的なことといえる。まず、広瀬川に架かる仙台大橋の仙台城下側のたもとから本丸を望むと、景観は下のCG復元画像のとおりである。巽櫓、艮櫓、詰門の西脇櫓・東脇櫓という4つの巨大な三階櫓と、堅牢な石垣が見える。櫓は戦闘的建物であり、石垣は戦闘が前提の構造物である。すなわち、外から見た場合、勇壮な「剛」の姿といえる。仙台城は「外は剛」の城である。

ところが、詰門より本丸内部に入ると様相は一変する。上のCG画像のように、書院造の建物など殿舎群が配置され、儀式儀礼の場、政務の場、平和的な日常の空間となる。内に入って見た場合、とても平和的で柔和な姿といえる。すなわち、仙台城は「内に柔」の城である。

 

仙台城は「外は剛」、「内に柔」。「和戦両様」の城なのである。実は「外は剛」、「内に柔」という考えは、政宗の幼少から死去するまで一生を貫いた一貫した行動原理であった。

 

『仙台武鑑』巻之一(仙台藩士佐藤信直が江戸中期に編纂)に次のようなエピソードが載っている。政宗は五歳の頃、寺院で不動明王を見る。「仏は柔和なものなのになぜこの像は恐ろしい容貌をしているのか。」と問う。僧が「外は剛、内に慈悲」と答えたところ、政宗はその言葉に納得した。

仏は本来柔和なものなのに、恐ろしい姿をしている不動明王に疑問をいだいた幼少の政宗。その質問に対する僧の答えは、世の中には悪というものがあるのでそれを懲らしめ戒めるために不動明王は恐ろしい「剛」の姿をしているが、その内面は「慈悲」に満ち「柔和」であるというもので、その答えに政宗は幼いながらも納得したというのである。政宗が幼少時より利発であったことを物語るエピソードだが、この「外は剛、内に慈悲(=柔)」という思想はその後も政宗の一つの行動原理となって一生を貫いていくのである。

 

老年の政宗の小姓をつとめた木村宇右衛門が政宗の言動を書き記した『木村宇右衛門覚書』(仙台市博物館所蔵)は、有る時に政宗が話したこととして、次のように記している。

大将の国家を治め人を愛すること、たとへば不動明王の形のごとし。 外には忿怒(ふんぬ)の相を現し、内心慈悲の恵み深し。

「国家を治める大将たるものは、国家を治めること、人を愛すること、例えて言えば不動明王の形相のごとくあるべきだ。外見は忿怒(おおいなる怒り)の相をしているが、内心は慈悲の恵み深くあるべきだ。」といった意味である。

 

仙台城は、政宗の一生を貫いた「一国の大将としての行動原理」、すなわち「外は剛」、「内に柔」をまさに目に見える形で具現化したものであり、仙台城には政宗公の思想・理想そのものが宿っているのである。要するに、「仙台城=伊達政宗」そのものなのである。