体罰は必要か不要か? | 知財業界で仕事スル

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知財業界の片隅で特許事務所経営を担当する弁理士のブログ。

最近は、仕事に直結することをあまり書かなくなってしまいました。

本人は、関連していると思って書いている場合がほとんどなんですが…

暇にまかせてYoutubeを見ていたら、戸塚ヨットスクールの戸塚さんが出ておられるAbema TVの番組が目に付いたので観てみた。

 

Tヨットスクール校長vs出演者全員「子育てに体罰は必要?」

https://youtu.be/J7ys4y94cHs

 

Tヨットスクール校長vs夜回り先生「続 教育・子育てに体罰は必要なのか?」

https://youtu.be/M2iFtvzVlzI

 

 

戸塚ヨットスクールの戸塚さんは

戸塚ヨットスクール事件

https://ja.wikipedia.org/wiki/戸塚ヨットスクール事件

の当事者であり、最初の妻(以前にも書いたが、私は3度結婚している)との間の3人の子供のうちの長男が、水産高校のヨット部に所属していたこともあって、私にとって忘れられない事件であり忘れられない当事者となっている。

 

さて、そのテレビ番組を見終わって「体罰は必要か不要か?」と表題のように考えてみての私の結論は、「体罰が必要な子供も、必要でない子供もいるのであり、体罰絶対ゼロは正しくない」である。

 

合計6名の子供のうち、現在、育てているのは8歳の女子と5歳の双子男子の3名だ。その3名のうち、叩いて叱ったことがあるのは2名。8歳女子が1回、双子男子Aが2回。双子男子Bは、もうすぐ6歳になるが今まで一度も叩いて叱るべきだと思えたことがない。

 

8歳女子を叩いた時は、彼女は3歳ぐらいだったと思う。言っても聞けないので、叩くことにした。双子男子Aの第1回目は同じくらいの年齢(3歳ぐらい)で、やはり言っても聞けないので叩くことにした。2度目は、ついこの前。このときには、双子男子AAu Pairさんの注意をあざけるように無視してワルサを続けたので、私の出る番だと思って叱った。

 

双子男子Bは、叩いたことがない。しかし、これが双子男子Bがイイ子であるという意味にはならない。おそらく、心の中に反発を秘めながら、叱られないように表面を繕っている。それができるということは、子育て中の3名のなかでは最も心の襞の複雑な人格を持っているということになるのだろうと思う。

 

ということで、「体罰が必要な子供も、必要でない子供もいるのであり、体罰絶対ゼロは正しくない」が、私の実践を伴った答えだ。

 

上のAbama TVの番組で見る限り、戸塚さんは体罰容認派であるが、全員に必要であるとは言っておられない。必要な子があり、そのような子に対しては体罰が効果的だ、という立場だ。一方、それに対立する立場として出演されていた体罰反対派の専門家は体罰絶対反対(ゼロ・トレランス)の立場。

 

私は、後者にかなりうさん臭さを感じた。世界の情勢がどうであれ、ゼロ・トレランスの体罰絶対ゼロは、現実的な正解にはなりえないと思う。

 

あそこの議論で欠落していた重要な変数がある。それは年齢だ。オギャーと生まれて、五感で外界を認知しながら、言葉を話すようになって、やがて言葉で状況を理解できるようになっていく。

 

子供にも人格があり、人権は認められねばならないのであるが、例えば3歳の子と16歳の高校生とでは、認め方、認める際の手法は異なってよいと思うし、むしろ異なるべきだと思う。

 

痛みによる理解と、言葉による理解。物理的な痛みも言葉も、いずれも理解を引き出す重要なツールだ。そして、子供によって、言葉がよく機能する子もおれば、そうでない子もいる。統計的には、年齢とともに言葉の力が増していくのだろうと思うが、それも人それぞれ。当方の8歳の女子は、5歳のときにはもう体罰は必要なかったと思う。双子男子Bには、私は一度も体罰の必要性を感じたことがない。双子男子Aには2度、体罰を与えたが、今後もう不要になるのかどうかはこれからの経過次第だと思う。

 

性格と年齢。この2つが体罰の要・不要を決める重要な2要素ではないかと思う。言葉による理解の能力がまだまだ発展途上の子供、性格的に言葉による理解より痛みによる理解の方が理解しやすい子供がいる。私が子育て中の子供は8歳と5歳だが、場合によっては高校生でも体罰の方が好ましいケースもあるはずだ。

 

痛みから学ぶ学習の重要性が軽視され過ぎていると思う。言葉による理解が不十分な段階の子供は痛み(怪我とかで生じる痛み)から学ばねばならないことはたくさんある。その延長として、体罰という人為的な痛みで学んだ方がよい場合もあると思う。我が家では体罰の頻度は低いが、近くの森の中で木に登ったりしながら、いろいろと痛い目に会う経験は積ませてきている。先日書いた自転車の練習も、かなりな痛みを伴うものだ。

 

ゼロ・トレランスの体罰反対は、私には正しいとは思えない。体罰に反対するのは、善人になれるので簡単な立場である。しかしその立場は、戸塚さんが言っておられたように、キレイごとを並べているにすぎないと思う。

 

話は逸れるが、大人に対しても体罰を与えるのが当たり前の社会があるようだ。オリンピック選手がコーチから殴られる、みたいなのは、選手側に立って考えてもコーチ側でも、私はいずれも深い嫌悪感を感じざるを得ない。未成年か青年かを分ける線は人為的に法律的に引かれたものにすぎないから、成人とされる年齢に達していても言葉より体罰の方が教育効果が高いと言える被教育者も居るのかもしれないし、たぶん居るのだろうと思う。その意味では私は容認派だが、私自身はそんな立場にはなりたくないし、それを避けて今まで生きてこられたことをありがたいことだと思っている。