それでも、私はあきらめない | 知財業界で仕事スル

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知財業界の片隅で特許事務所経営を担当する弁理士のブログ。

最近は、仕事に直結することをあまり書かなくなってしまいました。

本人は、関連していると思って書いている場合がほとんどなんですが…

「それでも、私はあきらめない」(黒田福美著)を読みました。

 

著者の黒田さんは、1945年(昭和20年)に沖縄洋上で戦死した特攻隊員・光山文博少尉こと卓庚鉉(タクキョンヒョン[享年24])さんの慰霊碑を韓国に建立しようと奔走したことで知られます。そのときの実体験を書いたのがこの本です。光山少尉は出撃前夜、特攻隊員の母として知られる鳥濱トメさんを前に朝鮮民謡「アリラン」を歌ったことでも知られ、高倉健主演の映画「ホタル」(2001年)に描かれる朝鮮人特攻隊員のモデルとなっている人です。

 

私の父は、中学を中退して海軍の予科練に志願兵として入隊し、特攻隊員となるため訓練を受けている最中に終戦になり、かろうじて命をとりとめました。もう少し戦争が長引いて、彼が特攻隊員として出撃していたら、私は生まれていません。かような次第で、私には特攻隊は普通の人より少し身近な存在です。

 

この著書の主人公の卓さんは、私の父より数歳、年長でした。その年齢の差が、同じように特攻のコースに乗った二人の生死を分けたと言えます。日本の特攻隊員として亡くなった卓さんは、韓国では親日派として否定的に扱われるのが普通のようです。

 

それでよいとは、私には到底思えません。

 

黒田さんがこの著書の中で引用された朝鮮日報の記事を、私もここで引用したいと思います。この記事を書いた禹守龍(ウ スヨン)さんが、ことの本質を突いた説明をしてくれています。

 

禹さんは併合下の朝鮮から、満一歳で両親とともに和歌山県に移り住み、二十一歳のときに召集を受けて日本兵となり、「人間地雷」の特攻兵としての訓練を受けているときに終戦となって生きながらえた人です。もう一点、卓庚鉉さんと異なるのは、その後、朝鮮戦争で戦闘要員として活躍して国家有功者となった点です。すなわち韓国では、特攻兵として戦死した卓さんが「売国奴」扱いなのに対して、禹さんは「功労者」として恩給待遇を得ているのです。

 

その禹さんが、『自分たちの世代が死に絶えれば「真実を語る者がいなくなる」という切羽詰まった思いで、だれかが書き残さねばならない』と考えて朝鮮日報に投稿されたのが、“私も反民族行為者だった”とタイトルがつけられた以下の記事です。

 

<引用始>

私たちの世代は生まれたときから日本国民であった。それも兵役義務も参政権もない二等国民であった。私たちは「戦場で死ぬこと」を対価に、残る同族たちの地位が向上すると信じた。

私は日本統治時代、朝鮮人徴兵一期該当者であり、今年八十六歳になる。私たち世代の者はみな亡くなってしまった。生き残っているのはさほど多くはない。それさえもまもなくみな消え去ってゆくことだろう。そうなれば我々世代は永遠に沈黙することになる。だからこそ言っておきたいことをこれから申し上げる。   

日本自殺特攻隊神風隊員であった慶南泗川市出身の卓庚鉉氏が1945年5月 11 日、飛行機によって沖縄に停泊していた米軍艦隊に向かって突進、自爆してその命を終えた。まさにそのとき、私は当時大田に駐屯していた日本軍第224部隊の兵営で徴集された日本兵として爆弾を胴体に巻き付け敵軍の戦車の下に潜り込み自爆する訓練に日々明け暮れていた。もしあと数カ月、戦争が長引いていたら私もどこかの戦線に送られ、訓練どおりに「人間地雷」となって敵軍の戦車の下に潜り込んで死んでいたことだろう。そうであれば私も卓庚鉉氏と同じように「反民族行為者」という誹りを受けていたのだ。   

しかし卓庚鉉氏が亡くなって三カ月ののち、我が国は解放された。その解放は我々が戦って手にした成果ではなく、だれも予測がつかなかった状況の変化によってもたらされた「授かりもの」だったのだ。なんにしても解放のおかげで生き残った私は、解放された祖国に帰国し、朝鮮戦争のときには警察戦闘要員として参戦することになる。現在は「国家有功者」として優遇されながら安楽な生活を送っている。   

その反面、あのときに亡くなった卓庚鉉氏は日本国のために命を投げうった「反民族行為者」として哀しき亡霊となり、故郷へ帰ることさえ同胞、同族たちによって阻まれているのだ。これはずいぶん不公平な話ではないか。生きて「国家有功者」の身分でいる私が申し訳なくも恥ずかしい。   

卓庚鉉氏と私は年齢も当時二十代前半で同世代だ。私たち世代は生まれたときから日本国民であった。それも無為無策のうちに国家を失った祖先たちの原罪を受け継ぎ、兵役義務がない代わりに参政権もなく、日本人たちからあらゆる差別を受ける「劣等なる二等国民」であった。その悲しみは、乳飲み子であったころから日本に育った私にはより強く、肌身に感じてきた。   

同胞の大人たちの間では、「朝鮮独立」などという囁きも時折うっすらと聞こえてきもしたが、そんなことは泥沼の生活をしている少女がシンデレラを夢見るようなもので、まるで現実味がなかった。そんななか太平洋戦争が勃発し、朝鮮人にも兵役義務が課せられるなか、私自身徴集一期に該当したのであった。まさかと恐れおののいた。死ぬのが怖かった。

しかしその時分から私たちに対する日本人の態度が変わりはじめた。以前にはあからさまに「チョウセンジン」と言って、私たち民族を蔑んだ彼らが、そういった言葉遣いを自ら慎むようになり、その代わりに地域を指して「半島人」と呼ぶようになった。私に「君たちにも必ず参政権をやるから我々とともに権利を行使するように」と言う日本人の友人が増えていった。   

私は私たちに与えられた兵役義務を肯定的に考えるようになった。つまり、私たちが戦場へ赴き、死ぬことを対価とすれば、残る同族たちの地位が大きく向上するだろうと信じたのだ。   

私には直接召集令状は来ず、本籍地の役場に来て令状を受け取ってから入隊するようにという役場からの知らせであった。それから私は初めて見る故郷の役場に出向き、一晩泊まって次の日に国民学校の校庭で開かれた歓送行事に意気軒高な青年たちとともに出席した。たくさんの故郷の人々が私たちの門出に激励を送ってくれ、故郷の後輩である学生たちも手に手に旗を持って振りかざしながら見送ってくれた。私たちは誇らしい気持ちで堂々として入隊を果たしたのであった。どうせ死ぬのなら日本兵よりももっと勇敢に死んで、朝鮮若人の気概を見せてやろうと思っていた。愚かだったかもしれないが、一点の恥じるところもなかった。以上が「反民族行為者」である私の弁明のすべてである。

故郷で行われた歓送行事が、実は日本の圧力によって作りだされた偽りの行事であったというような話は耳にタコができるほど聞いた。けれどもそれはすべて自らの誤ちではなく、他者のせいなのだろうか? 

私たちは誰一人として国を失った祖先たちの原罪から逃れることはできないのだ。その事実を謙虚に受け止めて、見苦しい弁解をするのはもうやめたらよかろうと思う。   

ただ、現在「反民族行為 是非」に巻き込まれている世代の大部分の人たちが、なんとかして失った国家を取り戻し、朝鮮戦争を戦いながら国を守り、今日の大韓民国の地位を築く基礎になった世代でもあるということだけは記憶に留めておいてほしい。

このたび編纂された『親日人名辞典』には日本軍に服務した人たちの中に、一定の階級以上の将校は掲載するが、それ以下の私のような兵士たち、いわば犬のように強制的に引っ張られた兵士たちは、「取るに足らない犠牲者」だとして寛大に許され、名前を外されたという。だとすれば、その名簿に登録された人々は自分の行いに対して責任をとる能力がある完全な人格を持っており、名前が載らなかった我々は自身の行いに対して責任をとる能力さえない、「責任無能力者」だという話なのか? 

これは我々世代全体に対しての「冒瀆」にほかならない。掲載するのならば階級の上下を問わず、すべて載せなければならない。軍人ならば将校であれ一兵卒であれ、広い意味ではみな「兵士」なのだ。任務のために捧げた命の重さはみな同じなのだから。

階級の上下を問わず、当時の日本軍人であった者をすべて「反民族行為者名簿」に掲載するならば私たちの心はむしろ安らかだったかもしれない。そのような免罪符の後ろに隠れていたくはない。

最後に一つだけ加えておこう。

朝鮮戦争の中でも(激戦を極めた)「多富洞の戦い」において、(わが軍を)勝利に導き、絶体絶命の国家を死守した誇り高き国民的英雄を、「日本軍下級将校」であったという理由で反民族行為者と規定したことは、あたかも「一時期(キリスト教徒を迫害した)ローマの官吏であった」という前歴のために、あの偉大なる聖者パウロを悪魔であると断罪することと違いがあるのか?   

今になって過去の歴史を審判し断罪しようとする者は、もう少し広い心をもって道理を見極めるべきではないだろうか。

<引用終>

 

 

昨今、韓日間には数々の困難な政治問題が生じています。何十年もの間、反日をベースにした国民鼓舞物語的な歴史教育を受けてきている国民と、そのような国民に投票してもらう必要がある政治家とが、相互に共鳴しあって反日度を高めていくしかない状況にあるのが韓国です。そして、黒田さんの表現を借りると『ことに日本では人々の中に「もはや我慢の限界を超えた」という雰囲気が感じられます。「堪忍袋の緒が切れる」という言葉通り、国中が徒労感に包まれ、さすがにおとなしい日本人も「疲れ」から「憤り」へと気持ちが変化している』状況になってきています。

 

その憤りを煽るかのように、「日韓併合は韓国側が望んだこと」「日本が韓国のインフラを整備してやった」等々といった説明が日本ではなされます。それらもまったくの間違いではないとは私も思います。しかし、当時の歴史には、上の禹さんの説明にある「差別」がベースにあったことは間違いありません。韓日間におこっていたあらゆるもの、良いこと、悪いことすべてに「差別」が宿っていました。それに韓国人が憤りを感じないはずがありません。そのポイントをしっかり離さぬようにしながら、韓日間の歴史を見る必要があると思います。

 

日本の状況が「疲れ」から「憤り」へと移行しつつある中で、著者の黒田さんに負けぬよう、私も

「それでも、私はあきらめない」

この気持ちを保っていきたいと思います。