アメリカで子育てしてもバイリンガルにはならない… | 知財業界で仕事スル

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知財業界の片隅で特許事務所経営を担当する弁理士のブログ。

最近は、仕事に直結することをあまり書かなくなってしまいました。

本人は、関連していると思って書いている場合がほとんどなんですが…


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アメリカに住んで、アメリカで生まれた3人の子供を育てていると、日本に居る日本人からよく「子供が自然にバイリンガルになれて、うらやましい」というようなことをよく言われる。そして、その返答として、「バイリンガルじゃないんですよ」と答えると一様に驚かれる。

 

でも、どう考えても、うちの子供たちがバイリンガルになるようには思えないのだ。このまま自然の成り行きにまかせるなら、子供たちは英語のモノリンガル状態で育っていくことになる。

 

 

3名のうちの一番上(長女)が保育園に行き始めるまでは(すでに4~5年前か)、バイリンガルになるのだろうなと私も思っていた。両親(妻と私)が日本人であり、外の世界は英語の世界だ。自宅内では日本語ばかり使っている環境があり、家の外には英語ばかりが使われる環境がある。娘は、必然的に日英のバイリンガルになっていくだろう、と思っていた。

 

しかし、長女が学校で過ごす時間が長くなり、下の子供(双子の息子)が生まれ、下の子供も学校(保育園)に行くようになって言語状況が変化していった。

 

長女の言語能力は、保育園に行きかけた時にはほぼ日本語のモノリンガルだったのだが、それが英語の方に少しずつ重心が移っていった。保育園に行くまではほぼ“純粋”に日本語環境だったので、英語しか通じない保育園ではちょっと苦労したようだ。彼女がそれを克服して、英語のみによる学校での生活に馴染むと、彼女は日本語ではなく英語で考えるようになっていった。

 

やがて、3歳年下の双子の息子が保育園に通うようになると、学校に居る間だけでなく、自宅内でも3人の子供たちの間のコミュニケーションは全部英語になった。私や妻と対話するときには、私たちが日本語で話しかけるようにしているので、かなり日本語を理解することはできる。しかし、返事はすべて英語だ。たまに日本語を話そうとするときも、発音は英語ネーティブ訛りの発音となる。

 

最近は、日本語の単語の意味を英語で説明しなければならない場面も増えてきた。少しずつ、難しいことを話すようになってくると、その頻度が上がっていく。彼らは、完全に英語で考えている。少しだけ知っている日本語を使おうとするときも、あきらかに頭の中では英語で考えている。

 

さて…ここが、親としては思案のしどころである。子供が無理なくバイリンガルに育つような教育の機会を与えるのがよいのか?あるいは、言語は英語だけにして、言語以外のことに時間を使えるようにしてやった方がよいのか?

 

私たち夫婦の選択は、後者である。

 

それが正しいのかどうかはわからない。アメリカに住んで子育てをしているたいていの日本人は、いかにして日本語教育を子供に授けるかに努力されている。うちの子供達にもそのような機会を与えて、バイリンガルとして育つようにした方がよかった、と将来後悔することになるかもしれない。

 

また日本では、子供の英語教育が盛んだ。実際、最近の若者は英語がずいぶんと話せるようになったと思う。日本語で教育を受けながら英語能力も上がってきていて、バイリンガル化は確実に進んでいると思う。そして、子供の英語教育のために親は多大な金銭的・時間的な負担をしている。それに比べると、アメリカで、日英バイリンガルになるように育てるのは負担が少ないように思う。その利益を享受しない手はない、と言えなくもない。

 

それでも、私たち夫婦は、子供たちが学ぶ言語は英語だけにして、言語以外のことに時間を使えるようにしてやりたいと考えている。そう思うのは、私自分が「言語」にそれほど興味がないからかもしれない。それより、コミュニケーションや思考のツールとしての言語は1つだけにして、それをベースに他のことを学んでほしいと思っているからかもしれない。

 

もちろん、日本語を学ぶことを否定するつもりはない。物理学や経済学やらを学ぶのに代えて日本語を専門にし日本語の専門家になるのであれば、私はまったく反対はしない。それが、その子が自らの選択によって選んだ道であれば、それはすばらしい選択肢の一つである。

 

実際、日本文学を英語でアメリカ人に教授できる能力をうちの“日系アメリカ人”が持てば、おそらく、それだけでアメリカで楽に生きていけると思う。たとえば「村上春樹」論を1年分、英語で語れるなら、世界中の大学から“教授”職のオファーがたくさんあるに違いない。日系アメリカ人として育つ3人の子供たちのうちの一人がその方向に行ってくれるなら、日本人の親としてとても嬉しいことは間違いない。

 

いずれにせよ、私たち夫婦の選択は、そのような自主的な日本語学習ではない日本語学習…英語に加えての強制的日本語学習は避けるということだ。我々の子供たちが自らの思考のベースとして学ぶ言語は一つ(この場合は英語)だけで十分だと思っている。

 

この姿勢で日々暮らしていると、両親が共に日本人であっても、どうやら子供たちはバイリンガルにならないようだ。アメリカで育つ子は英語で考えるようになる。英語だけで考えるようになる。当然のことだ。

 

そして、それでいいのだ …と信じている。

 

私は、大学は工学部を卒業したが、高校から大学にかけて日本文学をずいぶん読んだ。学生時代の専攻は、自称「工学部日本文学科」。「日本文学を愛する日本人」の一人と言ってよいと思う。その私が、自らの子と共通の言語ベースを持たない状態になるのは、すこし寂しい気もする。しかし、英語には英語の文学がある。私には、それをネーティブレベルでは楽しむことができず、外国語として楽しむしかないが、子供たちは英語の文学を楽しんでくれたらそれで十分だと思う。

 

 

 

 

これを、成田からDCへの飛行機の中で書いている。出張のため、大阪、東京と約2週間滞在しての帰途だ。

 

出張期間中に、日本国内でいろいろ興味深いことはあったがここでは省略。今回は、私が不在中にDC側で起こったことが私にとっては最もインパクトが強い。

 

自宅の引っ越しをした。

 

もともとは、私の出張の前に引っ越す段取りになっていたのだが、新居側で引っ越し前に済ましておくべきエアコンの新設が手間取り、芋づる式にその後の工事が遅れて、引っ越しが私の出張中にずれ込んでしまった。

 

出張に出た時の自宅と、2週間後に帰る自宅が違う、というのはなかなか無いことだろうと思う。私不在中に引っ越し作業をしなければならなかった妻には申し訳ないことになってしまった。

 

空港から自宅へはいつもどおりUberを使う予定だが、住所を間違えないようにしないといけない(笑)。

 

 

 

 

 

 

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