こんばんわ。
今日は、まさかまさかの大雪!
ビックリしているよっちゅんです。
昨日の祝日は、電車に乗りたい!と言ってた息子の要望にこたえました。
なぜか、どうしても、京浜東北線に乗りたかったみたい
帰り道、最寄り駅に着いたら、息子が体調を崩してしまいました
偶然ホームにいた人や駅員さんなど、数名の方に、とても親切にしてもらいましたほ
ホント、私は息子の事で手一杯で、ロクにお礼も言えず
ありがとうございます。
感謝してもしきれません。
…今となっては、他人の親切な行為を素直にありがたいと思えます
しかし、感謝の意味がわからない時期がありました
私は、思春期のころに
ありがとうと言う意味が分からず困惑したり
他人の親切には裏があると本気で思っていたり
他人からの親切な申し出も
「そんな事をしてもらったら悪いし迷惑だから、それを受けてはいけない」と親から言われていたこともあり、本気でそう思ってました
親から
他人に迷惑をかけるな
やりたいことをやるなら、他人の手を煩わせるな
と言われて育ったこともあるのか(後で知ったのですが、祖母もそういう人だったとのこと、もはや代々続く伝統芸能みたいなものですね)
親切にされる自分=罪悪感でいっぱい
これじゃあ、感謝の意味がわからないわけだよ
そんな背景からか、他人にものを依頼したりするのが非常に苦手です。
私1人が我慢すれば丸く収まる、みたいな思考はありましたね。
そうなると、これまた、そういう思考になる事を裏付けるような出来事を引き寄せるんですね
で、気がついたのですが、その頃の私は
迷惑をかける人を許せない
訳ですよ。
迷惑をかけてはいけない
と教わっているから。
自分が意識してないところで、おそらく迷惑をかけているだろうに
自分の意識しているところだけをスポットライトみたいに
自分の視点で見て
私は迷惑かけてないのに、なんで
って、本気で思ってるんですね。
そうすると、他人にも優しくない。
だって、優しくされたことないもん。ていうか、優しくされることを拒否してるんだもん
優しくされたら裏があるって本気で思ってるんだもん。
だから、他人の親切を素直に受け取る事が出来るようになるのは、ずいぶんと時間がかかりました。(オットに感謝。です)
で、冒頭の
駅で親切にしてもらった件ですが。
今回のような事が起きると
迷惑をかけることそのものを全肯定するわけではないけれど、と前置きした上で
生きてるうちは、どうやったって迷惑をかけるような、仕方のないこともある
そういう時に、親切にしてもらった人は
親切にしてもらってありがたい
ということを体感しているので、他人が困ってる時にどういうことが親切か分かるのです。
そこで体感した、親切にされたことを、何年先か何十年先か分からないけれど、どこかで困った人がいた時に、そっと手を差し伸べられる人になってくれたら
今回のアクシデントも人生の糧になる
ということじゃないでしょうか。
幸せやお金は循環するというけれど
親切や優しさも循環するのではないか
と、昨日、ふと思ったのでした
余談だけど
あのアクシデントは、私に
親切心は素直に受け取りなさい
という課題なのかもしれない、と思ってます