『東京都同情塔』@文藝春秋 | yoshi's drifting weblog -揺蕩記-

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私の一番好きな言葉、揺蕩(たゆた)う。……
日常の、ふとした何気ない出来事について、
その揺蕩う様を書き留めていきます。

今年上期の芥川賞受賞作、九段理江の『東京都同情塔』を読了しましたよ。

 

 

 

 

芥川賞は基本的に「面白そうな新人作家を見つけるため」に高校生の頃から全作品読んでいて、今読んでいる平野啓一郎、吉田修一、金原ひとみ、綿矢りさの四氏はその芥川賞受賞作からずっと読み続けている感じです。

 

 

で、まあ面白いなぁと思う作家は何人かいるんですが、それでも受賞第一作(いわゆる次回作)も読みたいと思うような人ってなかなか出てこないんですよねぇ。

 

 

青山七恵とか佐藤厚志とかは面白いなぁと思ってハードカバーで買ってたりするんですけどね。、

 

 

それと、選考委員による選評を読むのも面白くて、いわゆる一流作家がどのようにして小説を読み解いてるのかというのが知りたいんですよね。

 

 

かつては石原慎太郎とか村上龍とか宮本輝とかいたりして豪華でしたが、今は平野啓一郎、吉田修一といった私が最も読み込んできた作家が選考委員に名を連ねているので、殊更に読み応えのあるものになってますね。

 

 

そんでもって、山田詠美がかつての石原慎太郎ポジションに収まって怪気炎を吐いてるのが違う意味で面白い。

 

 

 

 

さて今作。

 

 

世間的な注目のされ方としては「AIが文を書いた」という点かもしれません。

 

 

印象として「AIが描いた絵が人間の描いた絵よりも上手い」みたいな話題が先行してたこともあってか、「AIが描いた文章は人間が書いた文章よりも上手い」みたいな先入観があったのかもしれないですが。

 

 

AIに書かせるなんて、狡いじゃないか!みたいな?

 

 

でも、作品を読めば、そんな風に使われているわけなんかないとすぐに分かるわけです。

 

 

作中、AI翻訳機能が登場して、登場人物がそれに対して「この文章を角が立たないようにふわっとした言い方に変えて」みたいな指示をする場面があるんです。

 

 

そこでAI翻訳機能が登場人物の文章をふわっとした言い方に変えるくだりが続くんですが、そこで書かれる文章は、当然AIに書かせた方がリアルですよね。

 

 

その部分まで人間が書いてしまうと、多分、歪んじゃう。

 

 

それを嫌って、作者は本物のAIを活用したわけで、それは別に不正でもなんでもない。

 

 

で。

 

 

そうまでして作者が描きたかったテーマは何か?

 

 

それは「言語」というもの。

 

 

私たちが普段使っている言葉・言語、その使われ方に対しての思考が巡らされております。

 

 

ざっくり言ってしまえば、「その使い方、雑すぎない?」ってことですよね。

 

 

おそらく、SNSだったり動画配信だったり、そういった場面において私たちが世に放っている言葉の、その軽さ。

 

 

あまりにもその向こう側に対しての思慮が浅すぎる、と。

 

 

ただ、そんな直截的なメッセージ性はないです。

 

 

でも、そういう風に受け取れる。

 

 

でもって、そこに加味してくるのが、ザハ・ハディドが作ろうとした東京オリンピックのスタジアム。

 

 

実際には廃案になりましたが、この物語においてはそのハディドのデザインしたスタジアムがちゃんと完成され、そしてその隣に東京都同情塔なる建築物が建っているという、ちょっとSF風味が入っております。

 

 

この2つの建築物が示しているのは、やはり言語に対する構築、構造、その「不自然さ」。

 

 

ハディドのスタジアムのデザインの、その奇抜さ、そして作中においては対案として出てきた隈研吾のデザインに対しても、その構造の、良いとか悪いとかではなく、「そこに思考が巡っているのか?」という論考。

 

 

ハディドのデザインは決して浅はかなものではなく、ちゃんと東京の未来を考えてデザインしてくれたものである、と。

 

 

対案の隈研吾のデザインは、東京の過去しか反映せずに、未来に繋がらない、と。

 

 

それが合ってるとか間違ってるとかではなく、そういう視点があるということ。

 

 

そこですよね。

 

 

で、そんなスタジアムの隣に建築された東京都同情塔(シンパシータワートーキョー)は、「犯罪者は犯罪をしたくて犯したのではなく、生まれ育った背景の不幸がそうさせたのだ」「つまり、彼らは同情に値する存在なのだ」「なので、彼らは服役中にその生まれの不幸を癒す必要がある」という理論の元、1箇所に集め、世間との関係を断つ代わりにバカンス的な服役ができる、というもの。

 

 

まあ、言いたいことはわかるけど、そんなもの許されるわけがねえだろ!と思うようなシステム。

 

 

そこでも作者がこめているのは、日本人のその寛容すぎる緩さ。

 

 

あるいは無関心さ。

 

 

そういった、日本人の言語(延いてはコミュニケーション)に対する雑さ、他者に対する無関心さといったものが綯い混ぜになった構成になっております。

 

 

なかなか面白い作りの小説だなぁと。

 

 

でも、読み終わって、なんか、残るものがなかった感がありますね。

 

 

(俺は一体、何を読まされてるんだろう?……)

 

 

といった感が。

 

 

多分、もう一回読み返せば伝わるものがあるんだとは思います。

 

 

マーカーを引き直すことで印象も変わる。

 

 

でも、なんかこう、一発で掴んで欲しいのですよね。

 

 

多分、あれですかね。

 

 

ここに「物語」がなかった気がします。

 

 

ドラマがないと、飲み込めないんですよね。

 

 

そこらへんがちょっと残念だった気もします。

 

 

でも、世界観は面白かった。

 

 

取り分け、ザハハディドのところ。

 

 

というわけで九段理江の『東京都同情塔』堪能いたしました。

 

 

さて次回。

 

 

いよいよですかね、坂本龍一の本を読んでいきます。

 

 

ではでは。