安野光雅さんの『絵のある自伝』と、私の最初の復刊の仕事。 | 絵本沼

絵本沼

絵本を読み、愉しみ、考えて、ハマる。

2021年1月17日(日)、『絵のある自伝』(安野光雅/2011年/文藝春秋)を再読。

 

 

本書は日本経済新聞連載「私の履歴書」の安野光雅さんの回を中心にまとめたもの。


安野先生は1926年(大正15)に島根県津和野町の宿屋の息子として生まれ、19歳の時に敗戦を経験、21歳で小学校教師になり、その2年後、縁あって玉川学園に美術教師としてスカウトされ、上京することになる。

東京へはいつか行きたいと思っていた安野先生。

が、この上京のくだりは興味深くて、本書では下記のように記されている。

(玉川学園学長からのスカウトで上京したものの学長になかなか会うことができず)と、驚くなかれ、「マタ、ヤッタカ」と哀れんで「昼ご飯を食べに来い」といってくれた教授があった。(中略)あの一種のスカウトは、酒の席のスタンドプレイだったとおもわれるふしが窺えたが、今さら国へ帰ることもできなかった。

これは焦る。。

その後なんとか学長に会うことができ(この時、学長は酒に酔った状態だった)、23歳の安野先生は予定どおり玉川学園に勤めることにはなったが、心の中ではこの時点ですでに、「ここは早く辞めよう」と決めていた。

で、不安からはじまったこの縁は、その後の縁へとつながっていく。

------------------

一年後、安野先生は東京都の教員試験に合格し、玉川学園を辞めて三鷹市の小学校教員になった。

決めたことはきちんと実行。

 

その後、武蔵野市の小学校へ移り、並行して画家としても活動し、35歳の時に、教師を辞めて画家としてフリーランスになった。

時は1961年、敗戦から16年が経ち、日本は高度経済成長期のど真ん中で、3年後には第一回東京オリンピックも控えていた。


画家として独立したものの、小さなお子さんがふたりいたこともあってか、安野先生の友人が心配され、勤務先の明星学園での美術教師の職を紹介する。
安野先生はこれを受けられ、明星学園で週一回、児童たちの可能性を引き出す独創的な美術教育を実践していく。
 

この時の教え子に松居和さんと言う少年がいた。

父は、当時『こどものとも』(福音館書店)編集長だった松居直先生。

縁あって、安野先生はある日、当時杉並にあった福音館書店を訪れた。

M.C.エッシャーの画集を見せながら語る安野先生に、松居先生は思わず、「絵本を描いてみませんか?」と誘った。

こうして、1968年、画家・安野光雅42歳は、『ふしぎなえ』(こどものとも144号(1968年3月号))を上梓し、絵本作家としてデビューする。

 

 

この絵本には、話(ストーリー)も言葉も無かった。

絵本はなんでもできて、なにしてもよくて、絵本ってのは本当に自由だ。

同年の『こどものとも』には、『ぞうくんのさんぽ』(なかのひろたか/なかのまさたか)、『だるまちゃんとかみなりちゃん』(加古里子)、『ごろはちだいみょうじん』(中川正文/梶山俊夫)などがある。

------------------

話変わって、時は一気に進んで2006年の夏。
復刊ドットコムで働くことになった僕は、当時の上司とふたりで新宿のとある高級ホテルの喫茶店へ向かい、ある絵本の復刊について、安野先生と打ち合わせをすることになった。

はじめての復刊の仕事で、ご相手はリビングレジェンドで、めっさ緊張。

待ち合わせ時間になり、おひとりでフラっと現れた安野先生は、明るい色のシャツにオーバーオールという装いだった。
出で立ちだけでなく、お話しているうちに、失礼にも、「こんなにカッコいい80歳の方っていらっしゃるんだ…」と感動し、僕は仕事を忘れて聞き入っていた。

そして、安野先生のご意見で、その絵本のラスト場面に、小さくはない修正を入れることになった。

 

 

「復刊は底本の形のママがベスト」と思い込んでいた僕にとって、このことは驚きであり、その後の復刊案件のポリシーになった。

絵本ってのは自由だ。


------------------

安野先生が94歳でお亡くなりになられた。
合掌。
ありがとうございました。

 




■参考
『絵のある自伝』(安野光雅/2011年/文藝春秋)
『絵本作家のアトリエ 2』(母の友編集部/2013年/福音館書店)
『別冊太陽 安野光雅の世界』(2001年/平凡社)
『日本児童文学別冊 現代絵本研究』(1977/ほるぷ教育開発研究所)
『おじいさんがかぶをうえました』(2005年/福音館書店)