出版流通を川上(出版社などのメーカー)と川下(書店、ネット書店、コンビニエンスストアなどの小売)に分けた場合、それを結ぶものとして「取次(とりつぎ)」と呼ばれる中間流通業者が存在し、日本の出版流通の大部分は取次を通したものになっている。
で、取次と川下はほぼ一直線だが、川上と取次の間にはいくつかバリエーションがある。
たとえば「口座貸し」という請求・精算代行がメインの出版社(星雲社など)がいたり、「仲間渡し」と呼ばれる取次同士の商品の受け渡しがあったり。
その中には川上と取次を「卸し」で結ぶ中間取次と呼ばれる流通業者がいて、これの代表格は、なんといっても地方・小出版流通センターだろう。
ここのアンテナショップの「書誌アクセス」が神保町から無くなって久しい。
日本の出版流通を広くしたプレーヤーとして、地方・小出版流通センターの存在は大きい。
他にも中間取次の大どころとしては八木書店、東京官書普及、鍬谷書店、大学図書などがあるが、それぞれの特徴として、ある程度ジャンルに特化しているということが挙げられる。
楽譜なら松沢書店、医書ならば鍬谷書店と西村書店、ビジネス書なら明文図書、地図ならば地図教販、人文書なら鈴木書店、などなど。
明文図書と地図教販と鈴木書店は廃業してもうたか…。
で、極めてジャンルに特化した中間取次として、日本キリスト教書販売(日キ販)がある。
文字通り、扱っているのはキリスト教関連図書のみという、際立った個性だ。
逆に言うと、こういう中間取次が成り立つのは、日本にはキリスト教関連の出版社がたくさんあり、毎年数多くの関連図書が刊行されているということでもある。
そんな中、絵本はジャンルというより表現形式であり、それ自体で出版物のあらゆるジャンルを包括している。
読み物的なものがあれば学習書的なものがあり、科学書的なものもあれば芸術書的なものもあり、そして、宗教書的なものも数多くある。
そして、宗教書的な絵本の中でもキリスト教のものは、やはり、日キ販経由の銘柄が多いのだった。
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話はすこしかわって、宗教書的な絵本を読むといつも思うのは、児童にどのように宗教を伝えるんだろう?ということなのだった。
たぶん重要なのはバランス感であり、浅すぎると伝わらず、深すぎるとより伝わらず、みたいな調整が必要になり、特に絵本となるとその調整が特に難儀になるのではないかと。
で、宗教絵本としてのバランスがすばらしいと感じたのがこの絵本なのだった。
『ひがしのくにのはかせたち (はじめに読むせいしょ―えほん聖書新約シリーズ)』(拓新太朗絵/宮西いづみ文/1992年/いのちのことば社)を入手したのは、所沢で毎年開催される古書市だった。
本書は新約聖書の「東方の三博士」を題材にしていて、内容をざっくり言うと「イエスが生まれた時、星が天に昇り、それを観た東方の三博士がイエスの元へ祝福に参じる」という話で、これがとてもよくできている。
場面はほぼ見開きで構成され、引きとアップのメリハリが効いており、序盤のヘロデ王の驚きや、終盤の三博士が神の啓示を受ける場面(上記、これにより死を回避)など、「東方の三博士」のドラマチックさがリズムよく淡々と表現されている。
本文はひらがなとカタカナのみに絞っていてルビは使用していない。
また、文章表現は平易ながらカチっとしていて、扱っているテーマに引っ張られないよう、フラットでストレートなものになっている。
そして、全体的にやわらかいつくりだが、見返し部分には羊が本を読むイラストがあり、扉前には「はじめのいのり」、奥付前には「おわりのいのり」があり、けじめ的な厳かさが添えられている。
表現的には間口を広くして、内容的にはけじめをつける。
ここがポイントで、それが「布教」というものに付随することなのだろうなあ、などとぼんやりと思った。
本作はハッピーエンドだが、聖書ではこの後、エルサレムで赤ちゃんの虐殺が起こり、イエス達はエジプトに逃れるというハードな展開になる。
それを踏まえた上での演出でもあるのだろう。
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この絵本、どれくらい売れたのだろうか。
私が持っているのは1992年初版の1998年3刷。
内容的には古さはまったく見られず、そもそもそういう類のものでもない。
で、本作の著者の拓新太郎さんは、宮西達也先生の別ペンネーム。