[大嶺海軍採炭支所]大嶺炭田

山口県美祢市大嶺町

 

大嶺炭田は明治10年頃に発見され、山口県美祢市から下関市にかけて分布する炭化が進んだ無煙炭の日本最大の産地として知られていた。幕末〜明治期初期は石灰の焼成用や銅鉱の精錬用の燃料として使われ、明治30年9月に渋沢栄一ら4名の発起して長門無煙(株)が稼行した。

 

明治37年、長門無煙(株)と周辺は海軍に買収され、海軍直轄の鉱山「海軍練炭製造所採炭部大嶺海軍採炭支所」となる。既存の荒川坑・桃ノ木坑のほか、椀ヶ谷坑・草井川坑・桃ノ木坑(北坑・南坑)を開坑して拡張(拡張は明治42年度他にも行われているようだ)。

 

 

海軍艦艇の燃料国産化と練炭使用推進という課題解決の切り札として期待された大嶺炭田の無煙炭であったが、結果的には海軍の期待に十分応えられなかった。

①大嶺炭田の無煙炭の品質:海軍艦船用の練炭は、第1種練炭(戦闘用)と第2種練炭(通常時)の2種類に分けられていた。大嶺炭田の無煙炭は第1種練炭の原料としては不適格とされた。第2種練炭(通用時)の原料として使用するが、不純物や不良炭を取り除く洗炭するもその効果が薄く、焼塊(clinker)が出来やすい欠点があった。

 

②生産量:海軍練炭製造所採炭部は、大嶺炭田の年間石炭運搬量を15万トン以上を考えていたが、概ね5万〜6万トンしかなかった。

海軍は大嶺炭田の代わりになる第1種練炭(戦闘用)を探し、フランス領インドシナ産のホンゲイ炭(ベトナム北東部)を輸入することになったが、大韓帝国平壌産の平壌炭は品質が良く埋蔵量も豊富なため、明治41年に平壌産の無煙炭の使用が開始され、以後、海軍用練炭製造の主力になる。 

 

 

第1次世界大戦を契機に、艦船のエネルギー変換(無煙炭→重油)もあり、大正12年1月に大嶺海軍採炭支所の廃止を決定した。大蔵省の管轄に移行し、同年6月に払い下げられ、大正13年1月に民営化された(山陽無煙炭鉱株式会社、大嶺無煙炭鉱株式会社など→改編を繰り返し昭和19年には宇部興産株式会社山陽無煙鉱業所に統一される)。

 

 

昭和10年代には工業用石炭として重宝され、戦後は朝鮮特需で炭鉱は大いに賑わい、昭和41年頃〜45年まで「桃の木露天」が開発され、大嶺炭田は近代的な設備投資で採掘最盛期を迎える。だが資源の枯渇とエネルギー変換(家庭用プロパンガスや都市ガスの普及など)もあり昭和45年頃に大半が閉山された。昭和54年11月に吉部鉱業美祢炭鉱が露天掘りを開始し、大嶺炭田は復活するも操業休廃止しながら2002年頃に閉山。

大嶺支線(大嶺線)
海軍直轄の鉱山「海軍練炭製造所採炭部大嶺海軍採炭支所」から生産される無煙炭の出炭のため、山陽鉄道株式会社が鉄道建設を行い、明治38年9月13日に厚狭~大嶺間(19.6km)が開通した(明治39年12月に山陽鉄道株式会社は国有化)。厚狭には臨時海軍練炭製造所(のちに海軍燃料廠となる)があり、ここで無煙炭を粉末化して煉瓦状に加工して出荷した、らしい。

 

美祢軽便鉄道の買収に伴い大嶺線は美禰線となり、大正13年3月23日に正明市(長門市)まで延伸した。昭和45年に炭鉱の大半が閉山したため輸送量が激減し、昭和58年には大嶺支線(南大嶺駅~大嶺駅間 の2.8km)の貨物営業を廃止。平成9年4月には大嶺支線そのものが廃止された。←ちょっと曖昧デス(_ _)

 

荒川水平坑跡

 

無煙炭を採掘した大嶺炭田で、現在見られる坑道口で最も古く、海軍直轄鉱山時代の明治38年に完成した。戦時中は弾薬貯蔵庫/燃料庫として利用されたようだ。

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坑道からはトロッコの軌道が延びている(スパッと切られているけど)。

 

民営化後は改編を繰り返し、最終的に宇部興産株式会社山陽無煙鉱業所に引継がれたが、昭和45年に閉山した。

 

だが昭和55年より吉部鉱業株式会社美祢炭鉱として採掘を再開したが、平成3年(1991年)閉鎖し現在に至る。平成13年9月に「荒川水平坑」の坑口とその奥の煉瓦巻坑道30mが、美祢市の有形文化財として指定を受けた。

 

海軍直轄時代も関係ありそうな坑道だけど、坑口はコンクリート。

(荒川水平坑のすぐ近く)

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海軍キーストーン

 

明治41年、海軍直轄時代に開発された桃ノ木坑の坑道口に設置されていたもの。海軍のシンボルであったサクラとイカリのマークが刻まれている。2007年に現在の場所に移された。

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広島捕虜収容所第6分所(大嶺分所)跡地=白岩親和寮

昭和17年11月26日、八幡仮捕虜収容所宇部分所山陽派遣所として、山口県美祢郡大嶺町白岩に開設された。捕虜収容所の名称は何度か改編され、昭和20年4月に広島捕虜収容所に移管、同年8月、広島捕虜収容所第6分所と改称された。

 

使役企業は宇部興産株式会社山陽無煙炭鉱業所で、終戦時収容人員472名(米国籍兵288/英国籍兵184)。収容中の死者は31名。捕虜釈放は昭和20年9月20日頃。監視員の日本軍兵士が東京裁判BC級戦犯として裁かれたらしい。現在は収容所跡地に鎮魂碑が建つのみ。

 

 

大嶺海軍採炭支所時代ではないが・・・

美祢斜坑

大嶺炭田の主要炭鉱。

昭和15年開坑、昭和45年11月27日に閉山。

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沈殿槽

石炭を洗炭、汚水は濾過して川に流していた。

温泉のような硫化水素臭(いわゆる硫黄臭)がする。

 

材料斜坑坑口(山陽無煙鉱業所時代)

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