[内之浦臨時要塞]内之浦要塞砲台(有明砲台)①穹窖砲台①

鹿児島県肝属郡肝付町(国道448号線沿い/公衆トイレ完備の海蔵休憩所)

 

志布志湾は大隅半島東岸に面した円弧状の湾。鹿児島県肝属郡肝付町火崎から宮崎県串間市の都井岬まで、その円弧状の湾岸総延長は約80km。それらを結ぶ湾口は約20kmほど。志布志湾は敵軍の3個師団が並列して上陸できる長さがある。

 

「志布志湾に上陸するであろう敵軍を殲滅(志布志湾口の閉塞)、志布志湾から飛行場がある鹿屋への滲透の阻止する」ために、主力は志布志湾沿岸にあって、本土決戦用の沿岸骨幹砲兵陣地の築城ならびに訓練に専念した。湾内の権現島や枇榔島はもちろん、志布志湾に沿った総延長16キロの台地に構築されている。

 

志布志湾南部の沿岸部の山々には波見砲台、内之浦要塞砲台(有明砲台)の2つの重砲陣地、少し内陸の大塚山拠点にも重砲陣地があるので、15センチ以上の砲を持つ重砲陣地は計3ヶ所になる。

出典:戦史叢書57巻 本土決戦準備<2> -九州の防衛-』(防衛庁防衛研修所戦史室)付図第4「第86師団(大隅集団)の志布志湾沿岸における配備計画図(昭和20年8月頃における)」、抜粋・加工

 

志布志湾南端の海蔵地区には、重砲兵第15連隊本部があり、穹窖砲台で構成する内之浦要塞砲台(有明砲台)がある。重砲陣地は7ヶ所(備砲は15センチ加農砲7門:計画は8門)、観測所3ヶ所、150糎センチ探照灯1基がつくられた。

 

重砲の内訳は下記の通りだが、どの砲が何処に配備されたかは不明。

・96式15糎加農砲 2門

・45式15糎加農砲 1門

・7年式15糎加農砲 4門
 

出典:国土地理院 1947/09/18(昭22) USA-M489-1-34、抜粋

 

国道448号線沿いにある海蔵休憩所

近くに日本初の国産人工衛星「おおすみ」の受信アンテナが置かれている。

 

立て看板がある

 

案内版:

『この洞窟は、昭和19年第二次世界大戦のときに米軍の志布志湾上陸を阻止するために造られた砲台跡です。このことについて、内之浦町出身で芥川賞候補作家である太佐順氏が執筆した「砲台跡の夏草(日米決戦と志布志湾)」の中に次のように紹介されています。

この陣地の大砲は、もともと佐賀関町に本部のあった豊予要塞砲を取り外してきたものである。豊予要塞砲兵連隊長の矢野穆彦中佐とその一中隊を新たに編入させると、完成した砲台の試射を軍本部に申請した。さらに石黒豊治大佐ひきいる重砲兵第十五連隊1221名が、独立混成九八旅団(堅志兵団)の一翼としてその指揮下に入った。


内之浦に駐屯した部隊の変遷はいささか複雑である。砲台構築を目的とした有明作業隊が釆たのが昭和19年9月、部隊編成は豊予要塞本部隊が主軸である。山口県から歩兵一個大隊、広島から工兵大隊、久留米から自動車中隊、佐世保から僧兵一個中隊、下関から砲兵一個中隊、対島の厳原から砲兵二個中隊を抽出して、内之浦臨時要塞の築城作業にあたらせたものであった。

 

そしてこの作業隊は海蔵から高崎へかけての砲台陣地と、志布志湾に浮かぶ二つの島、枇榔島と鬢垂島に、10センチ加農砲二門と12センチ砲二門を据えつける砲兵洞窟陣地を完成させると、20年3月中旬、有明守備隊の主要部隊となった第十五重砲兵連隊(石黒豊治大佐)にそれらを引き継ぎ、次の築城場所である佐多の伊座敷へ移動していくことになった。』

 

*

昭和19年後半以降につくられた典型的な穹窖砲台だ。

 

跳弾用の段々が右側のみ

左側は砲身を納めるための溝があるのかもしれない(土砂堆積で確認できない)

 

例:渡良大島の穹窖砲台

(45式15センチ加農砲改造固定式)

出典:[壱岐要塞]渡良大島砲台③穹窖砲台①②

 

 

 

 

 

 

 

砲室を覗く

またもや水没・・・

 

 

 

内側から外を見る

 

 

備砲が何だったか不詳だが、15センチ加農砲の穹窖砲台のような気がする。

 

 

 

つづく

 

 

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