[対馬要塞](昭和期)龍ノ崎第1-2砲台④:豆酘崎観測所

 

着工:昭和8年(1933年)8月

竣工:昭和11年(1936年)3月31日

備砲:50口径30糎加農砲×2門(砲塔1基)

設置:標高100/120.15メートル

 

龍ノ崎第2砲台(と南東約300メートルにある龍ノ崎第1砲台)は、対馬の南東にある安神浦の南の山塊(厳原町安浦)につくられた。壱岐要塞と共に朝鮮海峡(対馬海峡)の東西制海権死守を任務とする。

 

龍ノ崎第二砲台の備砲は、ワシントン海軍軍縮会議(大正10年/1926年)で廃艦が決定した戦艦摂津の前部(?)主砲を転用している。なお大正13年9月着工(昭和4年3月竣工)の龍ノ崎第1砲台は、同じく戦艦摂津の後部(?)主砲を転用している。

 

 

 “對島要塞重砲兵聯隊史/壱岐要塞重砲兵聯隊史”によれば、「観測所は第1砲台の東南約580メートル(標高120メートル)と、同じく第1砲台の西南約1,050メートル(標高135メートル)につくられた。観測所は鉄筋コンクリート造地下構造物で、88式電気式算定具を収納した」と書かれている。

 

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2ヶ所ある観測所

・第1砲台の東南約580メートル(標高120メートル)は龍ノ崎にある下対馬警備所辺りだろう。

・第1砲台の西南約1,050メートル(標高135メートル)は豆酘崎の尾崎山の山頂辺りだろう。

 

下対馬警備所は海自の敷地内で入れず。

尾崎山はOK!

 

ということで尾崎山を登り豆酘崎観測所へ。

 

 

対馬には戦後14年間(1945年11月ー1959年5月)、日米安保条約に基づく駐留軍として通信施設や通信隊が置かれた。ここ豆酘崎には1958年末まで電探基地があった。

 

そのため豆酘地区の旧軍の設備は、戦後動乱期の鉄ドロボーの被害を免れた。今もほぼオリジナルのまま、である。そして観測所は装甲掩蓋が現存!(・∀・)

 

 

金庫式気密鉄扉がお出迎え(^o^)

 

 

向かって右に鉄製ハシゴも現存。

 

 

地上と上空から露出する部分には、擬装(反射避けとペイント)が施されています。

 

 

擬装網を掛けるフックも現存(^o^)

 

 

 

中に入ります。

 

ちなみに鉄扉はヒンジ(蝶番)が錆びているせいなのか、扉がクッソ重たいのか動きませんでした。

 

 

 

内側には木製の引き違い戸があったようで。木製のスライド溝は2本なので2枚扉。

 

では、入室(・∀・)

 

 

おおおおおおおお!

装甲掩蓋(天井)がまんま現存している!

圧巻ですワ

 

テンションMAX(・∀・)

 

 

 

88式海岸射撃具観測所の配置図

左右対称など差異、配置は様々。

出典:浄法寺朝美「日本築城史-近代の沿岸築城と要塞」、2枚とも

 

出典:アジア歴史センター(C01001117400)八八式7糎野戦高射砲仮制式外3点審議の件:88式海岸射撃具審査通過経過の概要より図録、抜粋

 

算定具室から通信室と出入口、暗い左は指令室

 

入ってすぐの部屋(通信室)から、左奥の算定具室、中央の輝いている観測具室、右の暗い司令室をみている。

 

 

 

掩体(天井)が無くなってしまった(破壊された)観測所ばかり見ていたので、これは新鮮ですワ!

 

 

88式海岸射撃具観測所の仕様

・1ー2層の地下鉄筋コンクリート造。

 

・上部掩蓋(天井)は厚さ60センチの鉄筋コンクリートか380ミリ溝形鋼、観測具室は厚さ60センチの鉄筋コンクリートか380ミリ鋼板を菅笠のように加工して周壁にのせる。

 

・上部掩蓋(天井)の上にアスファルト等の防水を施し、その上にコンクリートを打設して固め、更に盛り土をして植栽で擬装。

 

*

88式海岸射撃具観測所は、観測具室、通信室・計算室、算定具室、から成る。指令室を設置している所が多いが、演習砲台付属の観測所は指令室が無いコンパクトな仕様になっているようだ。

 

算定具室から観測具室(右)、通信室・計算室(正面)、指令室(右)をみる。

 

内部は漆喰が塗られており、全ての部屋の床には木板が散乱しているので、室内は漆喰加工+木貼にして万全な湿気対策をしていたのかも。

 

計算室と指令室をみる。

計算室の天井には砲台長鏡潜望鏡用の開口部(覘視口)がある。

 

開口部(覘視口)を見上げてみた。

 

なお開口部は、潜望鏡を出す覘視口、換気のための換気孔の2種類がある。観測所外に転がっていた換気扇は、換気孔にはめ込まれていたと推察する。換気穴があるのは算定具室と計算室の2部屋のみ、転がっていた換気扇も2つ。

 

(換気扇)

 

(算定具室の換気穴)

 

ではメインの観測具室へ。

 

観測具室の掩体(天井)は、菅笠状に加工した鋼板だ。

 

観測具室

 

主測遠機はこんな感じのもの。

 

測遠機だけで3.73メートルと丈高だ。この測遠機を設置するための3本の石柱も高さ1メートルはある。つまり観測具室だけは天井丈6メートル前後になる。他地域の88式海岸射撃具観測所も観測具室は深い。主測遠機の設置仕様書をみると、下1/3は地下空間にある。1階と地下の仕切りは鉄板を敷いていた。

 

観測具室には窓はなく、鋼製の掩蓋(天井)の真ん中に四角い穴(覘視口)があるだけ。この穴から潜望鏡をヌーっと出して観測する。

 

いままで、コンクリートの仕切りと周壁しかない観測所ばかり見てきた。敗戦後、日本に進駐した連合軍(進駐軍)は観測所半を徹底的に破壊したため、筐体と屋根がまんま現存するのは珍しい。

 

ようやく、実情がわかりました!

 

 

掩体の上(盛り土)に上がってみた。

 

「コの字」に囲まれた何らかの機材の台座が2つある。

 

 

 

観測具室の開口部を上から見た!

 

 

計算室と算定具室の天井(掩体)の換気の穴

おそらくここには換気扇がついていたであろう。

 

 

 

掩体の周囲を歩いてみると

 

 

 

 

 

方向を示す標石

 

 

 

防空陣地?的な石垣

 

(用途不明)

 

88式海岸射撃具観測所では、日本で唯一、鋼板の天井が残る観測所かもしれません(^o^)

 

スイカ様のブログ(戦争遺跡に行ってみた。)を参考にいたしました。

ありがとうございます!

 

 

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対馬要塞

 

浅茅湾(浅海湾)竹敷地区にある海軍の拠点(深浦水雷艇隊基地など)の防衛のため、明治20年(1887年)の温江砲台から築城が始まり、日清戦争直前まで4ヶ所の堡塁砲台が築城される。さらに日露戦争までに三浦湾・舟志湾の防衛を加え、合計15の堡塁砲台が築城される。

 

日露戦争後、海岸防御の見直しが議論された結果、大正2年(1913年)と大正6年(1917年)に浅茅湾を中心としたとした7ヶ所の堡塁砲台が廃止される。

 

日露戦争の勝利後、本土と大陸を往来する航路である朝鮮海峡(対馬海峡)の安全を図ることが重要視された。まずこれに関係しない5ヶ所の堡塁砲台が廃止される一方、大正13年(1924年)9月から昭和14年(1939年)までに10ヶ所の砲台が新規で築城された。

 

朝鮮海峡(対馬海峡)の防衛は、リニューアルした対馬要塞と、朝鮮半島南部の釜山にある鎮海湾要塞、下関要塞、新設した壱岐要塞によって、朝鮮海峡(対馬海峡)を網羅した。

 

対馬要塞の昭和期の砲台群は下記の通り

 

龍ノ崎第一砲台

竣工:昭和4年(1929年)3月

50口径30糎加農砲×2門(連装砲塔1基、戦艦摂津の後部主砲を転用)

 

豊砲台

竣工:昭和9年(1934年)3月

45口径40糎加農砲×2門(連装砲塔1基、巡洋戦艦赤城の二番主砲を転用、ただし戦艦土佐説・戦艦長門の説あり)

 

海栗島砲台

竣工:昭和10年(1935年)10月

45式(改造固定) 15糎加農砲×4門

 

龍ノ崎第二砲台

竣工:昭和11年(1936年)3月

50口径30糎加農砲×2門(連装砲塔1基、戦艦摂津の前部主砲を転用)

 

大崎山砲台

竣工:昭和11年(1936年)8月

45式(改造固定) 15糎加農砲×2門

 

郷崎砲台

竣工:昭和11年(1936年)12月

45式(改造固定) 15糎加農砲×4門 

 

棹崎砲台

竣工:昭和13年(1938年)3月

45式(改造固定) 15糎 加農砲×4門

 

竹崎砲台
竣工:昭和13年(1938年)9月
445式(改造固定) 15糎加農砲×2門

 

西泊砲台

竣工:昭和13年(1938年)9月または10月
45式(改造固定) 15糎加農砲×2門

 

豆酘崎砲台
竣工:昭和14年(1939年)1月
連装十五糎加農砲2基×4門

 

なお海軍は、昭和6年(1931年)の満州事変以降、島嶼部に防備衛所/砲台/射堡場(魚雷発射場)などを置き、対潜哨戒を主な任務とする防備隊を開隊している。朝鮮海峡(対馬海峡)は鎮海防備隊(のちに対馬警備隊に再編され壱岐水道と玄界灘も管轄)が担当したが、多くの諸施設が建設途中で終戦を迎えているようだ。

 

第二次世界大戦中、対馬付近に出没した潜水艦が日本の貨物船を攻撃したが、明治期より本格的な戦闘は一度も経験することなく終戦を迎えている。

 

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龍ケ崎第二砲台、豆酘崎観測所

長崎県対馬市厳原町豆酘

「豆酘崎園地」から登る